シルク・ロード幻想

遊牧民から見た世界史』杉山正明

 <コラム>シルク・ロード幻想

 ときは、十九世紀もすえにちかいころ。ドイツの地質・地理学者リヒトホーフェンは、中国大陸をあるいていた。中国の大地・物産をしらべ、本国に報告するためである。
 世は、帝国主義列強による植民地獲得のさなかにあった。遅れてきた列強の帝制ドイツは、中国のどこに食いこんだらよいか、それを知りたかった。そのための調査を、リヒトホーフェンに委嘱した。
 動機は、はなはだ不純である。しかし、当時は、みなほとんどそうだった。最後の秘奥とされた内陸アジアにむかって、さまざまな国籍・出身・所属のものたちがでかけていった。ほとんどが、軍人かスパイ、ないしはそれに遠くない人たちであった。それはそれで、仕方がない。いまは、その人たちは、探検家・探検隊であったとされている。純粋無垢に、国家目的と無縁だったのは、よくもわるくも日本の大谷光瑞による派遣団だけだったかもしれない。
 リヒトホーフェンの動機は、不純だったけれども、その調査が不純だったわけではない。かれは、その成果を『ヒーナ』(中国)という巨冊に昇華した。リヒトホーフェンは、偉大であった。『ヒーナ』は、尋常な大きさ、重さ、内容ではない。なまはんかな気持ちで立ちむかうと、はねかえされるし、手もくじく。書物とはこういうものだと、威張っているようにさえ見える。堂々たるものである。
 ところが、リヒトホーフェンは、その大著のなかで、つい「ザイデン・シュトラーセ」と書いてしまった。「絹の道」である。そのこころは、はるかむかし中国の特産の絹が西方、ローマの貴人たちの身を飾った。それが象徴するように、西と東はむかしから見えない手でむすばれていたはずだ。そのおもいが込められていた。ありていにいえば、「そうだったら、いいな」にちかい。
 リヒトホーフェンは、おそらくなに気なく書いた。しかし、弟子のなかに目ざとい人がいた。先生がなくなられたあと、これを派手にいいたてた。『楼蘭』などを書いた人である。その英訳「シルク・ロード」(本当は、英語ではシルク・ルートのほうが多い)というひびきがよかったのか、大変に歓迎された。そうなると、本当にそんな道があろうとなかろうと、あることになった。いまでは、旅行や出版など立派な産業となった。
 「シルク・ロード」は、誕生のときからロマンであった。ついでキャッチフレイズとなった。このふたつの面は、いまも脈々と生きている。そして、「文明」は東西にこそあり、そのあいだの広大な土地は、点と線の通過地とされた。これも、あまり変わらない。叙述上の用語としては、たしかに便利かもしれない。しかし、十九世紀型の誤解の構造を秘めていることも、無視できない。