アジアに関する歴史研究は少年時代

『逆説のユーラシア史』杉山正明

 册封体制という幻想

 もうひとつは、中華王朝を中心にして、日本を含めた”周辺諸国”が「册封体制」という名のランクづけの世界に括られていたとする主張である。それをもって、「東アジア世界の国際秩序」とまでいう人もいる。これは、大学受験参考書にも、ちゃんと、しるされてしまっている。しょせんは、中華王朝の宮廷のなかだけで通用する、仮想された「天下観」の産物にすぎないのに。こんな歴史時代の「建前論」を、さも実態であったかのようにいうのだから、おおらかといえば、じつにおおらかな話である。
 こうしたことは、どういうわけか、不思議と、日本人の中国史家にありがちである。日頃、目にしている漢文文献の「中華思想」が、おもわずしらず、照り返すためかもしれない。莫迦莫迦しいと嗤うのは、簡単である。しかし、問題は、この手の錯覚やおもいこみが、歴史研究者から、世に「文化人」「知識人」といわれる人びと、そしてさらに一般の人たちまで、広汎にひろがっているように見えることである。これは、もちろん自戒をこめているのだが、個々の歴史研究者は、ほとんど無意識に(あるいは無邪気に)、そう発言し、叙述する。だからこそ余計にこわい。ことばだけあって、実体は存在しないことが、繰り返し述べられていくうちに、しだいに意識のなかで実体化してくるからである。
 ただし、同業者のいいわけじみてきこえるかもしれないが、こうしたことは、一面で仕方のない点もある。しょせん、「アジア」に関して、日本における近代学術としての歴史研究は、せいぜいのところ、一〇〇年ほどの歴史しかない。つまり、日英同盟の条文における「東アジア」と同程度である。かたや、ヨーロッパにおけるヨーロッパ自身に関する歴史研究は、近代ヨーロッパの歴史の分だけ、すなわち少なくとも二〇〇年におよぶ営々たる研究の厚みがある。両者は、そもそも、おなじ水準にあるわけがない。
 このことは、ここではっきりお伝えしたい。「アジア」に関する歴史研究は、まだほんの”少年時代”なのである。それは日本にとって、江戸期いらい、長い漢学研究の前史をもつ中国史でさえも、そうである。まして、輪郭すらよくわからぬ「東アジア史」については、なんともいいようがないのである。
 「東アジア史」には、牢固として抜きがたい確実な体系があるなどと錯覚されると、おおいに困る。厖大・多様な文献(典籍、出土文献、文書、碑刻など。しかも多言語)と遺物(英語でいうアーティファクトのすべて。いわゆる遺跡・遺趾も、もちろん含まれる)の一切を、隈なく網羅して、基礎データを徹底して積みあげる域には、なおほど遠い。まして、これまでささやかながらに、あるいはきわめて大雑把に、「わかった」とされていることについても、じつは、ひととおりブルドーザーによる地ならしがされたといった程度で、ほとんどの場合、厳密な歴史研究の立証と検証という篩と鑢には、十分にかけられていないのである。
 「東アジア」も「東アジア史」も、既述のように、一九世紀後半の世界情勢と、それにもとづく知の枠組みを背負った概念である。それが近年の勃興・発展で蘇った。しかし、それにもっともらしい歴史の意味づけをかぶせるには、枠そのものも疑問があるし、研究レヴェルでも用意にとぼしい。
 こういってしまうと、多くのかたがたの夢を打ちくだくのかもしれない。しかし、ありもしない甘やかな夢を、うまうまと物語る気にはなれない。それに、すみやかに提出された結論は、すみやかに消え去る。それが、現実対応の目的でなされたことであればそれで構わないが、長いタイム・スパンで、ゆるぎなく把握しなければならない歴史からの結論を、それなりに求めようとすると、はたしてそれでいいのか。いそいだ結論には、いそいだだけの答えしかないだろう。
 「東アジア史」にかぎらず、「アジア」の歴史については、なまなかのことでは、容易に結論めいたものは、割りだせない。しかし、底しれぬ史料の大海のなかに身を沈め、ひたすら歴史の実態を見きわめようと、ひたりこんでゆくうちに、あるいは、いつか、たしかな「なにか」が浮きあがってくるのかもしれない。そうした挙句に、導きだされた「なにか」こそ、きっと、人類にとっても、なにがしか有効で、ゆるぎない意味をもつのだろう。そうしたまことに息のながい営みを、うまずたゆまず世代と国境を越えて継続しつづけること。――それこそが、あえていうならば、「東アジア史のポテンシャル」といえるものではなかろうか。
 それだけ、分厚く多様な歴史伝統と、それが生みだした「史料」という名の遺産がある。それらの総体こそ、まさに「ポテンシャル」そのものである。いまはただ、「アジア」に関する歴史研究は、なお根本原典と格闘しつつ、日々の研鑽と努力が重ねられているとしか、いうべきことばが見つからない。じれったいかもしれないが、その成果をぜひ息ながく、お待ちいただければ幸いである。