言葉への不信

『日本人の言霊思想』豊田国夫

 日本人の言霊思想の現代版としては、言葉に対する信仰の果てにあらわれた病弊の問題ではなかろうか。これを結論的にいえば、人びとの永い歴史の、言葉への過信と寄りかかりが、つまりは、「言葉への不信」という現象を生みだしてきていたのである。
 さいきん、日本語のみならず、言語一般についての関心が高まっていて、そこでは、「言語とは何ぞや」といったような根源的な問いかけが多いように感じられる。それは、こういった病弊に気づいた不安からではないかとみるのは私の思いすぎであろうか。つまり、よくいわれる、言葉への乱れが「世界把握の乱れ」につながるという不安(大野晋)を感じて、何かとうすれゆく言葉の信頼を回復しようと願う心底のあらわれではなかろうかということである。
 その要因とみられるものは、現代の人びとが、ことごとに言葉をとおしてしかものを見ない、「汎言語主義」(ひろく言葉を第一義として、ものごとをとらえ、理解する。言葉にあらわれないものは事実として信用しない主義)の呪縛にかかってしまったからではないか。もしもそうとすれば、皮肉なことに、この汎言語主義なるものは、古来の言霊思想の「申し子」であるという因縁を反省しなければなるまい。この申し子は、事実の対応のない空疎な道具なり、符号としてのみの言語観を助長しているむきが感じられるからである。こうして、ついに言葉のみの言葉が、人びとの間に権威をもってしまい、大きく立ちはだかるという時代になってしまったと思うのである。言葉への過度の寄りかかりの結果、そうしてこんどは、その言葉そのものへの不信感を醸成するというはめに陥ってしまったのである。
 人びとが、事実を疎外した言葉のみの言葉に全身で寄りかかっていたことからして、言葉はついにその重みにたえかねて、本来のはたらきを果すことができなくなってしまった。言葉というものは、たえず事実との身軽な対応(すなわち言事の融即)があってこそ、その生命を満足するものであったからである。