常識をくつがえす事実

『韓国の大量虐殺事件を告発する』北岡俊明 北岡正敏

 トンさんの証言

 トン氏によると、解放戦線や北ベトナム軍は、これまで何度も米軍と戦闘をしてきた。しかし、村の中では絶対に戦闘をしていない。村が破壊されることを恐れたからである。このため、米軍との戦闘は村からはずれた場所でおこなわれた。米軍も解放戦線や北ベトナム軍とは、真正面から戦ってきた。米軍は虐殺はしなかった。
 われわれは米軍に対して正面から戦ったし、彼らもわれわれと正面から戦った。ゆえに、恨みはなにもない。しかし、韓国軍は、赤子・子供・婦人・老人の住む村の中に侵入して、虐殺をした。韓国軍は戦いもせずに、家々に火をつけ、家畜を殺し、生活ができないようにした。さらに女性を、暴行し、強姦し、子供・婦人を殺した、人間以下の軍隊であるとトンさんは述べた。(p108)


 元解放軍兵士クックさんの証言

 「韓国軍は残虐ですか」と聞くと、「大変残虐だった」と証言した。「アメリカ軍はどうですか」と聞くと、「アメリカ軍は残虐ではなかった」と証言した。これは他の場所でもみんな異口同音に語った。
 ベトナム戦争では、ソンミ事件があって、アメリカ軍が残虐行為を働いたというのが、世界の常識になっているが、これは大いなる誤解である。残虐だったのは韓国軍だった。
 そのことは今回の調査で証明できた。その証拠は、今まで見てきたように、数多くの虐殺碑の存在が証明している。アメリカの虐殺碑はソンミ以外では皆無だった。(p169)

韓国軍は弱かった

『韓国の大量虐殺事件を告発する』北岡俊明 北岡正敏

 トンさんの証言

 最後にトン氏に、米軍と韓国軍はどうでしたかという質問に「アメリカ軍も韓国軍も戦闘は弱かった。特に、韓国軍は問題外で、解放軍と北ベトナム軍により大勢殺されている」といった。元北ベトナムの兵士にとり、韓国軍などは問題外であるという言葉が印象的であった。たしかに、村々には男の人が不在であったため、動ける女性は立ち上がり、韓国軍やアメリカ軍から、武器を奪って戦闘に参加している。この時の状況は、前述の虐殺記念碑の彫刻に記録されている。(p109)


 元解放軍兵士のティさんの証言

 韓国軍が村人を虐殺したという報告は、すぐ解放軍に届いた。われわれは、すぐ韓国軍を撃退するために戦闘を開始した。韓国軍は六〇〇人ほどであったが、ゲリラ攻撃を仕掛けた。三倍や四倍ほどの兵力差でも、戦闘経験のない韓国軍は簡単に撃退することができた。われわれの武器はフランス製の旧式銃であった。韓国軍を自分らの戦場におびきよせた。いろいろな罠や落とし穴に誘い込み、一人ひとりに致命傷を与えた。
 さらに、地面に仕掛けた爆破物や地雷で韓国兵を一人ひとりを殺した。集団で動く韓国兵には、トンネルの中から待ち伏せ攻撃をした。さらに、韓国兵から武器や弾薬を奪いそれを用いて戦闘に使用した。地形を知らない韓国兵は解放軍の罠にはまり多くの負傷者をだした。彼らは地形を知らないために混乱した。
 ここで生まれ育った兵士にとり、韓国軍の動きは手にとるようにわかっていた。戦闘はわれわれ解放軍の完全な勝利であった。ティ氏によると、韓国軍はまともに戦闘のできる軍隊でなく、ヘリコプターや戦車にのってきた戦闘の素人集団であると述べた。
 現在、ティさんは、韓国人を恨んでいないと言った。忘れるようにしてきたそうだ。しかし、心の中には、ぬぐいきれないものがあるようだ。心の中では卑劣な韓国軍への憎しみは永久に消えないとも言った。(p137)


 元解放軍兵士クックさんの証言

 かねがね聞きたいことがあったので、聞いてみた。すなわち「韓国軍は強かったですか」という質問である。韓国は自国で強かったと自慢しており、日本人の著書などでも、検証もせずに韓国におもねって韓国軍は強かったと書いている本がある。しかし、女・子供・老人などの民間人を相手に殺戮した軍隊のどこが自慢できるのか、どこが強かったのか、ちゃんちゃらおかしいと疑問をもっていた。野郎自大は韓国人の特徴だからだ。そこでクックさんに聞いたのだ。
 筆者が、韓国軍は強かったですかと聞くと、瞬時に「フフン」と笑った。見事な笑いだった。思わず、北岡教授と通訳のチュンさんと三人で顔を見合わせた。韓国軍は強かったという神話が消えた瞬間だった。
 クックさんは語る。一八人の解放軍兵士で、三〇〇人の韓国軍を相手に戦い、一〇〇人を殺した。彼らは実戦の戦闘体験がないから弱かったと語った。地下にトンネルを掘り戦った。武器も古い武器が中心だった。ソ連製のAK四七は一九七二年頃から手に入った。アメリカ軍のM2機関銃を奪って戦った。このM2は歴史の古い機関銃で、今も、改良型が全世界で使われている。日本もライセンス生産している。(p171)

元寇は高麗寇だった

『こうして捏造された韓国「千年の恨み」』松木國俊

 一二七四年の文永の役、一二八一年の弘安の役の二回にわたり、元軍は日本に大挙して侵攻しました。実はその時、多くの日本人をむごたらしい方法で虐殺したのは大部分が高麗兵だったのです。記録に基づいて、その実態を確認してみましょう。

 「文永の役」の虐殺

 文永十一年十月五日、蒙古人と漢人からなる混合軍二万人と、金方慶が率いる八千人の高麗軍を乗せた九百隻の元軍船団が、最初に対馬を襲いました。手勢八十騎で立ち向かった宗助国は奮戦空しく多勢に無勢で討ち死にし、日本軍を打ち負かした元軍は島内に侵攻して老人や子供まで悉く斬り殺し、地獄のような有り様となりました。女性は生け捕りにされたうえ、掌に穴を開けられ、そこに綱を通して船べりに結び付けられたといいます。この時の様子が、蒙古来襲関連資料集『伏敵編』(山田安栄編)のなかの『高祖遺文録』(日蓮の遺文を集めたもの)に次のように記されています。
 「去文永十一年太蔵甲戌十月ニ蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有リシニ、対馬ノ者カタメテ有シ、総馬尉等逃ケレバ、百姓等ハ男ヲハ或ハ殺シ、或ハ生捕ニシ、女ヲハ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付、或ハ生捕ニス、一人モ助カル者ナシ。壱岐ニヨセテモ又如是」
 百姓とは一般人のことであり、この記録にもはっきりと一般人の男は殺されたり生け捕られ、女性は手に紐を通されて船に結わえ付けられたり、生け捕りにされて一人も助かるものはなく、壱岐でも同じだったと書かれています。さらに編者の山田安栄氏はこの部分に、次のような解説を加えています。
 「索ヲ以テ手頭ト手頭トヲ連結シタルニ非ズシテ、女虜ノ手掌ヲ穿傷シ索ヲ貫キ舷端ニ結著シタルヲ謂フナリ。日本書紀天智帝二年紀ニ、(百済王豊璋嫌福信有謀叛心以革穿掌面縛)トアリ以テ證スベシ」
 つまり編者は、「百済王豊璋が福信に謀叛の心があるのを嫌って、革をもって掌を穿ち縛る」という記述が日本書記にあることから、古来より朝鮮半島には手に穴を開けて革や縄を通すやり方があり、捕えられた女性たちは縄で手を縛られたのではなく、手に穴を開けてそこに縄を通されたと断じています。それが朝鮮半島の伝統的行為である以上、壱岐対馬での残虐行為は当然、高麗兵の仕業だったのです。
 その後、博多湾に上陸した元軍は日本軍の激しい抵抗に遭って僅か一日で退却し、博多湾を出た途端に暴風雨(神風)にあって大半の船が沈没しました。それでも逃げ延びた元軍は帰途、再び壱岐対馬に上陸して童男、童女二百人あまりを捉えてフビライ王に差し出しました。せめてもの戦功としたかったのでしょう。

 高麗王がフビライをけしかけた「弘安の役

 弘安四年五月、元軍は再び日本を襲いました。今回は東路軍四万人、軍船九百隻、江南軍十万人、軍船三千五百隻で、前回より遥かに大軍でした。実は、この第二回目の日本侵攻をフビライに勧めたのが高麗の忠烈王でした。彼は一二七八年にフビライに対して、次のように訴えています。
 「日本はただの野蛮な島でありながら、交通の難しいのをいいことに元朝に来貢せず、あえて皇帝の軍隊に抵抗しています、わたしが思いまするに、(あの国は)元朝の徳に報いることはありません。この際船を造り食料をためて、罪を強調して討伐しようと思います」(『高麗史日本伝』)
 そして、忠烈王は自ら第二の長官として東路軍の統轄者となり、出発地の合浦で軍馬を閲兵して東路軍を送り出したのです。"元寇"はまさに"高麗寇"ともいえるものでした。

 「千年の恨み」高麗兵の残虐行為

 「弘安の役」では、合浦を出た東路軍はまず独自で壱岐対馬を攻めました。対馬へは高麗軍のみが上陸して文永の役を上回る残虐な殺戮を行い、対馬は再び阿鼻叫喚の地獄絵の世界となりました。その時の高麗兵の残虐行為について、『日本思想体系20』所収の『八幡愚童記下』は次のように記述しています。
 「ソノ中ニ高麗ノ兵船五〇〇艘ハ壱岐対馬ヨリ上リ、見ル者ヲバ打殺ス。人民堪難テ、妻子ヲ引具シ深山ヘ逃入処ニ、赤子ノ泣声ヲ聞付テモ押寄ケレバ、片時ノ命モ惜ケレバニヤ、サシモ愛スル緑子ヲ我ト泣々害シツツ、世ノ中ニ最惜キ物ハ子也ケリ 其ニ増ルハ我身也ケリ」
 高麗の兵は山奥まで掃討しており、赤子が泣けばこれを聞きつけて高麗の兵がやってくるので、泣く泣くわが子を殺すという凄惨な状況が繰り広げられていたのです。
 この折、壱岐に攻め入った元軍は島民を捕え、妊婦の腹を裂いては胎児を摑みだし、乳呑み児は股を引き裂き、捕えた男女は耳や鼻を削り、その苦しむ様を見て楽しんだといわれています。また、ここでも女は犯されて手に穴を開けられて船べりに吊るされたそうです。
 高麗の兵船が特に"残虐的"だったという分析もあり、実際に七百年後に高麗兵の子孫である韓国軍が同じような残虐行為をベトナムでやっています。当時の島民が高麗兵の手にかかるのを恐れ、自分の愛する赤子を殺すという切羽詰まった気持ちになったのも当然かもしれません。元軍は再び暴風雨(神風)によって壊滅しましたが、高麗兵が犯した残虐行為は日本人に大きな傷跡を残しました。
 読者の皆さんは、「むくりこくりの鬼がくる」という言葉をご存知でしょうか。"むくり"は"蒙古"、"こくり"は"高麗"の意味で、子供を脅していうことを聞かせるための言葉です。「むごい」という言葉の語源とも言われています。蒙古人と高麗人の恐ろしさが日本人の心にしっかり刻まれ、それがこのような言葉として現在でも残っているのです。
 文永の役からまだ七百数十年しか経ていません。朴槿恵大統領が「千年の恨み」を言うのなら、まず壱岐対馬に「高麗軍蛮行の碑」を立て、教科書にもしっかりと高麗兵の残虐行為を書き、"高麗寇"被害者遺族に心からの謝罪と補償をするのが先決でしょう。(p179)


『韓国の大量虐殺事件を告発する』北岡俊明 北岡正敏

 元寇高麗兵(朝鮮兵)の再来である
 韓国兵の民間人の殺し方は、残虐きわまりない。異常を通り越し、狂気である。この世のものとは思えない殺戮をしている。
 強姦し、放火し、妊婦の腹を裂き、首を斬り落とし、手足を切り裂いた。しかも、女、子供、老人、老女、ゼロ歳児もいる。とりわけ、女性が圧倒的に多い。今回の調査で確認した。虐殺場所によっては、ほとんど全部が女性だった。ゼロ歳児、一歳、二歳、三歳…と一〇歳未満の幼児を平気で殺戮している。これは鬼畜か悪鬼の仕業だと思った。
 食べものを与えるとウソを言って村人を集めて、手榴弾を投げ込み、銃撃し、殺戮した。あまりの残虐性に、調査しながら嘔吐を催すほどであった。これ以上の残虐行為は、この世に存在しないだろうと思った。
 筆者たちは歴史を思い出した。これは八〇〇年前の元寇の時、対馬壱岐を襲った高麗兵(朝鮮人)の残虐行為とまったく同じである。これは二八頁の絵1・2をみると、殺戮のやり方が八〇〇年後の韓国兵とまったく同じである。……
 ベトナム政府は「過去にフタをしよう」という政策を出している。韓国政府はその善意に悪のりをしている。しかし、我々が調査した村々の、素朴な農民は、みんなしっかりと韓国軍の残虐行為を記憶している。今もなお韓国に対して恨みをもち、復讐したいと言う人が数多くいる。この事実を、韓国人はしっかりと胸に刻んでおいたほうがいい。今、ベトナムに大量進出し、大きな顔をしているが、自分たちの先祖が行った「人道に対する罪」という戦争犯罪が明るみでる時がきたのである。「天網恢恢疎にして漏らさず」である。

 壱岐にある少弐の千人塚
 壱岐元寇七百二十年記念実行委員会が編集し、白石一郎氏が監修した「元寇」には、千人塚についてつぎのような説明がある。
 「壱岐に上陸した高麗軍は島の人々を見つけ次第殺しました。男女子供の区別なく極めて残酷な方法であったと伝えています。乳のみ子の股を引きさいたり、壮年の男を捕えると耳や鼻を刃物でそぎ落とし、その痛さに苦しみもがくようすを楽しんだともいいます。また、女性を捕えて一ヶ所にあつめ、掌に穴をあけ網を通して引きずりまわし、ついに軍船の船べりに結びつけ瀕死させたといいます」。

 元寇・高麗兵(朝鮮兵)の残虐ぶり(『元寇反撃護国美談』より)
 絵は壱岐における残虐行為を描いたものである。絵1は戦死した日本軍の肝を食べ、血をすする高麗兵である。絵2は槍で女性を刺殺し赤子を踏み殺している高麗兵が描かれている(柴山居士『元寇反撃護国美談』護国堂)。(p25)

今想え、西郷南洲「立国の気概」

『完本 南洲残影』江藤淳 文春学藝ライブラリー

 それから、いわゆる構造改革という問題が出てきた。品目でなく、問題は日本の社会そのもの。ノン・タリフ・バリア(非関税障壁)だ。文化そのものが規制になっているから、次々に変えなければならないという話になった。結局、この日本の市場開放の問題が、規制緩和問題になり、その裏の姿が行政改革になり、金融分野、情報通信分野が規制緩和の対象としてクローズアップされるようになってきた。(p243)


 ただ、問題は、そういうことが何を意味するのか、一言も説明されないうちに起っているということです。それを政治家が説明せず、国会で議論せず、雑誌・新聞等においても、何も説明がないという状態で過ぎているから、日本人は、今、国の輪郭が軍事的にどうなっているか何も知らされていない。同じように、経済的、産業的、金融的にどうなっているかについても何も知らされていない。(p245)


 しかし現在、日本の政治を見るならば、自社さに支えられた橋本内閣は、経済・財政政策で再三失敗を重ねて来たにもかかわらず失敗を認めず、いまだに生き続けようとしている。たとえクビのすげ替えでもよい。せめて内閣総辞職をして新しい総理のもとでやり直すくらいの責任を取らないと、日本はますますだめになるばかりではなかろうか。(p258)

日韓合邦には朝鮮人も各国も賛成していた

『日本を呪縛する「反日歴史認識の大嘘』黄文雄

 前述のように、日清戦争の結果、日本は清に朝鮮の独立を認めさせた。それにより、朝鮮国内において、近代化をめざす改革派の勢いが増した。だが自らの権限確保を目論む朝鮮国内の王室をはじめとする守旧派は、日本が三国干渉に屈する様を見るや、今度はロシアに事大するようになった。一八九六年には高宗をロシア公館に移し、政権を奪取するというクーデターが起こった。これが「露館播遷」である。高宗は日本の影響力排除を目論み、改革派を弾圧した。
 一方、ロシアは一九〇〇年の義和団の乱を口実に満洲へ侵攻、これを占領した。ロシアの南下が現実になったことで、日本では脅威論が高まった。英米日はロシアに抗議し、ロシアも撤兵を約束したが、逆に増兵するなどの背信行為を行い、さまざまな交渉も決裂、日露戦争へと進展した。
 このような情勢下でも、高宗はロシアに密書を送るという密使外交を続けていた。そこで日本は、一九〇五年に第二次日韓協約を結んで韓国統監府を設置、高宗から外交権を奪った。日本は日露戦争に勝利し、ロシアの朝鮮半島への介入を阻止した。だが、一九〇七年、高宗は第二次日韓協約の無効を訴え第二回万国平和会議に密使を派遣するという、ハーグ密使事件を起こす。だが、そもそも高宗の態度は、外国の威を借りて日本を排除しようという「夷をもって夷を制する」であり、それまでも無節操な事大を繰り返したため各国の信頼を失い、この訴えは退けられる。
 日本は高宗の行動に激怒、朝鮮内の改革派ももはや李朝朝鮮での自主改革は無理と諦め、日韓合邦を望むようになっていった。そして、高宗を退位させ、流れは日韓合邦へ大きく傾いていったのである。
 だが、日韓合邦は日本が一方的に望み、押しつけたものではなかった。日韓合邦については、当時、日本と韓国の双方とも、政府、民間を問わず、賛否両論の論議が交わされていた。日本国内では、最後の朝鮮統監にして後に初代朝鮮総督となる寺内正毅などが合邦の推進派であったが、同じく統監経験者の伊藤博文、曾禰荒助は反対していた。
 また、日本の世論の多くは、日韓合邦が百害あって一利なし、とまで極論していた。
 一方、韓国では儒林・両班の多くが合法に反対したものの、一〇〇万人の会員を有すると称する朝鮮最大の政治団体一進会をはじめとする合邦推進諸団体が、韓国の混乱と衰微を食い止める手段として合邦に希望を抱いていた。
 一進会は、韓国の凋落の原因が自分たちの反省と自覚の欠如にあるとし、欧州で覇を唱えているドイツ合邦国家のごとく、同文同種の韓日も合邦しアジアの雄邦たらんと主張した。
 さらに、李完用(大韓帝国政府首相)ら、現在では「七賊」と罵倒される閣僚たちも合邦に賛成した。李完用は、元親米派で、のちに親露派となり、やがて親日派となった。韓民族が列強時代に生き残るために列強諸国と渡り合うことの必要性を痛感し、苦悩した人物であった。そしてそのために日韓合邦を支持したのである。
 日韓双方の賛否両論の中で、伊藤博文の暗殺事件が起こり、これにより合邦論が高揚、日韓合邦のきっかけとなったことは周知のことである。
 それだけではない。当時国際的に利害関係の深かった列強――英、米、独、仏なども、そろって日韓合邦に賛成していたのだ。
 アメリカの外交史研究家タイラー・アンネットはルーズベルト大統領が、「長い間海上に遺棄され、航海に脅威を与える船にも似た韓国が、今や綱をつけて港に引き入れられ、しっかりと固定され」たとして、肯定していたことを書いている。大統領自身、小村寿太郎外相に、「将来の禍根を絶滅させるには保護化あるのみだ。それが韓国の安寧と東洋平和にとって最良の策である」と語っている。
 英国は一九〇〇年の北清事変(義和団の乱)後に締結した日英同盟のよしみがあったことで、合邦支持に回った。イギリスの外相ランズダウンも、独り立ちできない韓国が日本の保護下に置かれることは当然だ、と語っていた。イギリスはすでにポーツマス条約締結前の第二次日英同盟の第三条で、「グレートブリテンは日本が該利益を増進するため、正当かつ必要と認める指導、監理及び保護の措置を韓国において執る権利を承認する」と記している。
 そしてこの英国の支持が前述の米国の支持へとつながった。米国は日露戦争の講和斡旋も行っており、その後の日英米三国の友好関係から考えれば、日韓合邦の米英の支持は納得できるであろう。
 しかし独仏まで日韓合邦に理解を示したのは、なぜだろうか。日清戦争後の三国干渉は、独仏露によるものであった。日本とはかなり利害関係が対立していた国々だ。それでも日韓合邦に同意した背景としては、日露戦争後、西欧諸勢力がアジアから大きく後退したが、日本をアジアに欠かせない安定勢力と捉え、東北アジアの永久安定、ひいては「東洋の永久平和」を期待して日韓合邦を支持したのだろう。
 じっさい、日韓合邦後になって日米新通商航海条例が調印され、日本の関税自主権が完全に確立した。第三回日英同盟協約も改定され、やっと日本は列強から「自主の国」と認められたのだ。
 さらに、日韓合邦にはロシアまでが同意している。日露戦争に敗北した以上、もはや日韓合邦の大勢に抗することができなかったからである。
 一方、伝統的に一〇〇〇年以上の宗主国であった中華帝国にとって日韓合邦とはとんでもない造反であり、もっとも反対するはずの清国も、異議を唱えなかった。それは、もはや口を出す力もなかったからだ。それは日韓合邦の翌年に辛亥革命が起こったことからも、一目瞭然だ。
 もちろん、日本もいきなり日韓合邦に踏み切った訳ではない。「東洋の永久平和」のために、半島に対して「不干渉条約」「開化政策」「自治育成政策」「統制政策」さらにタイのような緩衝国としての「中立国政策」も試みたが、これらはことごとく失敗した。万策が尽きて最後に残っていたのは、「同君合邦国家」しかなかった。
 こうして二〇世紀初頭の潮流と国際情勢下で、日韓双方の官民が賛否両論に別れながらも、日本政府が各国(列強)へ合邦を打診し、列強を主とする万国が賛成することで、日韓合邦は成立したのである。
 日韓合邦は当時において最適な選択だったといえよう。ことに日清・日露戦争後になると、ポスト日露戦争の東アジア世界には、日本以外の安定勢力はなかった。列強が「東洋の永久平和」を日本に期待し、万国が日韓合邦を支持した理由は、まさしくそこにあった。
 日韓合邦は、この時代の流れから見なければならない。(p83)

朝鮮を中華帝国の千年属国から解放した日本

『日本を呪縛する「反日歴史認識の大嘘』黄文雄

 清朝がすべての朝貢国のなかで、朝鮮をいかに下国の中の下国として支配していたかということについては、ヘンドリック・ハメル著『朝鮮幽囚記』(生田滋訳・平凡社)に詳しい。
 また、朝鮮を統治・管理するのは本来、礼部(文部省)の管轄だったが、後には北洋大臣兼直隷総督・李鴻章の部下である袁世凱などの軍人が実質統治するようになっていた。袁世凱は清国内では単なる一介の武弁(武官)にすぎなかったが、朝鮮では国王も服従するような強大な権限を持っていた。
 厳然たる朝鮮総督として権勢をふるう袁世凱支配下にあった漢城(ソウル)は、じつに悲惨であった。清兵三〇〇〇人が市民に対し、略奪、暴行の限りを尽くし、両班の家にも侵入し、女性を凌辱する。女性たちは強引に酒席で妓生にされ、乱暴狼藉を受ける。李朝の高官でさえ、清国の領事や軍人から殴る蹴るの暴行を受けても、ただ泣き寝入りするだけだった。
 閔妃は国王の妃というよりも袁世凱の愛人であり、閔妃の妹も袁の妾であった。
 いちばん象徴的なのは、国王の父・大院君が清軍により、天津まで強制連行されたことだった。
 つまり、李朝朝鮮の国王、国家元首の地位は、モンゴル、回部、チベットの将軍や大臣以下であり、さらに各省の地方軍政の長官にあたる総督や巡撫の比でさえなかった。
 朝鮮外交をめぐる交渉も李朝朝廷ではなく清国を通して行われていた。朝鮮の国事人事までも、清政府が決めるのである。たとえば、清国の指導の下、外務協弁(外交補佐官)には馬建堂(元神戸大阪領事)とメルレンドルフ(元天津上海駐在ドイツ副領事)が迎え入れられた。また、李朝政府がメルレンドルフを解任するときには、清末の最高実力者であった李鴻章の承認を得て行った。その後任に海関総税務司を兼任していたアメリカ人ヘンリー・メリルを送ったのも李鴻章である。
 一八八五(明治一八)年、イギリスが朝鮮半島の巨文島を占領したときも、李朝にではなく、イギリス駐在清国大使の曾紀沢(曾国藩の嗣子)に通告を行った。そして曾は、李朝政府に連絡することもなく占領を了承している。国土の変更ですら清国大使の裁量次第だったのである。
 このように、日清戦争までの朝鮮における政治・外交・経済は、完全に清国に掌握されていたのだ。属国というより、むしろ植民地以上の統治である。
 日本はそのような朝鮮に、明治維新のような政治改革によって自主独立の近代国民国家になることを強く期待していた。一八七五(明治八)年、日本軍が演習中に朝鮮軍に砲撃された「江華島事件」の結果、朝鮮が開国すると、列強も朝鮮を中国の属邦とは認めたがらなくなった。そして直接朝鮮と密約や条約などを結び、外交関係を持つ国が出てきたため、清国は朝鮮管理をさらに強化することになった。たとえば清国は朝鮮の第三国への公使派遣は認めるが、「全権」の二文字は使用禁止とした。そして次の「另約三論」なるものの順守を強要した。
 一、朝鮮公使は駐在国に赴任したら、必ず清国公使館に先報し、清国公使を経て相手国と折衝すること。
 二、公使外務の席上、韓国公使は必ず清国公使の次席に座ること。
 三、重要交渉がある時には清国に事前報告し、相手国に関係なく属邦体制を守ること。

 日清戦争前、日本と清国との間では、朝鮮の指導と管理について多くの経営策が議論された。なかでも有名なのは、張謇の「朝鮮善後六策」である。そこでは、「朝鮮国王を廃し、清の一省とする」とも謳われ、清国朝廷内では高く評価された。
 さらに、一八八二年一〇月、清は李朝と「清国朝鮮商民水陸貿易章程」を結び、李朝は清国の属国として宗属関係を明記している。
 そのような中国属国支配から朝鮮を解き放ち、その独立を達成させたのが、一八九五年の日清戦争における日本の勝利だったのである。たとえ日本の国益のためであれ、「朝鮮独立」を目指したこの戦争が、朝鮮人にとって「解放戦争」だったことは疑いない。
 少なくとも清国のくびきから解き放たれ、暴虐なる清国兵が追放されただけでも、朝鮮人には大きな救いだったはずである。(p80)

歴史を否定する愚 韓国に反省を促す

『正論 2019年3月号』

 歴史を否定する愚 韓国に反省を促す  石原慎太郎

 最近の韓国の日本に対する高ぶりを見ているとあきれて物が言えない。ごく最近の日本の哨戒機に対する引き金の一歩寸前のレーダー照射事件にせよ、戦争中の徴用工への非難と彼等を使役した日本の社会への賠償請求や在韓国の資産の凍結没収にせよ、果ては従軍慰安婦問題への非難にせよ、その背景に在った日本の朝鮮統治という歴史の構造を鑑みなければならない。他民族による統治と言う屈辱はよくわかるが、その屈辱の歴史的背景を無視し、その歴史的事実そのものの道義的責任をこの今になって非難しそれを踏まえて既に政治的に決着している筈の問題を蒸し返し、要するにまた金をせしめようという魂胆は卑しいとしか言いようもない。
 かつての朝鮮の合併統治という彼等にとっては屈辱的で痛ましい歴史の出来事の背景には、朝鮮半島という地勢学的に劣悪な宿命的な条件が在ったということを世界の歴史を参照にして認識すべきだろう。
 世界には朝鮮半島に酷似した、総称してフリンジと呼ばれる大きな半島が幾つかある。その典型は動乱の絶えなかった東欧のバルカン半島でありアジアにあってはベトナムラオス、カンボジャが割拠するインドシナ半島、そして朝鮮半島だ。
 これらの大きな半島は絶えず半島の根元に君臨する大国に侵食影響され幾つかの国に分裂しながら相剋し続けてきたというのが歴史の公理だ。朝鮮半島もまたその類を出なかった。かつてユーラシア大陸の殆どを支配しつくしたモンゴルが島国の日本にまで手をのばし攻めこもうとした時も、そのための通路にされた朝鮮半島の国々は日本に渡る軍船を造るために国中の木を切り倒され丸裸にされてしまった。
 日本が朝鮮を合併した頃のアジアの情勢はそれまで朝鮮の宗主国だった背後の清国が衰微しそれに乗じて北の大国ロシアが南下し始めていて、清が退けばロシアがそれに乗じて朝鮮半島を席巻するであろうことが自明だった。
 その危機感のもとに朝鮮の政府と議会は日本との合併を彼等の意志として合議選択したのだ。それこそが歴史の歴然たる事実だ。彼等の選択が間違っていなかったことも証明されている。ヨーロッパの外国人アレン・アイルランドが書いた『THE NEW KOREA―朝鮮が劇的に豊かになった時代』という本が証すように日本の統治こそが朝鮮半島に教育を普及させ、鉄道や発電のためのダムなどの社会資本を造成して与えたのだ。
 私が親しく知遇を得た、韓国の近代化に功績のあった朴正煕大統領が語っていたことだが、貧農の家に生まれながら学問に憧れていた彼が学校に通え、その才を認められ日本の士官学校にまで入りさらに首席で卒業出来たのは日本による統治がもたらした結果であった。これは彼自身が肩をすくめながら語っていたことだ。
 この今になって彼等が非難する慰安婦や徴用工の問題にしても異民族による統治への屈辱が引き金となっているのはわかるが、それをもたらした歴史の背景を無視していたずらに感情的に非難を繰り返しても互いに得るものは何もありはしない。日本による統治支配という歴史の事実をもたらしたのは彼等の先祖の裁断の責任であって、それを他に転嫁しての非難は、歴史という事実を無視歪曲してかかる粗暴な姿勢でしかありはしない。
 慰安婦の問題にしてもあの世界中にばらまかれている少女の銅像にしてもフィクティシャスなもので、当時あのようにいたいけな幼い女の子までがかりたてられたとは思えない。通説では二千人の女性が駆り出されたとされているが、当時人口二千万とされていた朝鮮の中で、通説二千人もの女性が官憲によって強引に慰安婦にしたてられたとするなら、当時の朝鮮の男たちはそれをただ看過していたのだろうか。とすればなんとも情けない話ではないか。 
 比べて敗戦直後の日本では抑圧されていたいわゆる第三国人たちがのさばり日本の婦女子に狼藉を働いていた中で、戦争帰りの若者たちが絶対権力者だったアメリカ軍のMPにまで盾ついて彼等を駆逐したものだった。渋谷の安藤組や銀座の銀座警察などという暴力組織はその気骨の象徴だった。

 朝鮮人も日本人も徴用された

 この今になって彼等が取り上げて非難し賠償を迫っている徴用工の問題にしても、当時政府によって一方的に徴用されたのは何も朝鮮人だけではなしに日本の国民の多くも同じことだった。戦争中に流行った徴用を忌避する歌をよく耳にして覚えているが『嫌じゃありませんか徴用は、欠けた茶碗に竹の箸仏様ではあるまいに一膳飯とは情けない』と言うものだったが。
 それは戦争という非常時にあっては国民に等しく課せられた使役であって、国民の一人でもあった朝鮮人にとっても同じことで、徴用工に関しても国民として同断なことでことさらの差別のありようもない筈だ。それよりも私にとって思うにも痛ましい事実は、かつて陸軍の特攻隊基地だった知覧で隊員の母として慕われていた鳥浜トメさんから直に聞かされた朝鮮人の隊員の悲劇で、朝鮮人の中でエリートだった彼は自ら志願して隊員とはなったが、出撃の前夜彼女の家を訪れこの戦に日本が敗れた後自分の故国の朝鮮はどうなるのだろうかと慨嘆し、仲間の前で歌うことの出来ぬ故国の歌アリランを涙して歌って別れていったそうな。これは国家の合併という重い歴史の事実がもたらした、かわすことの出来ぬ何にも勝る悲劇だろう。

 韓国の民は、北朝鮮に呑みこまれたいのか

 今日に見られる韓国の日本に対する異常な高ぶりの背景には北との合併統一への期待があるに違いない。彼等の同胞である北朝鮮はまぎれもない核大国であり、その気になればこの日本を破壊させ得る破壊力を保有している。一方この日本は核ノイローゼで持つべき持てる物も持つ意志は一向になくアメリカのペットに甘んじている。
 しかし国家としての成熟の格差は比べようもなく、文明文化の成熟度の指標とも言えるノーベル賞の受賞者の数をみても歴然たるものがある。特に自然科学分野は、韓国のゼロに比して日本の受賞者の数は今世紀に入ってからヨーロッパ各国の数を上回ってもいるのに。
 過去の歴史の事実を無視してそれにこだわり国際的なルールまでを無視して言い掛かりをつけ鬱憤をはらしても、それは国内的には喝采され己の政権の点取りにはなっても所詮自分の首を絞める結果にしかなりはしまい。
 いつかの将来分断されている南北の朝鮮が統一されるとしても南の政府の現況をみれば南は北に簡単に呑みこまれてしまうに違いない。その結果北のあの異形な政治体制が朝鮮半島を覆いつくしてしまうことを、果たして南の国民たちがのぞむことかどうか危ういものだ。
 現況の中での点数かせぎにうつつをぬかしている今の南の政府の将来の危うさは日本にとっても他人事ではすまされそうにない。(p30)