ニャー太郎のブログ

大東亜戦争についてしっかり学ぶため休止しています(5月24日)

日中戦争の実相 意外と緩やかだった戦闘

日中戦争の実相 意外と緩やかだった戦闘
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日本軍の進撃に対して、中国軍はひたすら逃走・撤退を重ねるというのがこの戦争の通常パターンだったため、日米戦争のような激戦は少なく、犠牲者もそれほど多く出なかった。中国側犠牲者も軍人が中心であり、国共内戦共産党階級闘争のように住民を巻き込んでの、逃げ場のないような凄惨な殺し合いは、基本的に行われなかった。
      《黄文雄日中戦争知られざる真実」》


●首都陥落後、蒋介石軍は内戦に備えて対日戦を手控えるようになり、戦争は共産党軍の散発的なゲリラ戦が主なものとなっていた。戦争は続いたけれども、他方で日本の占領下、中国各地では日常生活が回復しつつあったのである。
      《井上寿一 中央公論2005/11月号》


●国民党軍と共産党軍の敵対意識は、日本軍に対する意識よりもはるかに強い。それを形だけ抑えて国共合作と称して日本を戦っているわけだから。日本軍の前で国民党軍と共産党軍が戦闘を始めることもあった。そうすると日本軍は入っていかないで、黙って見ているわけである。

●また、閻錫山の軍隊と日本軍の間では、お互いに攻撃しないという一種の約束も出来ていた。それどころか、山西軍のある部隊で、給料が払えなくなったので、二百人くらいの兵隊を日本軍で引き取ってくれ密偵が言って来たこともある。(結局実際には来なかった)
      《伊藤桂一(作家・中国戦線に長く従事) 文芸春秋2006/9月号》


南京攻防戦を除けば、日中戦争で凄まじい戦闘はあまりない。もともと中国では、軍閥の戦争というのは本気でやるとお互い潰れてしまうから、滅多に本気で戦わない。国民党軍に会っても、こっちが手出ししなければ向こうも掛かってこない、いわば戦線膠着状態だったようである。
      《北村稔 Voice2007/8月号》


約1年半で中華民国の大部分は日本が制圧したため、ほぼ戦闘状態は終了し、中国の大衆は平穏な日々を日本軍統治下で過ごしていたのである。侵略戦争がのべつまくなしに続き、中国庶民は塗炭の苦しみにあえぎ続けていたというのは全くの嘘である。大東亜戦争が激しくなってからは、米軍の空襲に苦しむ日本本土よりも、南京政府統治下の中国の方が安全であり、食糧も豊富であった。

●中国は実際、日本軍統治下にあるときの方が、中華人民共和国が成立して中共の統治下にあるときよりも平和であった。数字が冷静にこれを物語る…
東京裁判で、支那事変の中国人の死者数は約180万人(南京大虐殺も含む)と中国側によって主張されている。この数字が極端に誇張された数字であることは間違いないが、仮に受け入れてみよう。1937~45年の8年間で180万人の死者だから、年間平均22万5千人の犠牲者ということになる。
      《藤井厳喜 「騙される日本人」》


日中戦争では、記録によれば、大規模な部隊間の正規戦は極めて稀で、実際戦われた場合には、非常に短期間のうちに終わっている。つまり、残りの期間は今でいう平和維持活動に従事しながら、散発的な小競り合いをしたり、小規模なゲリラ集団による奇襲と戦っていたのである。
      《松村昌廣 諸君!2007/10月号》

山奥に逃げ込んだ国民党持久戦の実情

『「日中戦争」は侵略ではなかった』黄文雄 ワック文庫

 蔣介石はなぜ山奥に引きこもったか
 日中戦争の最初の一年半で、中国の六大都市――北京、天津、南京、上海、広州、漢口――のすべて、大港湾のほとんどすべて、鉄道網の八割から九割、工場の大部分が日本軍の手中に落ちた。これがもし欧州の先進国なら、国家の全機能が喪われたとしてふつう降伏するだろう。従来の中華帝国でも同じ道を選んだはずだ。女真人(金)、モンゴル人(元)、満州人(清)は大都市を制圧することで、中国を自分たちのものにした。
 ではなぜ国民党軍は奥地・重慶まで逃げ込んででも抵抗を止めなかったのだろうか。
 その要因はもちろん一つだけではない。歴史学者がよく挙げるのは人口の多さ、民族主義の目覚めなどだが、私は、彼らが逃げ込んだ先が "山奥" である点に注目したい。
 二十世紀の軍閥内戦を見ると、どの軍閥も形勢が不利になると、みな山奥(あるいは租界か外国の大使館)へ逃げている。中国の山奥は交通が発達していないので、討伐軍が追撃してくることがない。軍隊も私兵的性格で結束が強く、「兵匪」であるだけに逞しい。このため李宗仁、馮玉祥、閻錫山、そして共産党も、蔣介石との戦いで負けるたびに都市を放棄し、あるいは下野(引退)を声明して再起を繰り返した。
 そのうえ中国は九〇パーセントが農村であるように、昔から自給自足の社会である。いざというときは原始社会に戻ればよいだけの話だ。山奥とはいえ、彼らには再起をはかる社会的基盤は十分に備わっていたのである。
 中国軍が降伏しなかった要因として、蔣介石が日本との和解の好機を逃したことも挙げられる。そもそも日本との和平交渉など、国内の反日的空気が許さなかった。ひとたび「漢奸」扱いされれば、彼の失脚を願うライバルたちから足をすくわれかねなかった。
 しかし最大の要因は米英ソによる支援だった。重慶に退いた蔣介石政府に、これらの国々はインドシナビルマ、華南、外蒙の陸上ルート(援蔣ルート)を使い、軍事経済援助を行った。もし大東亜戦争が勃発せず、ことにアメリカの巨額の支援がなかったら、重慶政府はいずれ自然消滅していたはずだ。

 交替で蔣介石を支えたソ連アメリ
 ソ連は盧溝橋事件の翌月である一九三七年八月二十一日、国民党政府と不可侵条約を結んだ。そして三八年三月と七月にはいち早く二つの通商条約を締結し、総額一億ドルの対中借款を提供し、軍事物資の購入を支えた。三九年六月には新たに一億五千万ドルの借款条約と一千四百六十万ドルの軍需物資供給契約を結んだ。
 このようにしてソ連は、三七年十月から三九年九月までの間に、飛行機九百八十五、戦車八十二、大砲または榴弾砲一千三百以上、機関銃一万四千以上などを中国軍に提供している。
 また三七年末から三九年二月半ばまでの間、ソ連の軍事専門家三千六百六十五人が対日戦に参加し、このうち二百名以上が戦死した。また航空義勇兵も送り込み、三八年二月には、ソ連義勇兵の操縦する航空機が台北方面の爆撃に成功している。
 その他、ソ連共産党への内面指導や国民党内部での扇動だけでなく、学生や藍衣社(蔣介石直系の特務組織)など反動的団体をも共産主義陣営に取り込み、抗日をバックアップした。しかし一九四二年、中国の国共対立とアメリカ勢力の蔣介石政府浸透により、ソ連の援助は停止する。
 アメリカは、一九四〇年十二月にフランクリン・ルーズベルト大統領が、「独裁国」(独、日ら)と戦う「あらゆる民主主義国」の「平気廠となる」と宣言した。直接派兵はしないが、金とモノならいくらでも供与する、というわけだ。満州事変以降、日本の中国大陸進出にも態度を硬化させ、対中援助を増大させた。だからアメリカは、四一年十二月八日の大東亜戦争が始まった段階で、すでに大量の兵器・物資を重慶政府に貸与しており、軍事顧問団も重慶に駐在させていたのである。この年の夏には中国に三十個師団と小規模な空軍の装備に必要な軍需物資を貸与する計画も立てられていた。
 また優秀な陸海空軍のパイロットや技術者が除隊して編成した「第一アメリ義勇軍」も、この頃訓練を終えつつあった。彼らは後にカーチスP-40戦闘機に乗って日本の隼や零戦と戦うことになる。

 蔣介石の"変心"を憂慮していた米英
 ルーズベルト大統領をはじめ、当時のアメリカ国民の間には中国に対し、宣教師、ハリウッド映画やパール・バックの小説『大地』などを通じて形成された、一種のロマンチックな幻想が広く持たれていた。ジャーナリストも、蔣介石や中国農民たちの英雄的な抗戦ぶりを競って書き立てていた。
 米英両国は対日開戦後、蔣介石の面子を立てて、連合軍中国戦線最高司令長官への就任を要請している。アメリカは一九四五年九月二日(日本の降伏文書調印の日)までに、累計十四億六千九百四十万ドルの物資援助を行った。武器貸与は総額で約八億七千万ドルにのぼったとされている。
 一方、イギリスも一九三九年、一千万ポンドの法幣借款などで中国を援助した。米英は対日開戦後、中国との共同作戦も実施している。
 さて重慶では、アメリカの参戦が報じられると、政府首脳をはじめ群衆は狂喜し、早くも戦勝気分に包まれた。しかし重慶政府には肝心の "戦意" がなかったのである。現地を視察したアメリカのジョセフ・スティルウェル将軍や軍事顧問団、国会議員らは、中国は「自分たちは十分に戦った。今度はアメリカの番だ」とばかりに高見の見物を決め込み、共産軍や他の軍閥との戦いに備えて兵力の温存に努める、腐敗・無気力な政府の姿を報告している。
 ルーズベルト米大統領チャーチル英首相、そして蔣介石中国国民政府主席による一九四三年十一月のカイロ会談は、もともと米英二国の首脳会談になる予定だった。しかしこの国際的な晴れ舞台には、中国の山奥に引き籠る敗軍の将・蔣介石も招かれることとなった。これも、米英が彼の面子に配慮したからである。なぜならアメリカには、「(蔣介石が)日本と何らかの和解をし、あるいは中立を宣言したなら、米国の対日海上作戦は停止することになる」(米海軍司令官ウィリアム・D・レイシー『I was There』)という切実な危機意識があったからだ。
 ルーズベルトの最高軍事幕僚たちは、 "やる気" のない蔣介石が日本と講和してその「傀儡政権」になるか、または対日休戦を宣言して貯蔵してきた武器を内戦で用いるといった危険性を指摘していた。そこで蔣介石を連合軍側に引き止めるため会談に参加させ、満州や台湾という "戦利品" を中国に引き渡す問題まで話し合ったのだ。(p164)

武漢三鎮陥落、日中戦争はここで終わっていた

『「日中戦争」は侵略ではなかった』黄文雄 ワック文庫

 このように、一九三七年七月七日の盧溝橋事件で始まった日中戦争は、十六ヵ月目の三八年十月二十七日の武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)陥落で終結したといえる。
 もちろん「大勢」が決まったというだけで、日中間に和平が成立したわけではない。ただ、それから一九四五年の日本の敗戦までは、重慶政府と延安政府の抵抗運動、そして外国の支援を受ける各地の政府間抗争が主流になったということだ。
 この十六ヵ月の間、中国軍の遺棄死体は八十二万三千二百九十六体、その他の戦死・戦傷者を加えると、中国軍は約二百万人もの損害を出している。一方、ほぼ同時期の統計では日本軍の戦死者数は四十三万七千百三十二人との数値が公表されている。(p158)

中国軍が廃墟にした町を日本が復興した

『誇りある日本の歴史を取り戻せ』渡部昇一 田母神俊雄

 田母神俊雄

 実際、シナ事変のことを今の中国では1945年まで続く「抗日八年戦争」、あるいは満洲事変から数えて「抗日十四年戦争」と言っているようですが、シナ事変で実際に戦闘が続いたのはわずか1年半ほどです。あとの期間は、日本が占領した町にお金と労力をかけて復興・再建をしていたということです。
 というのは、中国軍が占領した町には何も残っていなかったからです。自分たちが占領した町で略奪や暴行の限りを尽くし、敗走する時には道路や橋や工場を破壊して日本軍に何も残さないようにする――これが中国軍のやり方でした。これでは、そこに住む民衆はたまったものではありません。
 そうやって焦土と化した町にまたインフラを整備して再建し、住民を救済していったのは実は日本軍のほうだったのです。シナ事変最中の1938年に日本政府はすでに中国の農業復興計画を発表し、日本の農業技術を中国の農民に指導したりもしています。(p122)

謀略の太平洋戦争――暗号解読

『謀略の太平洋戦争』宝島社

 暗号を解読されていたのは日本側だけではない
 アメリカの暗号も解読されていた?

 軍隊はもちろん、外交官も重要案件に関する本国との交信は暗号によっておこなう。
 どこの国の情報機関でも、暗号解読は熱心におこなわれた。解読できれば、情報戦は俄然優位になってくるからだ。


 すべての暗号が解読されたわけではない
 アメリカは、日本の陸海軍や外務省の暗号を傍受。その解読に成功し、終戦に至るまで日本側の情報は筒抜けだったというのが定説になっている。しかし、実際には米英の完勝とまではいかなかったようだ。
 たしかに、開戦前からアメリカの情報当局は、外務省が使用する機械式暗号の解読に成功していた。外務省の暗号をアメリカ側は「パーブル暗号」と呼んだが、陸海軍が使用するものに比べると解読は容易だった。それよりも複雑だった海軍が使用する暗号も、ミッドウェー海戦までにほぼ解読できるようになっていたという。
 開戦直前まで日米海軍の暗号解読能力に、さほどの差はなかったものの、戦争の機運が高まると米側は暗号解読のために大量の人員と、米本土に加えてハワイ、フィリピンなどに通信傍受と暗号解読班を配置した。しかし、アメリカ側もそのすべてを解読できたわけではない。太平洋戦争中盤の頃でも、解読できない言葉は多々あった。もしも日本海軍の暗号を完璧に解読していたのなら、ガダルカナル島キスカ島での撤退作戦を察知できずに日本軍の残存戦力を取り逃がすこともなかったはずだ。

 暗号解読に関して陸軍は海軍に勝っていた
 海軍の暗号がアメリカ側に解読されてしまった要因のひとつに、戦時下にもかかわらず、暗号用の乱数表を長期間にわたって同じものを使いつづけていた怠慢がある。一方、陸軍のほうは通信をするたびに新たに文字の数だけ乱数をあてる使い捨ての乱数を使用。機械式暗号は必ず解読されると嫌って使用しなかった。毎回乱数が変わるので、通信担当者の作業が複雑化する問題はあるが、理論的に解読は不可能。実際、陸軍の暗号は終戦まで米英に解読されることはなかった。外国公館から乱数表を盗む荒事をやっていただけに、陸軍の情報当局はかなり神経を使っていたのだろうか?
 また、日本側でも米英の暗号を解読していた。アメリカの陸軍情報局は、「日本は米英の高度暗号を理解できなかった」
 と断言しているが……、それが慢心というものだ。陸軍の暗号解読は参謀本部第二部が担当していたが、アメリカの神戸領事館に密偵を潜入させて暗号書を盗撮して解読に成功。開戦直前になると、アメリカ側はさらに高度なストリップ暗号を採用するようになる。より複雑で高度なやり方で、ドイツ軍もこれを解読できなかったが、日本陸軍昭和18年(1943)頃になると、このストリップ暗号の解読にも成功している。
 長年、満州で対峙するソ連軍の動向を探るために、日本陸軍はその無線傍受と暗号解読に取り組んできた。海軍と違って、その能力は世界有数との評価もある。
 戦時下で陸軍参謀本部に暗号解読を担当する中央特殊報部を設置し、終戦頃には人員も1000人を超えていた。数学者や言語学者などもスタッフに招き、機械式の計算機なども導入。アメリカ軍の使用する暗号の8割近くが解読できるようになっていた。陸軍に限っていえば、暗号解読では米英と五分の勝負をしていたようだ。(p46)

封印された日本軍の功績――中川州男

『封印された日本軍の功績』宝島社

 ペリリュー島民約900人を救った 中川州男(なかがわ・くにお)

 敵将から「天皇の島」と称されるほどの激戦が行われたペリリュー島では、島民の死傷者は0人だった。2ヶ月にわたって米軍を苦しめた中川隊長のペリリュー島の戦いを見てみよう。


 日本軍に協力したペリリュー島
 1944年9月、米軍は日本の南方の防衛拠点であるペリリュー島攻略を行った。攻略部隊は米軍最強を謳われた第一海兵師団を中心とした総数4万8千人超、火器や戦車などの装備面では日本の守備隊の6倍とも10倍ともいう圧倒的兵力である。
 面積13平方キロばかりの島に守備隊約1万人が陣を敷き、その指揮を執ったのが水戸歩兵第二連隊隊長・中川州男である。米軍がサイパン同様圧倒的物量で力押ししてくるのは明白で、1944年4月に現地入りした中川は、島を迅速に要塞化する大工事を始めさせた。石灰質のサンゴ礁は天然のコンクリートのようなもので、うまく利用すれば堅牢な地下要塞が誕生する。人力だけでコンクリートを掘り進むのだから大変な難工事だが、ペリリュー島民らの自主的な協力によって島はたった5ヶ月で500以上もの洞窟陣地を持つ"要塞島"へと生まれ変わっていた。さらにペリリュー島民の一部は日本軍とともに米軍と戦うことを願い出る。これに対して、中川は「土人と一緒には戦えない」という差別的な発言をする。中川の言葉に失望した全島民約900人は、日本軍によってかき集められた船舶に乗って避難することになった。島から離れる時になって、日本兵たちはペリリュー島民の協力に感謝して敬礼で見送ったという。この時、島民たちは戦闘から自分たちの命を守ろうとする中川の真意を知るのである。

 硫黄島と並ぶ太平洋の激戦地
 9月15日、米軍上陸作戦が開始される。米軍は上陸に先立って徹底的な爆撃を行っており、3日間で17万発以上も打ち込まれた砲弾は島の地形すら変えていた。米兵たちは「スリーデイズ、メイビーツー(戦闘は3日、たぶん2日でカタがつく)」を合言葉にペリリューに乗り込んだ。
 しかし、洞窟要塞は17万発の砲弾を耐え凌ぎ、兵器も人員もほぼ無傷で米軍を迎えていたのである。楽勝ムードで乗り込む米軍に集中砲火が浴びせられ、上陸部隊は船艇大破60艘、初日だけで死傷者1100名超という甚大なダメージを負うことになった。
 日本軍は要塞に籠り、夜陰に乗じて奇襲するゲリラ戦法で米軍を迎えた。2日で片付くはずの島に、米軍は都合2ヶ月も張り付くことになったのである。最終的な米軍の損害は、戦死者約1800人、負傷8000人以上。最強の海兵師団は壊滅し、戦線を去ることになった。これほどの激戦にもかかわらず事前の避難によって民間人の死傷者はいなかった。
 ペリリュー島守備隊には11回もの「御嘉賞」(奮戦を讃える天皇のお言葉)が与えられた。一部隊に2ケタの「御嘉賞」は、後にも先にも例がない。
 愛妻家の中川は、ペリリューに発つ前日、妻にこの任務は「エイゴウ演習」だと告げていた。永劫、つまり帰還することはないという別れの言葉であり、言葉通り中川は最後まで戦い、守備隊の「玉砕」を見届けるように自決し、ペリリューに果てた。
 終戦70年にあたる2015年、天皇皇后両陛下はペリリュー島をご訪問され、激戦地に深い黙祷を捧げられた。敵将ニミッツ提督から「天皇の島」とも呼ばれたペリリューへの訪問は、お2人の強い希望で実現したものだった。(p56)