『南京の実相』日本の前途と歴史教育を考える議員の会 監修
この会は、中国のように「歴史認識」を政治の道具にすることなく、歴史の真相を「一次資料」に基づいて検証することを目的としています。
たとえば、「大虐殺」の根拠とされている『戦争とは何か』の著者マンチェスター・ガーディアン記者のティンパーリーが、中国国民党の当時の極秘資料で "国民党の工作員" と証明されていますので、その公文書の収集もします。それだけでも『戦争とは何か』は政治宣伝工作本との実体が明らかになります。(p29)
『南京の実相』日本の前途と歴史教育を考える議員の会 監修
《国際連盟議事録の資料としての価値》
検証するにあたって、「南京大虐殺」があったとする一九三七年十二月十三日から翌三八年二月までの公文書を重要な一次資料と判断して、第百会期国際連盟理事会(一九三八年一月二十六日~二月二日)の議事録を入手した。(資料2)
その中で、顧維鈞中国代表は「南京で二万人の虐殺と数千の女性への暴行」があったと演説し、国際連盟の「行動を要求」をしても、国際連盟は、一九三七年十月六日の南京・広東に対する「日本軍の空爆を非難する案」のように採択しなかった。この事実は、東京裁判での二十万人や中国側が昨年まで主張していた公式見解三十万人と桁が違う。
また、その国際連盟議事録の「二万人の虐殺」は、蒋介石軍からの報告ではなく、米国人ベイツ教授やフィッチ牧師の伝聞を記事にしたニューヨーク・タイムズなどの新聞報道に基づくものだった。ちなみに、ベイツ教授もフィッチ牧師も単なる「第三者」ではなかったのである。(p40)
そして、南京陥落前後から国民党は、約三〇〇回もの記者会見をしていたが、その中でも一度も「南京虐殺」があったと言っていない。…国際連盟の会議の場で顧中国代表が「南京虐殺」を訴えても無視された事を、中国は再度記者会見で訴えていなかった。(p40)
『南京の実相』日本の前途と歴史教育を考える議員の会 監修
「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」が、南京問題の総括文書を『南京の実相』として出版するにあたり、関係者御一同の真摯なご努力に対し心から敬意を表します。
私も中国で、歴史認識問題等について何べんも議論した経験がありますが、その都度、私は中国側からの反発を承知の上で、私が今迄に学び得た事を率直に申し述べてきました。この種の話は、あくまで史実に基づいて確認されるべきもので、唯々諾々とその場凌ぎの対応で歴史を歪めたまま放置することは却って両国の将来に禍根を残しかねないからです。
その意味で、この総括文書は、南京戦当時の貴重な一次資料に基づく検証で非常に説得力のあるものです。いままで、様々な検証本を読んでいますが、この総括は、過去の研究成果を時系列に並べ、簡潔に表現されていることで、大変わかりやすく出来ております。…
いずれにせよ、真実が歪められたまま、相手方の報道を看過しておくことは、時間の経過とともに、恰もそれが、真実であるかの様な間違った歴史を後世に残すことになりますから、あくまで史実を正しく検証して、後に続く人達に対する私達の責任を果たさなければならないと考えます。(p13)
『南京の実相』日本の前途と歴史教育を考える議員の会 監修
また、活動記録のあった紅卍字会の埋葬記録の中にも不自然な記述がある。それは、東京裁判に提出された埋葬記録一覧表によると、一ヶ所だけ「埋葬箇所と備考」が空白の日があり、ほとんどが三桁にもかかわらず、最大の埋葬数六四六六名となっている事だ。(資料12)
その月日は、十二月二十八日となっているが、その日、南京は「曇り午後小雪を交へた雨 夜雪になる」だったのです。(p45)
南京攻略戦に上海派遣軍参謀として従軍して、その後一九三八年二月から中支那派遣軍南京特務機関長になって一年間南京に居た大西一大尉が、一番詳細に南京の事を知る立場にあった。その大西氏は、強姦を一度見たと証言しているが、日本軍による暴行、略奪は「見た事がない。私は特務機関長として、その後一年間南京にいた。この間、南京はもちろん、蕪湖、太平、江寧、句容、鎮江、金壇、丹陽、揚州、除県を二回ずつ廻ったが虐殺を見た事も聞いたこともない」と証言している。また、四万三〇七一人を埋葬したという紅卍字会について「中国兵の死体は中国人が埋葬しました。埋葬するのに日本軍に連絡するように頼んだ事がある」とか「紅卍字会が中心にやっていた」と述べている。しかし、約十一万人を埋葬したという "崇善堂" については「当時、全然名前を聞いた事はなかったし、知らなかった。それが戦後、東京裁判で、すごい活動をしたと言っている。当時は全然知らない。」と証言している(『「南京事件」日本人48人の証言』)。大西大尉の証言は、前述した阿羅健一氏のスクープ記事を裏付けている。(p45)
資料16(第三章資料11)を見て頂ければわかりますが、南京で埋葬活動をしていなかった崇善堂が約十一万人の埋葬を加算していたのです。
実際に埋葬していた紅卍字会(こうまんじかい)の記述にも不自然なところがあります。
約六千人を埋葬したとなっている十二月二十八日は、雪が降っていたのです。また、その日だけが、埋葬場所と備考の欄は空白なのです。
東京裁判に提出した紅卍字会の記録を資料17(第三章資料12)に縮小してありますが、子供や女性がほとんど記載されていません。…
男性が戦死体とすると女性や子供がほとんどいなかったという事がわかります。
婦女子の死体がほとんど無いのですから、この記録だけでも「真相箱」の婦女子二万人の虐殺は嘘とわかります。(p71)
もう一人、「朝日」の大先輩でやはり南京特派員であった足立和雄氏は畠中氏にこう答えている。
「私は南京大虐殺なんて見ていません。あなた(畠中)がどういう立場の人か存じませんが、南京大虐殺の証言はできませんヨ」
きつくそう断わられたが、押問答の末、立場をはっきりし、お目にかかった。畠中氏はかねて疑問に思っていた "虐殺目撃者" として名のり出た「朝日」の記者、今井正剛氏について尋ねてみたそうである。足立氏は一言のもとに、今井氏をこう評したという。
「あれは自分で見て記事を書く人ではなかった。人からきいたことを脚色するのがうまかった」
婉曲に彼の『文藝春秋』で発表した二万人の虐殺を見たかのごとき作文など怪しいものである旨示唆したのである。はからずも同じ「朝日」の森山喬氏が筆者に語った今井評と一致する。森山氏も彼の虚言を立証している。なぜなら当時彼と一緒に南京で寝室を同じくして取材していたのに、そんな話はついぞ聞いたことがないというのである。(p113)
『南京の実相』日本の前途と歴史教育を考える議員の会 監修
中国が主張して来た南京で「三十万人の虐殺」は、当時のニューヨーク・タイムズ、ロンドン・タイムズ、朝日新聞、東京日日新聞(毎日新聞)を調査することで荒唐無稽なことは一目瞭然となる。
新聞記事を検証する前に、基本的な事を説明すると、南京城内の広さは東京の世田谷区(58・81平方キロ)より狭く、城内は、(城外の下関を加えて)約40平方キロ。その約十分の一が安全区(3・8平方キロ)だった。そこには、日本軍将兵も勝手に入る事が禁じられていた。その城内では、外国の報道陣が自由に取材し、朝日新聞の取材班は約八十名、毎日新聞は約七十名の大取材班を投入していた。(昭和十三年一月号『文芸春秋』「南京へ!南京へ!」)
ちなみに、現在、全国紙の世田谷区を担当している記者は一名で、常駐している訳ではないとの事である。(p41)
その朝日の記者の一人、山本治上海支局員は「事件というようなものはなかったと思います。朝日でも話題になっていません」と「『南京事件』日本人48人の証言」(阿羅健一著)の中ではっきり答えている。(p42)
戦後、戦時中は、検閲で報道の自由がなかったなどといわれているが、南京攻略戦で朝日新聞の取材班全体の指揮をとった上海支局次長 橋本登美三郎氏は当時の報道規制について「何も不自由には感じてない。思った事、見た事はしゃべれたし、書いていたよ」(前掲書)と証言している。(資料6)
南京攻略戦に同行取材した日本のメディアは、朝日、毎日以外にも報知新聞(現、読売新聞)、読売新聞、同盟通信(現、共同、時事)、新愛知新聞(現、中日)、福岡日々新聞(現、西日本)、都新聞(現、東京)、福島民報など全国の主要メディアも参加していた。その他、大宅壮一、西條八十、草野心平、林芙美子、石川達三、小磯良平など、作家、詩人、評論家、画家も多数、南京に入城しているが、戦後、新聞労連の活動を熱心にしていた朝日と毎日の数名以外、南京で「虐殺」があったと語ったものはいない。
南京攻略戦当時、日本は国際連盟を脱退していたので、南京城陥落を取材していた欧米の報道機関は、単なる「第三国」の報道機関でなく、よりきびしい目で旧日本軍の動向を取材していた事になる。(p42)