伝聞③

ニュルンベルク・インタビュー 下』レオン・ゴールデンソーン ロバート・ジェラトリー 編

 フランツ・フォン・パーペン(首相、副首相、オーストリア駐在大使)

 私は彼に、反ユダヤ主義は宗教上の自由や寛容と矛盾しなかったのだろうか、とたずねた。彼はこう答えた。「完全に矛盾していた。しかし、ヒトラーユダヤ人の絶滅を目指したわけではなかった。彼はその事実を公の場でも紙上でも強く主張した。ヒトラーは当初、ユダヤ人の影響力はきわめて大きく、ベルリンにいる弁護士の八割はユダヤ人だと言ったにすぎなかった。ヒトラーは、劇場や映画産業やラジオ放送事業などを、この国の少数派(ユダヤ人)に握らせておくべきではないと考えていた」
 そこで私は、ヒトラーはどうやら、宗教上の個人の権利にたいする差別を悪いこととは思っていなかったらしいと言い、さらに、ヒトラーは宗教上の自由や寛容を唱道しておきながら、結局は一種の反ユダヤ主義を実践したのだと指摘した。パーペンは少し興奮気味になり、愛嬌たっぶりにほほえみながらも、きみはヒトラーを誤解しているようだと言った。つまり、ヒトラーは、一定の割合のユダヤ人、カトリック教徒、新教徒を特定の専門職や事業に従事させることには賛同していたが、ユダヤ人の絶滅や公民権の剝奪にはまったく賛同していなかったということだ、と。「私は、ヒトラーの言うユダヤ人問題の解決が常識にそった穏当な手段でなされるものと思っていた。当初は、ヒトラーがあれほど過激なやり方でユダヤ人問題を解決しようとしているとは思わなかった。いずれにせよ、彼はそれをおくびにも出さなかった。ヒトラーが、ユダヤ人の影響力を排除するための最初の法律をつくったとき、私はそれに制限を加え、一九一四年からドイツに在住しているユダヤ人はすべて国内にとどまれるようにした。知ってのとおり、一九一八年の敗戦後、ドイツには東方からユダヤ人が流入した。この過剰流入はドイツでは常軌を逸していたが、それが起こったのは一九一八年の革命後の一度きりだった。流入したユダヤ人は相当な数にのぼった。われわれは、この状況をなんとかすべきだと考えたのだ」(p18)


 ハンス・フランク(ヒトラー顧問弁護士、ポーランド総督)

 あなたはどうして反ユダヤ主義になったのか。「入党したのは、反ユダヤ主義だからではない。ドイツのためだ」。ポーランドでは大勢のユダヤ人が殺されたのだろうか。「そんなことはない。アウシュヴィッツでは大虐殺があったが、あれは上シュレージエンだ。私がそのこととまったく無関係であることを証明する文書があるから、読んでほしい。私に責任がある事柄に関しては、責任を認める。しかし、ユダヤ人を強制収容所に入れさせたり焼かせたりしたことは、一度もない。それは証明できる。私の弁護人が持っている証拠を見たら、きみも驚くだろう。ユダヤ人の絶滅というのはヒトラーの個人的なアイディアだ。それはヒトラーの遺言に書かれている。そのなかで彼は、ユダヤ人が戦争を始めたので絶滅させたと述べている」(p26)


 ハンス・フリッチェ(宣伝省ラジオ部門責任者)

 わが家では、宗教的な話はほとんど出なかったが、すべてが宗教にもとづいていた。繰り返し見る夢で、私は母にひざまくらをしてもらっている。母はあの愛情のこもった仕草をしながら、こう言うのだ。『どうしたの?』」
 その夢にはどんな意味があると思うかとフリッチェに訊いた。すると彼は、別に夢に意味があるとは思っていないのだが、自分が本来無罪であるということと関係があるのかもしれない、と答えた。
 「精神分析医だったら、あの夢は自分は無実だという無意識の感情を表現している、と推測するだろう。それというのも、目を覚ますと、ふたつの力が自分に作用しているからだ。一方の力は、どうして自分がこの体制に仕えたのか、理解するように要求する。お前は一九三二年と三八年の出来事を見たのに、どうしてこの体制内にとどまるようにという説得を受け入れたのだ、と。
 私の内なるもうひとつの力は、いつも私にこう語りかける。しかし、お前のように罪のない人間には、あの残虐行為があったことを知るすべはなかったではないか!
 それに、この裁判は完全にまちがっている。裁判が五〇〇万人の虐殺や残虐行為に関して有罪かどうかを決めるためのものなら、私は誠意をもって参加するだろう。しかし、この裁判ではそれ以外のことが際限なく持ち出されてくるので、虐殺の罪の影響でドイツ人はあらゆる罪を犯していると見なされているように思えるし、また、アメリカもイギリスもフランスも、それにとりわけロシアも、ドイツ人の罪の陰に隠れて、自分たちの汚い部分を葬り去りたがっているような気がする。
 思うに、ふたつの事柄が区別されなくてはならない。ひとつは、生きたいと思い、みずからの存続のために正々堂々と戦おうとするドイツ人の意志。つまり、実際に行なわれた戦闘だ。もうひとつは、残虐行為と虐殺。このふたつはまったく別の事柄だ」(p67)


 ヴァルター・フンク(経済相)

 ところで、検察はおそらくオーレンドルフの話を持ち出すだろう。彼は私のもとで働いていて、九万人のユダヤ人を殺したと法廷で認めたのだからな。オーレンドルフの話を聞いて、私は非常に動揺した。そんなことがあったなんて、知らなかった。それに、オーレンドルフが加わっていたことも知らなかった。
 オーレンドルフはずっと戦地にいたのだろうが、同じく兵士だったヒトラーと似た立場だったのではないだろうか」
 私はフンクに、オーレンドルフにどんな印象を持っているかと訊いた。フンクがともに仕事をするなかで、彼はどのような人柄、性格の持ち主に見えたのだろうか。「そうだな、オーレンドルフは経済省に一年しかいなかった。いまでは、彼が九万人のユダヤ人を殺害した特別行動隊の責任者であったことを知っているので、それまでまったく理解できなかったことも説明できる。オーレンドルフは精神的な抑鬱状態にあると、いつも私は感じていた。オーレンドルフと何回かディナーをともにしたとき、私は妻に、彼は幸福とは縁遠いようだと言った。オーレンドルフは、あの経験のせいでふさぎこんでいたにちがいない。彼は心から笑えなかった。そういう男は気が滅入っているか、病気か、性格が悪いかのいずれかだ。彼は悩みの種をかかえているのだと思った」
 この種のアマチュア精神分析は、フンクの好きな気晴らしのひとつだ。彼から見て、オーレンドルフは強硬な反ユダヤ主義者だったか、と私は質問した。
 「そんなことは考えてもみなかった。彼が反ユダヤ的な発言をした記憶はまったくない。われわれは政治のことはあまり話さなかった。私の友人はみんな有名な作家や科学者や芸術家などだったからな。
 しかし、オーレンドルフは基本的に非常にまじめな男だと思った。彼の夫人と子どもたちを私は知っているが、彼は幸せな家庭生活を送っていた。夫人は農家の家系の出身で、物静かなタイプの質素な女性だ。彼女とは一度、コンサートで会ったことがある。私は人の音楽のタイプを見抜ける。女性を見れば、その人がアルトかソプラノかわかるのだ。(p116)


 「しかし、絶滅だなんて! まったく知らなかった。本当に、十一月十二日の会議では、ユダヤ人はドイツ国外に移住すべきだとは言われていた。だが、絶滅させるなんて、考えられない! ゲットーのことは知っていたが。あれはハイドリヒのアイディアだ。私は自分に言い聞かせた。七〇〇〇万のドイツ人にたいしてユダヤ人が三〇〇万人なら、ゲットーがなくても彼らを生活させておくことは可能だろう、と。いずれにせよ、私の役割は、ゲーリングの四ヵ年計画で指示されていることの実行だけだった。あの暗黒の時代に、たとえ単なる道具としてであれ、ほんの少しでも荷担していたことが本当に恥ずかしい。しかし、私は宣誓をした国家に仕えざるをえなかったのだ。悲劇的な運命だ」(p120)


 アルフレート・ヨードル(ドイツ国防軍最高司令部作戦部長)

 いまの心境について、彼は次のように主張している。戦争中はずっと――一九三九年から四五年まで――ベルリンその他の司令部で総統とともに過ごしていたのだから、残虐行為や戦時のその他の蛮行に自分は関わっていないし、内心では無罪だと思っているので、こうして監禁されていても苦にはならない、と。(p148)


 ヨアヒム・フォン・リッベントロープ(ドイツ外相)

 しかし、当然のことながら、リッベントロープは、この裁判で真実が暴露されるまで、ヒトラーやナチ党が残虐行為に手を染めたなどとは夢にも思っていなかったという。私は彼に、これまでのソ連の申し立てをどう思うかと訊いた。ソ連の言い分はひどいものだとリッベントロープは答え、声をたてて笑いながら、「彼らの話を聞いていると、ドイツ人はみな化け物と言わんばかりだ」と言った。私は、彼らの主張のどこまでが真実で、どこからが誇張だと思うかとたずねた。彼は真顔になって、しばらくぼんやりしていた。そして、よくわからないが、なかには真実もあるだろうと言った。(p154)


 エーリッヒ・フォン・デム・バッハ=ツェレウスキ(SS上級警察指導者、SS上級大将、警察長官)

 出頭した理由は?「心にやましいところがなく、隠すべきこともなかったからだ」。それではなぜ、五月に出頭しなかったのだろうか。「すべてがひどい混乱状態で、何がどうなっているのか、まるでわからなかったからだ。戦犯がどうなるのかもわからなかった。正直なところ、強制収容所に関する新聞記事を初めて読んだとき、私はそれをプロパガンダだと思った。私は戦争が終わるまで、収容所のユダヤ人というユダヤ人が死んだことを知らなかった。ユダヤ人の虐殺が行なわれていることを知らなかったというつもりはない。私はかなり以前から(終戦の何年も前から)その事実を知っていた。しかし、ここまで大規模に行なわれていたとは思わなかった。まさか、あれほど多くのユダヤ人が殺されていたとは」(p188)


 ルドルフ・ヘース(アウシュヴィッツ収容所所長)

 私は一九四〇年五月から一九四三年十二月一日までの四年間、アウシュヴィッツで所長を務めた」
 彼の所長時代にアウシュヴィッツで何人が殺されたか、私は訊いた。「正確な数字はわからない。およそ二五〇万人のユダヤ人だと思う」。ユダヤ人だけ?「そうだ」。女性も子どもも?「そうだ」
 それについてどう思うかと訊いたが、ヘースは無表情だった。私は質問を繰り返し、アウシュヴィッツで行なわれていることに賛同していたのかとたずねた。「私はヒムラーから直接指令を受けていた」。抗議したのか。「できなかった。ヒムラーが語った理由を受け入れざるをえなかった」。つまり、二五〇万人の男女と子どもを殺したことは正当化されると思うのか。「正当化されるわけではない。だが、ヒムラーは私に、いまユダヤ人を絶滅させなければ、ドイツ人がユダヤ人に絶滅させられるだろうと言ったのだ」(p212)


 オスヴァルト・ポール(SS経済・管理本部長官)

 一九四二年に強制収容所が私の管轄下に置かれたとき、私はすべての強制収容所に責任を負うことに抗議した。自分は管理将校にすぎず、すべての強制収容所を管理したいとは思っていないと訴えたのだ。だが抗議は無視され、私は強制収容所の管理を押しつけられた。収容所内の労働力や工場を非常に効率よく使いこなしたからだ。私は強制収容所の責任を引き受けたが、ユダヤ人にたいする処置には関与しなかった。それらの命令はRSHAから来た。ヒムラーがカルテンブルンナーに命令を送り、カルテンブルンナーがそれをゲシュタポミュラーに伝え、ミュラーが絶滅計画を取りしきった。ヒムラーの命令はそうやって実行された。私はユダヤ人の殺害には関与しなかった」
 それでもあなたはすべての強制収容所を管理していた、と私は指摘した。
 「そのとおりだが、強制収容所はそれと関係なかった。ヒムラーが特定の収容所を選び、カルテンブルンナーおよびミュラーとともに、それらの収容所の所長に絶滅計画の実行を命じたのだ。(p250)


 エーリヒ・フォン・マンシュタイン(陸軍元帥)

 ドイツ国内に多くの強制収容所があることを、まったく知らなかったのだろうか。「平和なころ、オラニエンブルクとダッハウについては聞いていた。若い参謀将校がオラニエンブルクを訪れたあと、二〇〇〇人から三〇〇〇人ほどが収容されていると報告したのを覚えている。しかし、それら被収容者の大部分は常習犯罪者であり、そこに少数の政治犯が混ざっているだけだった。また、その将校の話では、被収容者は適切な待遇を受けていた。それは一九三九年の話だ――あるいはそれ以前かもしれない。だが、戦争中は私はずっと前線におり、強制収容所や残虐行為など自分に関係ないことについて、それ以上なにも聞かなかった」(p275)


 エアハルト・ミルヒ(空軍元帥)

 ユダヤ人の虐待については知らなかったのだろうか。ミルヒは戦後になるまで、それについてなにも知らなかったという。それは最上層部、つまりその命令を下したにちがいないヒトラーヒムラー、それにいまでは都合よく死んでいるその他数人の「ばかげた行為」なのだ。ヒトラーに次ぐ地位にあったゲーリングは、やはりこれらのことを知っていたのだろうか。ゲーリングとは反りが合わないのでめったに話さなかったとしか言えない、とミルヒは答えた。しかしゲーリングは「互いに干渉しない」主義で、人種的偏見は持っておらず、自分なりに人を判断した、というのだった。
 自分もドイツ軍参謀も虐待とは無関係だった。それに、連合軍の戦争犯罪も同じくらいひどいではないか。たとえば、自分の例で言えば、元帥をさんざん殴ったではないか! それはジュネーヴ協定違反だ。それからアメリカのロバート・パターソン陸軍省次官補がヨーロッパに来て、すべてのドイツ軍捕虜がジュネーヴ協定にのっとって扱われていると述べた、と新聞で読んだ。例外がひとつある。それと違う例がひとつあるのだ。ミルヒは大声でそう言った。ドイツ軍兵士や下士官や士官がベルギーとフランスに送られ、一人三マルクとか四マルクとか五マルクで奴隷として競売にかけられていると聞いた。それはまちがいない、アメリカ軍将校から直接聞いたからだ。また、ガルミッシュ・パルテンキルヘンにあるアメリカ軍管理下のナチ再教育収容所では、殴ったり飢えさせたりするという手段でナチの再教育が行なわれている。なぜそんなことを知っているかというと、アメリカ軍将校に本当かと訊いたところ、そのアメリカ軍将校はそうだと答え、自分はそれを恥じていると言ったからだ、とミルヒは主張した。(p305)


『人物像』~ロベール・フォリソン(4)~ルドルフ・ヘス自白の真相
https://www.dailymotion.com/video/x5wjwoh

 アウシュヴィッツ収容所の所長は三度代わりましたがその一人です。最も重要な所長でした。特に戦後です。非常に重要な人物になりました。というのも私がガス室の存在を証明する証拠を要求すると、返事は常に「ヘスの自白」だからです。しかし先験的に言って敗者が勝者に行なった「自白」というものはそもそも胡散臭いです。


 さて今からイギリス人の手に渡ったヘスの姿をお見せしましょう。ヘスの死刑執行人達自身が今では認めていますが、彼は紛れもない拷問を受けました。1983年頃、彼らは自慢げに話したのです。ユダヤ系イギリス人のグループがヘスの拷問を行なったのですが、彼らの話はヘスが別の所に書き残した文を裏付けるものでした。彼は「鞭とアルコール」の刑を受けたと書き残していました。つまり鞭打ち、相手が気を失うとウィスキーで正気づかせ尋問を再開させるのです。


ママ、ごめんなさい!ホロコーストについて私が間違っていた
https://www.dailymotion.com/video/x5xbfpj