ポーランドの悲劇

ポーランドの悲劇(2009年9月1日(水)MIXI日記再録)
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(2009年9月1日(水)日記より)

 

ドイツのポーランド侵攻(1939年9月1日)から、70年の年月が経ちました。

 


私の古い友人は御存知だと思ひます。私は、ポーランドを深く愛する日本人です。私とポーランドの出会ひについて、ここでは語りませんが、私は、この国(ポーランド)には、若い頃から、本当に深い思ひ入れを持って来た人間です。そして、ポーランドで「連帯」が誕生し、やがて、戒厳令が布告されるに至ったあの時代、親しいポーランド人と共に、ポーランドの運命を見守って居た日本人です。その事を始めに言っておきます。

 


その私にとって、9月1日と言ふ日は、8月6日や8月9日、或いは、8月15日と同じほど、深い感情を持って、迎える日です。日本人で、毎年、9月1日を、これほど深い感情を持って迎える人間は、決して多くない筈です。1939年9月1日は、ポーランドが、あの悲劇に突入した日であり、更に、ここが重要な事ですが、この日から戦後の「共産主義」時代を含めた50年もの停滞の時代の始まりであった日として、私は、毎年、この日を、本当に深い感情と共に迎えて居ます。

 

その私は、永い間、この日(1939年9月1日)の悲劇は、ドイツの一方的侵略によって、ポーランドが悲劇を体験した日であると考え、疑ひませんでした。しかし、今から20年前、二冊の本との出会ひによって、私は、そうした「公式の歴史」に根本から疑問を抱くに至ったのでした。

 


http://www.amazon.co.jp/Origins-Second-World-Penguin-History/dp/014013672X/ref=sr_1_2?ie=UTF8&s=english-books&qid=1251800475&sr=1-2


http://www.amazon.co.jp/Forced-War-Peaceful-Revision-Failed/dp/0939484285/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=english-books&qid=1251800343&sr=1-1


         ↑
この二冊の本を入手出来る方は、是非、お読み頂きたいと思ひますが、今の私が、この日(1939年9月1日)について思って居る事を言ひましょう。私も、開戦の責任は、当時のポーランド政府に在ったと思ひます。あの開戦は、当時のポーランド政府が、平和的に解決できた筈のダンツィヒDanzig)問題を、イギリス外務省の扇動に乗せられて危機にまで高め、ドイツが開戦せざるを得ない状況を生んだ事に原因が有ったと、今の私は思ひます。

 

ダンツィヒDanzig)は、歴史的に見れば、中世以来、明らかに、ドイツ人ばかりが住む、ドイツの一都市だったのです。それを、第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約はドイツから切り離したのですが、これは、例えて言へば、第二次大戦後、韓国が独立した際に、九州北部が国際都市とされて、その行政の一部が韓国に委託された様な、余りにも理不尽な決定だったのです。更に、ヴェルサイユ条約は、ダンツィヒ以外の、歴史的にはドイツ人が居住し、明らかにドイツの一部であった地域を新生ポーランド編入してしまひました。ポーランドが独立を回復した事は良いのですが、その様な、余りにも歴史的経緯を無視した国境画定をしたのですから、第一次世界大戦後、ポーランド領内に編入された地域のドイツ人が、ドイツへの復帰を求め、新生ポーランドの暴力的な支配から逃れたいと思った事は、全く当然だったのです。もし、それがいけなかったと言ふのなら、第二次世界大戦後、アメリカに統治された沖縄で、住民が日本への復帰を求めた事もいけなかった事に成る筈です。先程の例えで言ふならば、ヴェルサイユ条約が決めた第一次世界大戦後のポーランドと国境は、九州を韓国に編入した様な、滅茶苦茶な物だったのであり、ドイツ人が、これを見直す様、ポーランドに対して、平和的に交渉を申し入れた事は、全く当然だったのです。実際、当時の記録や、ドイツ政府からの提案は、平和的な申し入ればかりであり、それを、かたくなに拒んだばかりか、戦争の可能性まで明言した当時のポーランド指導者たちは、そうする事で、ポーランド国民の運命を誤ったと非難されても仕方が無いと、私は考えます。言ふなれば、当時のポーランド政府は、李承晩ラインを引いて竹島を占領した韓国以上に、常軌を逸した姿勢で、この問題に臨んだのです。(ポーランドのこうした強硬姿勢の背後には、イギリス外務省やアメリカの工作が有りました)

 

例えて言へば、湾岸戦争に先立つイラククウェート侵攻に似て、「侵攻」の前には、こうした複雑な歴史が有ったのであり、アメリカやイギリスの影が有ったのです。

 


ドイツに何も責任が無かったとは言ひません。しかし、当時の外交記録(電報、書簡、その他)や両国の指導者の発言を冷静に、客観的に読むと、驚くべき事に、戦争を回避しようと最後まで外交努力をして居たのはドイツの方であった事が、誰の目にも分かるのです。それに対して、イギリスとアメリカに扇動されて居たポーランドの指導者たちは、「戦争をする」と、明言して居たのです。ほんの一例ですが、当時のポーランド参謀総長Smiglyは、記憶で書きますが、「開戦」の約3週間前、イギリスの新聞で、こんな発言をして居るのです。


--Poland wants war with Germany and Germany will not be able to avoid it even if she wants to--
   (「ポーランドは戦争を欲しており、ドイツは、避けたいと思ってもそれ(戦争)を避けられない。」)


(イギリスの新聞Daily Mailの1939年8月6日の記事に掲載された発言です。)

 


そして、イギリスの駐ドイツ大使ヘンダーソンが、友人への手紙に書いた通り、ヒトラーは、この問題(ダンツィヒ)に関して、決して強硬な態度は取って居なかったのです。これが、歴史の真実です。そして、そうであったのですから、あの日(1939年9月1日)の悲劇について、ドイツを一方的に「侵略者」と呼ぶ戦後の歴史観は、公平を欠いて居ると、今の私は、考えます。

 


これが、ポーランドを深く愛する私が、到達した、「あの日」についての確信です。

 


そう言ふ私の意見に反発する日本人の内、どれだけの人が、この二冊の本を読んで居るだろうか?と思ひます。
         ↓

http://www.amazon.co.jp/Origins-Second-World-Penguin-History/dp/014013672X/ref=sr_1_2?ie=UTF8&s=english-books&qid=1251800475&sr=1-2


http://www.amazon.co.jp/Forced-War-Peaceful-Revision-Failed/dp/0939484285/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=english-books&qid=1251800343&sr=1-1

 

 


そして、私のこうした意見に反発する日本人の内、どれだけの人が、私ほどポーランドポーランド人を愛して来ただろうか?と思はずには居られません。

 

 

1939年9月1日を「第二次世界大戦開戦の日」と見なす見方が妥当な見方かどうかについては議論が有ります。(話は、そんなに単純ではありません)しかし、日本人は、70年前の今日、ヨーロッパで起きたあの悲劇について、余りにも無関心だと、私は思ひます。

 


大戦の犠牲者の冥福を祈ると共に、ポーランド国民の幸福を心から祈念します。

 

 

 

 

2009年9月1日(火)

ドイツのポーランド侵攻から70年目の日に

 

 


               西岡昌紀

 


ヒトラーは戦争を欲したか?--1939年9月1日の「開戦」の真実
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/80055679.html


フィッシュ氏は、1939年9月1日の開戦直前、議員として、自らドイツとポーランドを訪れ、戦争回避の為に努力をした、アメリカの尊敬すべき政治家です。つまり、フィッシュ氏は、1939年の開戦前夜の外交の舞台裏を知る歴史の生き証人だった訳ですが、その歴史の生き証人であったフィッシュ氏は、この全く不必要だった戦争が起きてしまった原因は、当時のアメリカ大統領、フランクリン・D・ルーズヴェルトに在ったと断言します。

即ち、ヨーロッパで戦争が起きる事を望んで居たルーズヴェルト大統領が、腹心のブリット駐仏アメリカ大使を通じて、裏でポーランドを戦争へとけしかけて居た事を、フィッシュ氏は、次の様に暴露して居るのです。

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 ポーランドの、緩慢な行動は、第二次世界大戦を発火させるスパークの役割を果たした。ルーズベルト大統領は、平和のための偉大な功績者となるチャンスがあったが、彼は、チェンバレン首相の要請を拒否し、事態の解決を遅れさせたので、第二次大戦の勃発を防ぐために何もすることができなかった。
 当時のルーズベルトの対ポーランド政策は、一九三〇年代、ポーランドの駐米大使であったイェルジー・ポトツキーの報告に詳しい。
 この報告は、ワルシャワで、ドイツ側に押収されたポーランドの外交文書の中から見つかり、後に、当時、南米に住んでいたポトツキーにより確認されたものである。
 以下の発言は、一九三九年一月十六日、ルーズベルトのヨーロッパにおける重要な代表であったウィリアム・ブリット駐仏大使が、パリに帰任する際に、ポトツキー大使と会談した時に行われたものである。

「英仏は、全体主義国家と、いかなる種類の妥協もやめなければならないというのが、大統領の確固とした意見である。領土的変更を目的としたどんな議論も許されてはならない。合衆国は、孤立政策から脱却し、戦争の際には英仏の側に立って、積極的に介入する用意がある旨を同義的に確約する。」

 これこそが、介入を約し、ダンチヒ問題に関して、いかなる平和のための妥協に対しても、はっきりと反対した、ルーズベルト大統領の戦前の干渉政策の忌むべき証拠である。ルーズベルトが、一九三九年の初めから「全体主義国家とのいかなる種類の妥協もやめなければならない」として、英仏に対し、影響力を行使していたのを証明しているのだ。ブリット大使は、合衆国は、

「戦争の際には、英仏の側に立って、積極的に介入する用意がある」

 ということを確約しているのである。

 ブリット大使の発言は、アメリカの不干渉主義者たちが、ヨーロッパで戦争が勃発する前に主張していたことを、まさに裏ずけるものである。それはまた、もしルーズベルトが、余計な介入をせず、英仏を戦争に追い込まなかったならば、ヨーロッパで戦争は起きず、ダンチヒ問題も、平和的に解決されていたであろうとする、対ルーズベルト非難が正しかったことを証明するために極めて重要なものである。
 チェンバレン英国首相とジョルジュ・ボネ仏外務大臣の二人も、ドイツに対して戦争を起こすよう、ルーズベルトからの圧力があったことを公に認めている。
 このブリット大使との会談についてのポトツキー大使の報告は、ルーズベルト大統領が、ブリット大使を通じて、また直接チェンバレン首相に対して、強力な戦争を起こすための影響力を行使したことの明確な証拠の一つである。
 合衆国大統領が、ヨーロッパの政治に直接介入し、平和ではなく、戦争を推進したのはアメリカの歴史が始まって以来の出来事である。
 私は、歴史と行政学で優等の成績で卒業した後、ハーバード大学の歴史の講師の地位をオファーされたことがある。今では、それを引き受けなかったことを後悔している。しかし、私は議会の外交委員会に二十年間籍を置き、わが国の外交政策に関しては、だいたいフォローしてきていた。
 その中で、合衆国大統領が、大使やその他のチャンネルを使って、ヨーロッパで戦争を起こそうとした例は知らない。われわれの大統領は、全員が不変の政策として、平和に賛成であった。かつて戦争を扇動したり、推し進めようとするために、自己の影響力を用いたような大統領はいなかった。
 ルーズベルト大統領が、ヨーロッパで、枢軸勢力に対抗するために、戦争を使そうしたということは、ブリット大使の行動と発言やジョルジュ・ボネ仏外相からの手紙、またチェンバレン英国首相からケネディ大使に宛てた同様の発言、フォレスタル海軍長官宛ての同趣旨の発言--これは長官の日誌にも引用されている--からも明らかである。
 また、第三章で引用した、ピアソンとアレンの書きものは、どうやってルーズベルト大統領が、チェンバレン首相にドイツとの戦争を強いたのかを教えている。
 これらすべての記述は、ルーズベルトが、英・仏・ポーランドヒットラーと戦わせようとして、影響力を行使したことを証明しているのだ。


(ハミルトン・フィッシュ著 岡崎久彦訳『日米開戦の悲劇』(PHP文庫1992年)143~145ページより) (原題は TRAGIC DECEPTION (Hamilton Fish 1983))
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E3%83%BB%E9%96%8B%E6%88%A6%E3%81%AE%E6%82%B2%E5%8A%87%E2%80%95%E8%AA%B0%E3%81%8C%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E5%A4%A7%E6%88%A6%E3%82%92%E6%8B%9B%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-PHP%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%8F%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B3-%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5/dp/4569565166/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1378017486&sr=8-1&keywords=%E6%97%A5%E7%B1%B3%E3%83%BB%E3%80%80%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5


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ルーズヴェルトにとって、ベック外相をはじめとする当時のポーランド政府指導者達は、東アジアにおける張学良や蒋介石と同様の役割を演じるチェスの駒だったのです。


これこそが、ポーランドの悲劇の核心だったと、私は思ひます。


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フィッシュ氏は、続けます。


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 ダンチヒはドイツ人の街であり、もしドイツ側に返還されたならば、ドイツは、ポーランドの独立と統一を保障する条約に署名するのに同意していたことを考えると、両国の指導者、軍上層部の政策は無益で、悲劇的であった。
 ピルスドスキー元帥は、ポーランド史上、最も偉大な英雄であり、政治家であるが、もし彼が生きていたならば、ダンチヒを返還してドイツと和解し、ポーランドの独立と統一の保障をドイツから取りつけたであろう。それは、ピルスドスキー元帥が親独的だからではなく、彼がソ連を知っており、共産主義を恐れ、憎んでいたからである。
 ポーランドにとって不幸なことに、元帥は、第二次大戦の始まる五年前に、この世を去っていた。元帥は、ヒットラーすら一目置いていたほどの強力な指導者で、偉大な軍事的指導者であった。
 私は、数多くのポーランド亡命者たちと話したが、彼らは一致して、もしピルスドスキー元帥が健在であったら、ダンチヒ問題は平和的に解決され、ポーランド侵攻も、第二次世界大戦も、共産主義者による一万二千人のポーランド軍士官の虐殺も起こらず、自由なポーランドも共産化しなかったであろうという意見に同意した。
 一九三九年八月の時点で、最も重要で議論の的となった問題は、ダンチヒ自由市の地位であった。このドイツ人の街の回復は、ヒットラーとドイツのめんつにとって不可欠の条件であったのだ。ダンチヒに対し、ドイツが正当な権利を有することは、すべての人々--ベック外相ですら、しぶしぶと--が認めていた。多分、そのために、ベック外相は、手遅れになるまで、ドイツと交渉するのを避けようとしていたのであろう。
 数カ月後、自由を愛するバルト海諸国は、フィンランドを除いて、ソ連に支配され、しばらくして共産主義化されてしまった。このことを、私は数年にわたって警告し続けていたのだ。つまり、いったん戦争が始まるならば、貪欲な共産主義者の禿鷹(はげたか)が舞い降りて来て、東ヨーロッパの血塗られた屍体を浚(さら)って行くだろうということである。
 もしポーランドダンチヒと回廊の返還に応じていたとすれば、どうなったか考えてみよう。
 ベック外務大臣は、返還に応じる意志があった。しかしルーズベルト大統領とポーランド軍将軍たちが、手遅れになるまで、それを妨げたのであった。
 ダンチヒをドイツに返還していれば、ナチス・ドイツは、ポーランドへ侵攻する口実を失い、独ソ不可侵条約から方向を変え、ポーランドの共産化を防いだであろうし、ヒットラーの、ポーランド在住ユダヤ人絶滅政策を未然に防いだであろう。


(ハミルトン・フィッシュ著 岡崎久彦訳『日米開戦の悲劇』(PHP文庫1992年)138~140ページより)
(原題は TRAGIC DECEPTION (Hamilton Fish 1983))
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歴史に「もし」は無い、と言はれます。

しかし、その「もし」について考える事で、歴史の真実が何であったかのかに気が付かされる事は有ると、私は思ひます。


(2010年9月1日~7日)

 

 

               西岡昌紀