思想の価値

芥川龍之介全集8』(ちくま文庫)芥川龍之介

文芸一般論

 今度は技巧に縁の遠い、或文芸上の作品の持っている思想と言う問題をとって見ましょう。これも文壇ではややもすると、見当違いな非難を受け兼ねません。たとえば或作品が「人の性は善なり」と言う思想を持っていると、あんな思想は孟子にもある、あの作品はつまらんと言う非難を受ける類であります。しかし或作品の持っている或思想の哲学的価値は必しもその作品の文芸的価値と同じものではありません。唯或作品の持っている或思想の哲学的価値と言うことばかり考えれば、おそらくはゲエテもシェクスピイアもよほど光彩を減ずるでありましょう。現にショオなどはシェクスピイアの思想を一笑に附しているようであります。が、幸いにもそのために詩人シェクスピイアまでも一笑に附してはいないようであります。わたしは前に内容には認識的要素と情緒的要素との二つのあることを述べました。或作品の持っている思想とはつまりこの認識的要素の進化したものでありますから、その思想の哲学的価値はやはりあらゆる認識的要素と同じようにその作品の文芸的価値を支配するものと言わなければなりません。しかし或作品の認識的要素はたといどんなに平凡でも、その作品の文芸的価値まで平凡になるかどうかは疑問であります。たとえば近松門左衛門の「鑓の権三」と言う浄瑠璃の中に「笹野権三は好い男、油壺から出たよな男、しんとんとろりと見とれる男」とか何とか言う文句がありましょう。あの文句の認識的要素は――と言うのもばかばかしいくらいでありますが、とにかくあの文句の認識的要素はまことにつまらない、唯「笹野権三は好い男である」と言うだけであります。けれども誰も「好い男がどうしたんだ?平凡なことを言っている」と罵倒するものはありません。或作品の持っている思想と言う問題もこれと五十歩百歩であります。勿論或作品の中に前人未発の思想を持っていれば、その作品は一世を震駭するでありましょう。しかし文芸上の問題になるのはどう言う思想を持っているかと言うよりもいかにその思想を表現しているかと言うこと、――すなわち文芸的全体としてどう言う感銘を生ずるかと言うことであります。