社会規範

南原繁の思想世界』加藤節

 例えば、南原自身が「個人主義を徹底して、近世自由主義を確立した」と評したロックはその典型であった。ロックは、人間を自由かつ平等で、かつ自律した個人としてとらえた。しかし、ロックのその個人は、自己完結的に自足する存在ではなく、「社会を……享受させるために」神が「知性と言語」を与えた存在、その意味で「社会」が「精神のなかに実在している」社会的存在にほかならなかった。そして、周知のように、ロックの人間は、その社会性に支えられて、「生命、健康、自由、資産」への「固有権 property」を確実に保全するために統治関係を含む政治社会を形成するとされたのである。(p30)


 ロックのこの例が示すように、「個人主義」的世界観がすべて「社会共同体固有の規範」の否定に直結しているわけではなく、その点で南原の「個人主義」批判はいささか行き過ぎであるといわなければならない。(p31)

南京の「ナ」の字もなかった

日中戦争 一体どこが「侵略」だというのか  渡部昇一 石平
https://ironna.jp/article/1072

石 中国が捏造した最大の“傑作”は「南京事件」ですね。

渡部 あの話がおかしいと私が思ったのは、まずこういうことでした。シナ事変初期には兵隊さんたちが1、2年でみんな帰国していたんです。うちの近所でも2人くらい帰ってきた。だから、全国では何万人と帰ってきている。にもかかわらず、南京大虐殺など噂にもならなかった。

 昭和17年(1942)に日本の機動部隊がミッドウェーで大敗したときには、それは極秘だったにもかかわらず、私は近所の遊び仲間から、「もう加賀も赤城もなくなったんだぞ」と聞かされました。加賀も赤城も、われわれが幼いころから名前をよく知っていた日本の主力航空母艦ですよ。大変なことになったと思いました。東北の小さな町にも、そういう極秘情報はちゃんと伝わってくるんですよ。だから、南京大虐殺が本当にあったとしたら、その当時、噂にならないわけがない。

石 実は、私も日本に来るまで南京大虐殺など一度も聞いたことがなかった。中国の小学校、中学校の教科書にも南京大虐殺なんて載っていませんでした。

渡部 それは重要な証言ですね。

石 もちろん、日本軍がどんなにひどいことをしたかということはさんざん教わってきました。それでも南京の「ナ」の字もなかった。

渡部 南京虐殺について、公式に日本政府に抗議してきた政府はない。

石 蔣介石自身も抗議していない。日本留学から中国に帰ったとき、南京出身の大学のクラスメイトに、「親父さんかお祖父さんから、大虐殺の噂を聞いたことがあるか」と聞いたら、やはり「ない」と言っていました。

 最初、南京で30万人殺されたという記述を読んだときに、素朴な疑問を感じたわけです。中国では、歴史的な大虐殺が何度もありました。どこそこで100万人の捕虜を殺したとか、そういう記述が歴史書によく出てきますが、そういうところを掘り返すと、たしかに人骨がいっぱい出てくるんです。面白いことに、2000年前の記述でもじゃなくて、必ず出てくる。しかし、南京から何十万体の骨が出てきたなんて話、一つも聞いたことがない。

渡部 当時、戦争が起こりそうになると、お金のある南京の市民は大部分が逃げたんです。逃げるところのない人たちや外国人が南京に残っていた。そのときの20万人という人口はかなり正確な数なんです。ところが、それから1カ月後に、市民を食わせなければならないので日本が食糧を調達したときには25万人になっていた。

石 増えているんですね(笑)。そもそも30万人なんか殺せない。仮に30万の死体があったとして、その数字を誰が集計したのか。物理的に不可能です。

 しかし、日本の知識人が南京虐殺をことさらに言いふらしたり、日本を攻撃することによって社会的地位を得たりというのが私には信じられない。本来なら逆でしょう。

 

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攻略からまもない昭和13年初頭の南京露店街 大にぎわいを見せている

日本は満洲を中国に返した

日中戦争 一体どこが「侵略」だというのか  渡部昇一 石平
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石 五四運動の後、しばらくしてコミンテルンが中国で共産党を作った。中国共産党は自分たちで作ったものではなくて、コミンテルンの中国支部に過ぎない。日中関係のすべての問題がそこから生じてきたと言ってもいいのではないでしょうか。

渡部 ロシア革命コミンテルンがなければ、大陸はずっと穏やかなままだったと思います。中国人も誤解していると思うんですが、日露戦争前の満洲はロシア領になっていたんです。ロシアはまだ自分の領土であると主張してはいなかったけれど、清国の役人が満洲に入るときには、ロシア官僚の許可を得なければいけなかった。

 その満洲を、日本は日露戦争でロシアを追い出して当時の清国、つまり中国に返したんです。そしてロシアが作った鉄道と、南満洲鉄道の権利、それから日清戦争で日本が得た東半島の租借権だけをもらった。あのままほうっておいたら、いずれ「満洲スタン」(「スタン」は国や地方を表すペルシャ語起源の言葉)なんて地名になっていた。

 北シナも朝鮮もそうです。半島はいまごろ「コリアスタン」になっていますよ(笑)。

石 朝鮮人満洲人も何々スキーという名前をつけられていたでしょう。キムスキーとかね(笑)。

渡部 だからスターリンは昭和20年の8月に、これで「日露戦争の敵を討った」と言ったんです。もしもロシア革命がなければ、満洲と東半島は日本が租借し、鉄道は日本が管理して、あとは平和だったはずです。満洲事変も不要だった。

石 日中戦争も起こらなかった。万一、満洲があのころソ連共産党に侵略されていたら日露戦争以来のすべての国防上の安全保障の成果を日本は一気に失うところだった。

渡部 しかし、アメリカが愚かだったから、日本の敗戦でそれが失われたわけです。朝鮮戦争以後、アメリカの歴史家は口をそろえてこう言った。何がシナ大陸を失わしめたか、それは日本を潰したからだと。

「対華二十一カ条」の中身

日中戦争 一体どこが「侵略」だというのか  渡部昇一 石平
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石 そういう意味では、日中戦争にはコミンテルンが大きな影を落としていますね。もう一つ、中華民国大総統袁世凱に日本政府が提出した「対華二十一カ条要求」、あれこそ日本の野望と野心の現れであり、侵略の第一歩だと、中国では必ず言うんです。

渡部 あれは14条までは、これまでの条約を守ってくれという当然の要求です。最後の七カ条は、そのために日本の人材を積極的に登用して権利を認めてくれという希望でしたが、結局、最後にはその部分をすべて削除して条約を結んでいる。後半の7カ条は、希望なんか出すと誤解されると言って、日本の議会でも批判されていたんです。

石 その7カ条に中国は反発したわけですが、結局、その部分は削除された。それはどの国家間でも行われている当然の外交交渉ですね。一方が希望を出して、相手が反発すれば一歩引く。

渡部 あのとき、アメリカが「民族自決権」を持ち出して、いかにも日本が悪いかのように騒ぎたてて中国を焚きつけた。それで問題が大きくなったところがある。

田中上奏文

日中戦争 一体どこが「侵略」だというのか  渡部昇一 石平
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渡部 日本に侵略計画があったという話は、東京裁判のときに証拠として出された田中上奏文がもとになっているんです。田中義一首相のいわゆる「田中メモ」ですが、そこに日本は満洲を征服して、まずシナを、最後には世界を征服するというシナリオが書いてある。

 しかし、実のところ、それは誰が書いたのかわからない。しかも、その侵略を決めたという昭和2年の会議に、元老の山縣有朋も出席したことになっている。ところが、大正11年に亡くなっている山縣有朋が出席できるわけがない。信憑性がないから、証拠として認められなかったんです。最近の研究では、このメモは、コミンテルンがモスクワで捏造して、世界中に広めたのだと言われています。

石 中国の教科書には、「田中上奏文」が必ず載っています。逆に言うと、田中上奏文の存在がなければ、日本が侵略戦争を行ったと断罪することはかなり難しい。

渡部 「田中上奏文」が偽物だということがわかったにもかかわらず、それが世界に広まってしまった。A級戦犯の最も大きな罪とされる「平和に対する罪」は、戦争を計画したということですが、その事実がそもそもないんですよ。

盧溝橋事件

日中戦争 一体どこが「侵略」だというのか  渡部昇一 石平
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石 日中戦争のきっかけとされるのが盧溝橋事件ですが、これによって、中国と日本はやむなく全面戦争に至り、歴史は取り返しのつかない方向に進みました。盧溝橋事件がなければ中国共産党も蔣介石に全滅させられて、今日のような共産主義中国という化け物も生まれなかったでしょう。すべてあの瞬間、昭和12年(1937)7月7日の盧溝橋での発砲事件から、日本にとっても、中国の人民にとっても不幸の歴史が始まった。

渡部 盧溝橋事件も、いまでは国民政府軍に入り込んでいた共産兵が発砲して、意図的に武力衝突を引き起こしたという説がほぼ確立していると思います。もともと戦争をする気はなかったのだから、どうもおかしいなぁと日本軍も国民政府軍も思っていたでしょう。

石 だから、本当に奇妙な戦争だったと思うんですよ。

渡部 盧溝橋事件は一応、現地協定を結んで収まったんです。ところが、そのおよそ3週間後に先述の「通州事件」が起こって、シナに対する日本国民の怒りが爆発した。それでもシナ政府が謝罪したために、まだ戦火は開かれなかった。だから、本当にシナ事変がはじまったのは8月13日の中国側の上海攻撃(第二次上海事変)からです。ただ、それも蔣介石が望んだことではなく、京滬警備(南京・上海防衛隊)司令官の張治中という共産党とみられる将軍が仕掛けたことだった。

執拗な挑発

石 蔣介石は、〈中国人にとって本当の脅威は日本ではなくて中国共産党〉であることがよくわかっていた。だから日本と戦う気はなく、中国共産党殲滅に専念しようとしていました。にもかかわらず、日中は全面戦争に突入した。

 そのA級戦犯は、国民革命軍第二十九軍を率いていた宋哲元です。盧溝橋周辺に駐屯していた中国軍は、国民党軍ではなく、二十九軍なんです。宋哲元の二十九軍は事あるごとに日本軍とトラブルを引き起こしていた。だいたい二十九軍は共産党員だらけでした。だから、どう考えても盧溝橋事件は二十九軍の共産党員が引き起こしたとしか思えない。

 蔣介石も、二十九軍に対して日本にちょっかいを出すなとしきりに言っていた。にもかかわらず、日本が盧溝橋事件の現地解決、不拡大方針を決めると、二十九軍はその翌々日の7月13日に日本軍のトラックを爆破して大紅門事件(注4)を起こし、25日に廊坊事件(注5)、26日に広安門事件(注6)というように、次々に日本軍を攻撃した。“じっと我慢”の動かない日本軍をなんとしても全面戦争に追い込もうとした。そしてついに通州の中国保安隊(冀東防共自治政府軍)による日本人虐殺事件、いわゆる通州事件が起こる。

渡部 そういう挑発は、ソ連の指示によるものでしょう。日本軍がシナ大陸で戦争をしていれば、それだけソ連軍も楽になる。それを見破ったのが石原莞爾です。彼はナポレオン戦争の専門家なんですが、当時、彼が書いたパンフレットを読むと、「シナ事変が起こるとすれば、それはナポレオンにおけるスペインとの戦争と同じである。ナポレオンにとって本当の敵は陸ではロシアであり、海ではイギリスであったにもかかわらず、スペインなどにかまっていたから泥沼に引き込まれてしまった。同じように、日本の本当の敵はソ連なのだから、シナ事変などに巻き込まれてはいけない」と書いてある。

石 冷静に見ていた石原さんのような人が、発言力を失ったのは日本の不幸ですね。

渡部 もし日本が計画的に戦争をするつもりでいたら、まっすぐ南京に向かったでしょう。それで一挙に南京を占領して終わりですよ。

石 日本が計画的に侵略したというようなことはまったくなくて、二十九軍のような中国側の執拗な挑発にのってしまった。

渡部 通州事件のときは、日本人は非常に憤慨したけれど、中国側が謝ったことで戦争にまで至らなかった。

石 本来であれば、謝ってすむ問題ではありませんね。なんと言っても民間人を含めた230人が虐殺されたんですから。

渡部 日本はすぐ水に流すんです(笑)。