通俗小説

芥川龍之介全集8』(ちくま文庫)

文芸一般論

 そこで次の問題へ移りますが、その前にちょっと話したいのは通俗小説と言う問題であります。ロマン主義の文芸も好い、自然主義の文芸も好い、では通俗小説も好いかとお尋ねになるかたも――あるいはないかも知れません。が、仮にあったとして見てこの問題を考えてみましょう。通俗小説と言うものは西洋にもあります。ベンネットと言うイギリスの小説家などは自作の通俗小説に「空想小説」と言う、体裁の好い名前をつけていますが、とにかく通俗小説に違いありません。しかしこの通俗小説はどのくらい普通の小説と違っているかと言うと、――勿論新聞の絵入り小説を通俗小説と決めてしまえば、甚だ簡単に片づいてしまいます。けれども少し立ち入って考えて見ると余り判然とした区別はありません。理屈よりも手っ取り早い事実を考えて御覧なさい。フランスのユウゴオと言う小説家の書いた「レ・ミゼラアブル」と言う小説があります。あれを日本の新聞の絵入り小説にしたとすれば、通俗小説にならないでしょうか? ならないと言われればそれまでであります。しかし黒岩涙香の「レ・ミゼラアブル」を訳述した「噫無情」と言う小説は一世の喝采を博しました。近頃久米正雄君の訳述した「レ・ミゼラアブル」すなわち「此悲惨」も同じように歓迎を受けたようであります。すると「レ・ミゼラアブル」はとにかく通俗小説としても成功すると言わなければなりません。この例に微してもわかるように、通俗小説は普通の小説と余り変わってはいないのであります。もし普通の小説と幾分でも変わっている所があるとすれば、それは文芸か文芸でないかの問題よりも文芸的価値が多いか少ないかの問題、――すなわち質の問題よりも量の問題に違いありません。そのまた量の問題にしても、通俗小説として書かれたものは必ず文芸的価値に乏しいとも決定することは出来ぬようであります。もしそれ通俗と言うならば、近松門左衛門浄瑠璃井原西鶴浮世草子もやはり十七世紀の通俗戯曲や通俗小説だったと言わなければなりません。