石原の予測

石原莞爾の世界戦略構想』川田稔

 ところで、明言はしていないが、アメリカは、たとえ満蒙領有時に介入してこなくとも、もし日本が中国本土に踏み込めば必ず介入してくると、石原はみていたようである。たとえば、石原は次のように記している。

 「日米持久戦争
   原因 支那問題
    平和なき支那を救うは日本の使命にして、同時に日本自らを救う唯一の途なり。
    これがためには米国の妨害を排除するの必要に迫らるべし。」(「軍事上より観たる日米戦争」)(p115)

二・二八事件

『台湾の歴史と文化』大東和重

 二・二八事件とは、闇タバコ売りの女性を摘発しようとした警察官と群衆がもみ合いになり、やがて大きな騒乱となった、戦後の大きな事件の一つである。(p198)


 国民党を率いる蔣介石(一八八七―一九七五年)は、中国大陸で共産党との内戦の最中にあった。日本軍が降伏するや、今度は共産党との激しい戦争となったが、援軍要請を受けて、基隆と高雄の両港に二個師団を上陸させる。国民党政府軍は本省人の抗議活動を武力で鎮圧し、各地の処理委員をはじめとする指導者たちを政府に敵対するものとみなし、容赦なく投獄・殺害した。多くは国民党政府の悪政に対し改善を求めたのであり、政権転覆の意図などなかった。しかし事件関与の嫌疑を受けた多くの台湾の知識人が、冤罪で非業の死を遂げた。二万人以上の死者が出たとされる。(p199)

冷酷な意図?

『我は苦難の道を行く 汪兆銘の真実 下巻』上坂冬子

 だが敗戦日本に向けて重慶政府が掲げた「以徳報怨」のスローガンはあくまで日本向けで、このあと蔣介石の指令によって梅花山にあった汪兆銘の墓は一挙に爆破されたのであった。汪兆銘の末娘で、現在香港に在住する汪文恂が、何応欽将軍になぜ父親の墓を爆破せねばならなかったのかと抗議したところ、彼は、
 「さあ、なぜでしょうねえ」
 ととぼけてみせたと伝えられている(『漢奸裁判史』)。
 かくて日本の敗戦とともに、汪兆銘のすべては木っ端みじんに消えたのであった。(p97)


『昭和精神史』桶谷秀昭

 蔣介石は、先に引用した汪兆銘の通電を受取ると、一九三九(昭和十四)年元旦、国民党臨時中央常務委員会を招集し、汪兆銘とその同志の党籍の「永久剝奪」を決議した。
 汪兆銘夫妻は、秘書曾仲鳴夫妻とハノイに逼塞してゐたが、三月二十一日未明、重慶政府の特務機関藍衣社が放つた暗殺者に襲撃された。暗殺者は汪を襲ふつもりで誤つて曾仲鳴の寝室に拳銃を乱射して射殺した。
 暗殺を直接命じたのは特務の首領戴笠であるが、戴笠が蔣介石の命令を受けた確証はない。元旦の臨時中央常務委員会では、蔣介石は寛大な処置を提案したが、林森、呉稚暉、張継ら委員の強硬意見が通つた、と楊樹漂著『蔣介石伝』は書いてゐる。
 しかし、蔣介石の寛大な発言こそが、彼の冷酷な意図の隠れ蓑であつたといふ推測も可能である。当時の国民党内部の派閥確執にともなふ陰惨な雰囲気には、会議の発言など真に受けてゐては到底推し測れない無気味なものがある。
 この二か月ほど前には香港で汪派の林柏生が戴笠の部下にハンマアで滅多打ちにされてゐるし、汪の甥の沈次高も殺されてゐる。
 汪兆銘は身の危険を感じてハノイを脱出した。影佐、犬養ら日本側と連絡をとり、七百五十トンの発動機船で洋上に出、山下汽船会社の北光丸に移つて、上海へ向つた。(p512)

松井大将の陣中日記

『昭和精神史』桶谷秀昭

 ついでながら松井石根は単純な強硬派ではない。彼は孫文を尊敬するアジア主義者であり、胡漢民、李宗仁、白崇禧、唐紹儀ら広東派の国民党要人と相識のあひだがらであつた。現に李と白は国民政府国防会議の委員であるが、その来歴は反蔣介石派である。
 松井は南京城攻撃の二日前に投降勧告文を飛行機により城内外に散布し一日の期限をもつて回答を求めたが、得られなかつた。孫文の中山陵をはじめ多くの歴史的遺跡が戦火に破壊されるのを防ぐ意図がこめられてゐた。
 戦後、東京裁判で、松井は南京入城の際に日本軍による中国民衆十万人余の大虐殺の責任を問はれて絞首刑となつた。彼はその事実を最後まで否定してゐる。
 南京が占領されたのは十二月十三日、十七日に入城式が行はれ、十八日には陣没忠霊祭があり、松井は式後、各軍師団長、参謀長に、「軍紀、風紀の振粛」と「支那人軽侮思想の排除」を訴へてゐる。
 翌十九日、幕僚数名と清涼山から城内外を看望した。「概して城内は殆ど兵火を免れ、市民亦安堵の色深し」(『陣中日記』)と書いてゐる。東京裁判は十三日から十九日にかけて大虐殺が最高潮に達したといふ。しかし松井の日記は二十日の記事に、「避難区に収容せられある支那人は概して細民層に属するものなるも、其数十二万余に達し」とある。彼らはドイツ、アメリカ宣教師団体、紅卍字会等の協力を得て保護されてゐた。(p325)

宋哲元の意志

『昭和精神史』桶谷秀昭

 宋哲元は軍人といふより冀察政務委員会を指導する行政家であり、また保守的な文化思想の持主で、民国二十五年に国府主席林森と北京柏林寺蔵の龍蔵一切経の印行を計画したり、広東の陳済棠が小学校に読経を正課とする提唱に賛意を表明したりしてゐる。いはゆる読経存文運動といふ文化運動で、これは抗日、尊孔、読経を唱へることで軍閥が国民党に対抗する文化イデオロギイとして利用したものだが、発展しなかつた。
 そのうちに七月二十五日に廊坊事件が起り、翌日、北京の広安門事件が起り、いずれも日中両軍の偶発的衝突の観のある両事件によつて、長期にわたる戦争に突入した。

 刻下ノ情勢ニ鑑ミ支那駐屯軍司令官ハ臨命第四〇〇号ヲ廃シ所要ニ応ジ武力行使ヲ為スコトヲ得

 参謀本部が七月二十六日に発した右の「臨命第四一八号」は、七月八日の「事件ノ拡大ヲ防止スル為更ニ進ンデ兵力ヲ行使スルコトヲ避クベシ」といふ不拡大方針からの決定的な転換である。
 廊坊、広安門両事件において、日中両軍のいづれの側にも計画的挑発のあつたことは認められない。
 国民党中央の意志は強硬で、蔣介石は七月十六、十八日に再度宋哲元あてに電報を打ち、日本が提案した協定に勝手に調印したことを責め、責任は自分ひとりが負ふから、あくまではつきりした態度を堅持せよと激励してゐる。しかし宋哲元からは何の返事もなかつた。
 蔣介石が廬山でおこなつた七月十七日の演説「蘆溝橋事変に対する厳正表示」は、日本にたいする最後通告の実質をもつてゐる。北京は第二の瀋陽(奉天)とならうとしてゐる、そのときは河北、チャハルはかつての東四省(満州内蒙古)と化さう。中国は「最後の関頭」に立つてゐる、ただ抗戦あるのみ。
 しかし蔣介石の徹底抗日戦の意志も、宋哲元を決定的に動かさなかつたやうにみえる。宋は協定により北京城内の第三十七師の中国軍部隊をすこしづつ撤去しはじめた。
 香月清司中将によれば、宋哲元の意志が蔣介石に一体化したのは二十二日、北京における冀察政務委員会で、南京からひそかに潜入して来た蔣介石の参謀次長熊斌に会つて威嚇説得されたからではないかといふ。(『香月清司中将回想録』昭和十五年)
 それにしても宋哲元は廊坊事件の直後、日本駐屯軍から最後通牒を突きつけられたときになつても、困惑の態で、北京の特務機関松井大佐のところへやつて来て、
 「従来は自分の方に不覚があつた――さういふ通牒を出してくれるな」
 といつた。しかしその日の晩に広安門事件が起つた。宋哲元は北京市長秦徳純と自動車で現場附近まで駈けつけてたいへん心配してゐた、と香月中将はいつてゐる。この期に及んでも宋哲元に戦争をやる肚はなかつたとみてよく、結局、彼の麾下の馮治安(河北省政府主席を兼務)の第三十七師軍に出し抜かれたといふ。
 香月中将は参謀総長陸軍大臣に兵力使用の電報指令を仰いだが、その応答は七月二十六日の石原莞爾第一部長からの
 「徹底的ニ膺懲セラルベシ、上奏等一切ノ責任ハ参謀本部ニテ負フ云々」
 の電報を受けとつただけであつた。香月は軍中央の煮え切らぬ対応にいら立ちながら、二十七日よりの一斉攻撃にふみきつた。(p300)

石原莞爾の不拡大方針

『昭和精神史』桶谷秀昭

 事変突発当初、陸軍省参謀本部は、だいたいにおいて戦争に消極的であつた。…
 たとへば参謀本部第一部長石原莞爾は、思想的にはもつとも徹底した不拡大方針を抱いてゐて、満州国が民族協和の独立国家を実現するために、北支からの全面撤兵を考へてゐた。
 「石原莞爾中将回想応答録」(昭和十四年秋におこなはれた竹田宮殿下との対談)で、石原は当時の考へ方を語つてゐる。

 動員は不拡大方針を放棄せしむる威力大でありますから不拡大方針を有する以上動員を成る可く避けたいのは当然でありますが、政策的見地から作戦を甚しく不利ならしむることは絶対にいけませぬから形勢切迫せば適時動員をしなければなりませぬ。然し動員即ち不拡大主義の放棄ではありません。動員後も依然外交交渉が進められますが愈々開戦となれば不拡大主義は翻然一抛作戦至上になつたのであります。

 石原莞爾は論理の透徹した思考の持主であり、またその思想が転向する場合には、いついかなる契機で転向が生まれたかに関して鋭敏な自意識のはたらく資質であつたから、右のやうないひかたで詭弁を弄してゐるわけではない。政策上の不拡大が軍事作戦上の不利を招くときは、軍人として作戦至上を採らざるをえないといふ決断を語つてゐる。切迫した形勢下で、不拡大の方針のために、五千の駐屯軍と居留地の邦人を見殺しにできないといふのである。
 この、あれかこれかの選択は、参謀本部内の支那班の楽観論に立つ強硬派の主張と結果において違ひはないやうにみえる。強硬派は今度の事変も、満州事変のときのやうに簡単に片づくと楽観してゐた。さういふ強硬派は関東軍の幕僚にもすくなからずゐた。これを契機に北支を日本の勢力下に掌握するといふ謀略的発想を抱いてゐた。
 石原莞爾の思想は、軍事作戦の決定に蔽はれてみえなくなつてゐるが、宋哲元軍を叩き蔣介石の国民党中央軍と事を構へれば、長期戦に曳きずりこまれる悲観的な予想を抱いてゐた。
 この予想が何に由来するかは、彼の満州国創設の過程で体験的に知つた中国人の政治能力への認識であらう。彼は満州事変の謀略に加担した主要人物だが、その後満蒙の統治が現実の問題となつてから、満蒙占領論から満蒙の独立論、つまり民族協和による王道楽土の建設の理想に転向した。

 その第一の理由は、中国人の政治能力に対する従来の懐疑が、再び中国人にも政治の能力ありとする見方への変り方であつた。当時中国は蔣介石を中心とする国内の統一運動が、国民党の組織をその基盤として非常な勢で延びて行つた。生活の根本的な改善からはじまつて国民の生活と国家の政治、経済等の直接的な結びつきに依る革新運動は、従来の軍閥のやり方と全然違つて新しい息吹きを中国に与へる様に思はれたのである。
 中国人自身に依る中国の革新政治は可能であると言ふ従来の懐疑からの再出発の気持は更に満州事変の最中に於ける満州人の有力者である人々の日本軍に対する積極的な協力と、軍閥打倒の激しい気持、そしてその気持から出た献身的な努力更に政治的な才幹の発揮を眼のあたり見て一層違つて来たのである。(『満州建国前夜の心境』)

 石原莞爾の中には機敏な謀略家と理想家とが共棲してゐたやうに思はれる。機敏な謀略家は満州事変を惹起し、二・二六事件の蹶起軍をてきぱきと鎮圧し、あるいは宇垣一成の組閣を潰したりしたが、参謀本部第一部長(作戦部長)として、彼は憂ひ顔のもつとも純粋な不拡大論者であり、そのために作戦論とのヂレンマに追ひつめられた。
 大谷敬二郎『昭和憲兵史』によると、石原は懊悩煩悶のすゑ、杉山陸相、梅津次官ら陸軍省首脳にむかつて、
 「この際北支軍全部を一挙に満支国境にまで引き上げよ、そして近衛は南京に飛んで直接蔣介石と膝詰談判して解決せよ」
 と迫つた。これは現地居留民の保護を放棄することを意味する。
 石原の中の理想家はそこまで思ひつめたわけだが、杉山陸相も梅津次官もこれに反対した。彼らも不拡大に反対でなかつたが、この機会に中国軍を膺懲することで事件の急速な解決ができると考へてゐた。この考へ方が七月十一日の政府声明となつた。
 政府声明は、七月七日夜半の不法射撃を第二十九軍の「計画的武力抗日」と断定し、

 惟ふに北支治安の維持が帝国及び満州国にとり緊急の事たるは茲に贅言を要せざる処にして支部側が不法行為は勿論排日侮日行為に対する謝罪を為し及び今後斯かる行為なからしむる為めの適当なる保障等をなすことは東亜の平和維持上極めて緊要なり、仍て政府は本日の閣議に於て重大決意を為し北支派兵に関し政府として執るべき所要の措置をなす事に決せり、……

 といふ強硬な態度を表明した。
 ところがこの十一日午後八時、現地では日本軍と宋哲元軍とのあひだに、(一)謝罪(二)将来に関する所要の保障(三)直接責任者の処罰の三項目から成る協定が成立してゐた。
 十二日に支那駐屯軍司令官として現地に着任した香月清司中将は、二日後、陸軍省参謀本部連名の「事変処理ニ関スル方針」を受けとつた。その内容は、
 「十一日の彼我の協定を全面的に承認し、軍はその実行を監督する、もし実行する誠意がないならばこれに膺懲的打撃を与へる、しかし兵力を支那駐屯軍が使用せんとする時はあらかじめ中央部の承認を受けよ」
 といふもので、香月中将は困惑し、不快になつた。なぜなら彼は軍司令官になつたとき、参謀本部から、
 「逐次増加サルベキ兵力ヲ併セ指揮シ支那駐屯軍司令官ノ任務ヲ達成スベシ」
 といふ作戦命令を受けとつてゐたからで、この作戦命令には当然、軍司令官としての兵力使用の権限は委任されてゐるのに、それをいちいち中央部の承認を受けよといふのは、司令官を「デクノ棒」扱ひするものだからである。香月はもともと拡大論にくみしてゐたからその不快は甚しかつた。
 現実問題として、協定は成つたとはいへ、蘆溝橋附近では依然として彼我両軍は相対峙してをり、一触即発の危機を孕んでゐるのであるから、再び不意の衝突が起つたとき、いちいち参謀本部陸軍省に兵力使用の許可を仰ぐのでは、とても任務の遂行はおぼつかない。
 しかもすでに関東軍と朝鮮駐屯軍から兵力を派遣する決定をしてゐるのだから、それはせつかく成立した協定の実行を相手に迫つても、逆に相手を刺激してぶちこはすことにもなりかねない。
 香月の不快は憤懣にまでつのつたが、おなじ頃、宇佐美侍従武官が一将校に托して、天皇の気持を伝へる手紙をよこした。
 「お上のお思召も事変の拡大と云ふことを非常に御軫念遊ばされて居られますから此の辺のことは十分心得て居ると思ひますがお思召の点をお伝へします」
 この手紙は香月を大きく動かし、彼は以後不拡大の方針を作戦の上につらぬかうと決意した。すなはち北京南郊外の南苑の一地点に兵力を集中し、天津にも北京にも一箇中隊しか置かず、戦端が開かれた場合、居留民の保護も交通線の確保も放棄せざるをえない、といふ方針である。
 七月十八日に宋哲元が謝罪に来た。
 「自分は今回の事変について甚だ遺憾に思ひます。今度のことについては軍司令官の指導を仰ぐことにしたいと思ひますから何事によらず指示に与りたい」
 といふ丁重な挨拶で、 "謝罪する" とはいつてゐないが、香月は「遺憾に思ふ」の含意に謝罪がこめられてゐると解釈した。面子を重んじる中国人がみづから出向いてきたこと自体からもさう感じたであらう。
 翌日、日本側の「将来に関する所要の保障」の具体的細目要求を全面的に容認する条件を持つてきた。かいつまんでいへば、共産党の策動の弾圧と、さまざまな形の排日運動の排除の実行である。(p296)