東洋の目覚め

『東洋の目覚め』岡倉天心

 アジアの兄弟姉妹よ!
 われわれの父祖の地は、大いなる苦難のもとにある。今や、東洋は衰退の同義語になり、その民は奴隷を意味している。たたえられているわれわれの温順さは、礼儀をよそおった異国人の卑怯なあざけりにほかならない。われわれは、商業の名のもとに好戦の徒を歓迎し、文明の名のもとに残酷のまえにひれふしてきた。国際法の光は、白い羊皮紙の上に輝いているが、完全な不正は有色の皮膚に黒い影を落としている。
 王たちの座は、まだくつがえされていないにしても、ゆらぎつつあり、われわれにやすらぎをあたえていたあの平和は、もはや地上にはない。やせおとろえた飢餓が炉ばたにすわり、天は昔のような恩恵の雨を降らさない。男たちは、無言の恥辱のうちにあってたがいに見かわすだけで、その恥辱をみとめる勇気もない。女たちは、今では、英雄をうむために結婚するのではない。
 ボスフォラス(地中海と黒海をむすぶ海峡。アジアとヨーロッパの境界)の水は、白河(中国北部の川)の悲しい暗鬱を映し、満州の丈高い草は、ラジプタナ(インド北西部の地方)の平原を吹きまくると同じ烈風におののいている。月のない荒涼たる夜を、ペルシアの夜鳴鶯(ナイチンゲール)はむなしく慟哭する。花は散り落ち、ふたたび帰らないのであろうか?春は永遠に去ってしまったのであろうか?

 


 アジアの兄弟姉妹よ!
 われわれは、さまざまな理想のあいだを長いあいださまよってきた。さあ、ふたたび現実に目覚めようではないか。われわれは無感覚という河をただよい流れてきた。さあ、もう一度現実という過酷な岸に上陸しようではないか。われわれは、結晶のような生活を誇りとして、たがいに孤立してきた。さあ、共通の苦難という大洋のなかで溶け合おうではないか。「黄禍」の幽霊は、往々にして、西洋の罪悪感がつくりあげたものであった。東洋の静かな凝視を「白禍」にむけようではないか。私は、諸君に暴力をよびかけているのではない。私は諸君の勇気に訴えているのであり、侵略をよびかけているのではなく、自覚をもとめているのである。
 ヨーロッパの栄光は、アジアの屈辱である!歴史の過程は、西洋とわれわれのさけがたい敵対関係をもたらした歩みの記録である。
 狩猟と戦争、海賊と略奪の子である地中海およびパルト海諸民族の、落ちつきのない海洋的本能は、最初から、農業的アジアの大陸的安住とはいちじるしい対照をなしていた。自由という、全人類にとって神聖なその言葉は、彼らにとっては個人的享楽の投影であって、たがいに関連しあった生活の調和ではなかった。彼らの社会の力は、つねに、共通の餌食を撃つためにむすびつくカにあった。彼らの偉大さとは、弱者を彼らの快楽に奉仕させることであった。彼らの誇りは、ぜいたく品をつんだ彼らの車を曳く無力な者たちにたいする軽蔑からなりたっていた。自由を謳歌したギリシア人でさえも、奴隷にたいしては暴君であったし、ローマの逸楽は、エチオピアの汗とゴール(ケルト族の居住地。おもに現在のフランス、ベルギー)の血のなかを泳いでいた。西洋は平等を自慢するが、彼らの特権階級は今なお大衆の背にまたがり、富者は貧者をふみにじることをやめず、永遠のユダヤ人は以前にまさる追害をうけている。
 東方の平和の福音であるキリスト教は、かつては彼らの地平をおおったこともあったが、荒々しい自己主張の精神は、ついに柔和の海に溶けいることがなかった。中世の教会の心理状態は、自己放棄の檻にいれられまいとして荒れくるう野獣の叫びのように、気味わるくまたものすごい。ゴシックのアーチのうす暗がりのなかを、あえてつかむ勇気のない永遠の愛をもとめて、ひきさかれた魂のささやきがはばたく。彼らの最大の聖歌は、呵責から救われた溜息であって、神と一つになりえたよろこびにあふれる乙女の心のこだまではない。

 


 近代の精神は、神をはなれ、黄金にむかってはばたく。人間の内面との戦いに破れた彼らは、ちがった形の征服にのりだす。外的自然の征服は農業であり、精神的征服は科学と芸術である。手工業を近代工業に、同業組合を近代的商業にかえた過剰な組織力は、ギルドを共和国に、都市を国家に、天国を帝国にきずきあげ、群衆をうごかしてフランス革命をおこさせた。科学は、戦争を技術に、医術を技能に、宗教を病院と衛生の問題にかえたとおなじ精神で、実用に近づく。地球を一周する蒸気と電気は、ロンドンの洋服屋とパリの帽子屋をすべての大陸におくりつけるが、それは、彼らの結合の天才が自分たちの民族すべてのために織りなす単一の衣服を象徴している。

 


 一商館にたいする免許が帝国に発展し、一教会にたいする認可が隷属をもたらすことになろうとは、だれが予見できたであろうか?しかもこれが、聖なる神父たちの詐欺を聖化し、陽気な海賊の強欲を正しとした、われわれの寛容の代価だったのである。

 


 破滅の運命は進み、貪欲の徒党はいそぐ。極東は今や、生体解剖のまないたの上にのせられた。(中略)まことに、西洋の栄光は東洋の屈辱である!私は、われとわが身に慚じざるをえない。

 


 アジア問題は、こうして過重になった彼らじしんの軍国主義のきたるべき衝突にたいする安全弁となっている。ヨーロッパの静穏は、つねに、アジアにおける嵐を意味している――われわれの一時的な静穏は、彼らの敵対的な利害が衝突する場合にえられるにすぎない。古代帝国の悲しい生きのこりであるわれわれのうち、日本をのぞいて、みずからを独立の民とよべるものがあるであろうか。

 


 政治的敗北の刑罰は隷属であり、経済的征服の結果は搾め木の苦痛である。十八世紀の後半、東方の略奪からうまれた信用と資本によって、ヨーロッパ産業主義の発明的エネルギーが活動をはじめる。木材のかわりに、石炭が精錬につかわれるようなった。今や、飛梭、紡績機、ミュール精紡機、動力織機、蒸気機関等のおそるべき装置が完成された。農業と協力することも、人類の産業計画を十分に解決することもなしに商業主義の時代に入ったために、西洋は、商品販売市場の発見に依存する巨大な機械になった。
 今や、西洋の役割は売ることであり、われわれの役割は買うことである。今や、工場から宣戦が布告され、政治家の手腕は、雷鳴する工場の塵でおおわれてしまっている。組織化された商業のすさまじい砲列をむこうにまわして、われわれの個人的な商業に勝目があるであろうか?廉価と競争が、彼らの前進を擁護するクルップ砲のように、生きのこった手工業をなぎ倒す。われわれは、これに対抗する手立てを持たない。保護関税が、高圧的外交と敵対的立法によってわれわれにはゆるされていないからである。

 


 産業的征服はおそるべく、道徳的征服はたえがたい。われわれの祖先の理想、われわれの家族制度、われわれの倫理、われわれの宗教は、日に日に色あせてゆく。あいつぐ各世代は、西洋人との接触によって、道徳的根性をうしなってゆく。廉潔のかわりに業績が重んぜられ、人格のかわりに才気が尊ばれる。われわれは、心ならずも、のこされたものを破壊しつくす手助けをする。われわれは、崩壊をもたらす改革をくわだてる。われわれは、社会実験をおこない、滅亡にむかって進行を早める。われわれは没落と戦おうとして、外国の知識をもとめ、異国人のあやまった見地から視るようにわれわれの心を訓練する。われわれはしばしば、絶望のあまり、廉潔は便利にまさることを忘れる。われわれのもっとも偉大な知識人さえ、奇妙な仮定にとらわれている。詭弁は、男が借りることを憎む多くのものを弱さに貸しあたえる。あるものは、静観して行動を放棄すべきだと主張し――すべてのものが、再興の時は熟していないという考えに賛成する。
 ヨーロッパの模倣と崇拝は、ついに、われわれの自然な制度となった。ロンドンの最新流行を誇示するカルカッタや東京の貴公子連の姿は、滑稽をとおりこして悲しくなるほどだが、彼らは、一般的なこの観念のあらわれにすぎない。流行を追うわれわれの学者たちが近代哲学の借り物の文句のなかにもとめる保護色を、彼らは衣装にもとめているのである。

 


 母たちよ、奴隷の種族をうんだことを恥じよ!娘たちよ!卑怯者の種族の嫁となることを恥じよ!中国の外交は有名である。だが、剣にたよらず、舌にたよらねばならぬ民族はわざわいである。インド人の聡明さは有名である。だが、体を鎖帷子でつつむかわりに、その思想を言葉でおおわねばならぬ民族はわざわいである。アラビア人の信仰は有名である。だが、神の摂理を待つだけで、神とともに進まぬ民族はわざわいである。

 


 アジアの国々はたがいに孤立しているために、アジアが真におそるべき状態におかれていることの全体的な意味を理解できないでいる。各国は、王朝の衰退、個々の政権の失政、特殊な災厄などの問題を、自国特有のものと考えている。彼らは、眼のまわるような自分の苦労に心をうばわれて、おなじ不幸が隣人たちを見舞っていることを見ようとしない。
 東洋の家族と国家の自足的構造は、西洋人のような穿鑿好きな好奇心をつつしむ寛容さをそだてた。自然のさだめた領域のなかで、諸帝国が興亡したが、大砂漠のかなた、大山脈のむこうの運命には、無頓着であった。

 


 恥ずかしいことには、近隣諸国についてのわれわれの印象は、おおかたヨーロッパ人の記述に拠っており、したがって、故意に歪曲されてはいないにしても、とうぜん彼らの解釈によって彩られている。外交官のおそるべき虚構、宣教師のかなしいいつわり、とくに、文筆を業とする旅行者の豊かな想像力は、彼らの嫌悪感、彼らの冷酷さから、東洋を奇異で不合理なものに彩色する。われわれは、外国人の誤解にたいする無神経さと、われわれのユーモア感覚そのもののために、これらの中傷にまったく反論せず、黙っていればわれわれの兄弟たちにもおなじ罪を犯させることになるであろうことを忘れている。よく考えてみれば想像もできないようなことを、習慣は信じこませる。中国は恐怖のうちに生き、トルコは残虐をこととし、インドは逸楽にふけって麻痺状態にあるという話を、諸君はいぶからないのか?

 


 西洋の二元性は、家族の観念のなかに完全に解消されることはけっしてなかった。というのは、家族のあいだでさえ、個人は自己を強く主張したからである。それは、個人が基本的単位であることをけっしてやめなかった、その社会制度の場合とまったくおなじであった。利己的な権利を主張し、個人財産をはっきり区別することは、夫婦の幸福を傷つけ、われわれには悲惨としか思えないたえまない不和と不幸な失敗の原因となる。結婚生活の神聖は、現世の契約に低められ――貞操はしばしば、不浄の黄金によってはかられる。彼らの子女は、その巣を去って、よそで結婚生活をいとなみ、婦人は主婦として尊敬されても、母として尊敬されない。彼らの詩歌の高揚、彼らの騎士道の勇敢さ、彼らのもっともやさしい情念のすべては、やさしい母性にではなく、恋人に集中するのである。性の崇拝は、彼らの生活のなかで異常なまでの重要性をもっている。それは、彼らの情念のほとんど全部をしめている――だが、われわれにあっては、それは一部にすぎない。

 


 つねに多様のうちに統一をもとめるわれわれの哲学は、近代ヨーロッパがカント以来むなしくもとめてきた高所に、はるか以前に達している。彼らの経験的方法は、彼らには加算できないような計算を必要ならしめ、彼らの形而上学は、分析の中にうしなわれた分類である。なまかじりの者には、彼らの単純な観念が明解として訴えるが、考え深い者には、半真理の羅列はあいまいさを暴露する。

 


 芸術においては、創造は模倣ではないこと、美は普遍が特殊のなかに吹きこむ個的生命にあるのであって、特殊そのものの描写にはないこと、芸術精神はそれじしんのリズムと調和をまとっているのであって、解剖学あるいは遠近法の異質な付属物ではないことを、西洋はいまだに認識できないでいる。ここでもまた、性崇拝と肉体にたいする過度の偏向が、芸術を、官能主義とまではいわぬにしても、感傷にひきおろしている。われわれの詩人、われわれの画家は、彼らの詩人、画家たちよりも高潔な気持で自然にたいした。われわれの伝統的技芸も、精妙な仕上げと、西洋の美術家たちよりも高度な形体および色彩感覚を発達させた。文芸においては――しかし、われわれの広大な銀河の綺羅星のような名前をあげる必要があろうか?

 


 西洋は無礼にも、われわれを成長のとまった犠牲者と評している。しかし、彼らじしんが、特殊的な発展の異常な標本ではないのか。われわれは、彼らの富と悪徳、仮面をつけた偽善と未婚の娘たち、平和のための軍備と愛のための法律、けちなぜいたくと酔いどれた貧民、安価な教育と強欲な人間性、時間の収縮と希望の緊張におどろく。商業主義は、資本を帝国主義化し、労働を奴隷化する。ストライキは嵐をはらみ、そのうしろで無政府状態アナーキー)が燃えている。あすにも秤は逆転し――東洋は買うことを拒否するかもしれない。工場は牧場ではなく、銀行は穀倉ではない。そのときには、どのような経済的大変動、社会組織の崩壊がおこることであろう!しかし、ヨーロッパはまだ若い――ルネサンスはきのうのことである。ヨーロッパは、学ぶ余裕がある、あるいは学びなおす余裕がある。

 


 たがいの嫉妬にもかかわらず、ヨーロッパの諸国家は、東洋人にたいしては一致して威圧的態度をとることをためらわない。国際法は、異教徒にたいしては封印された書物であり、勢力均衡とは、東洋における獲物の公平な分配を意味している。

 


 外国勢力の侵入が成功しているからといって、それは、われわれの文化がおとっていることを証明するものではけっしてない。寄生虫に侵されるのは、おおかた高等な有機体の悲しい運命である。急所にくいいる悪性の癌は、癌じたいの毒性を示すものであっても、それがやどる身体の弱さを示すものではないであろう。だが、そうしているあいだにも、血は毒され、生命にかかわるこの腫瘍を切りとってしまうまではやめてはならない。われわれは、力の外科医、希望の看護婦を歓迎する。
 われわれを回復させるもの、それは自覚であり、われわれを救うもの、それは剣である。

 


 東洋の各民族は、みずからのうちに再生の種子をもとめねばならない。汎アジア同盟は、それじたいはかりしれぬ力であるが、しかし、個々の要素がまず第一に自分の力を感じなければならない。ほんの少しでも外国の援助にたよることは、それが友好的あるいは同情的なものであっても、許すべからざる弱さであり、われわれが着手し成就しようとしている大儀にふさわしからぬことである。われわれの偉大な先祖は、尊い自己犠牲と輝かしい武勇をあらわした。彼らの崩れた廃墟は、今なお驚異であり、彼らのもっともかすかなこだまでさえも、われわれを奮起させずにはおかない。この偉大な先祖の記憶を、われわれひとりひとりは胸にもっていないであろうか?

 


 運動の指導者たちは、民族の英雄たちの精神をつぎの世代に注入するために結束しなければならない。きたるべき世代に、母の乳房から英雄主義を吸わせ、子供部屋や教室でいにしえの戦いをくりかえし語り聞かせよ。歴史は、われわれの過去の栄光と現在のわざわいを示すことによって、これを学ぶすべての者が報復と救国の熱情に燃えたつように、書かれねばならない。歌は、恥辱と反抗の叫びが、すべての市場と村落、ゼナーナの暗がりとアシラム(インドの行者の隠棲地)の沈黙のなかにおこるように、人民によって歌われねばならない。軍隊は、彼らの剣が祖国のためにのみささげられたものであることを感じ、少女は、依然として奴隷の道をえらぶ卑怯者から身を退かねばならない。農民は、重税にあえぐ貧困の原因を、職人は、不具にされた産業の無益さを、商人は、国家が自由にならなければ真の繁栄ののぞめないことを、教えられねばならない。

 


 その国の支配者が自分じしんの利害に盲目で、外国の統治が、どのような形の民族的復興にたいしてもかならず障害を設けるような国では、困難ははかりしれないほど大きいであろうが、しかし、克服できないほどのものではけっしてあるまい。ジャングルの火の神秘な活動を、どのような法律的手段、どのような行政的監視がおさえることができるであろうか?しかも、われわれの民族の熱情は、大火のごとくもえひろがるにちがいないのである。いかがわしい名誉をあたえて、裏切者を買収することはできるであろう。あいまいな譲歩によって、臆病者を軟化させることはできるであろう。しかし、ひとたび鋼鉄の魂にやきつけられた思想を洗いさることは、けっしてできない。なぜなら、自由への愛は、きわめて純粋で輝かしい焔であり、人々はかならずこの栄光の旗のもとにはせ参ずるからである。くろがねの壁も、魂のこもった歌の進撃をとどめることはできない――「マルセイエーズ」をバスチーユのなかにとじこめておくことは、けっしてできないのだ。宗教の衣が、反乱の武装した手をつつむこともありうる――われわれのピーター・ザ・ハーミットが新たな十字軍を説き、われわれのジャンヌ・ダルクが、アジアのための殉死者となるかもしれないのだ。

 


 時は来ている。自由の旗は、われらのすべての土地にひるがえるであろう。市場には、霊感をうけた歌の荒々しいよろこびが鳴りひびくであろう。鋤は、愛する土地の復讐を戦うためにふたたび振りあげられている。ゼナーナは乳のみ子たちが英雄的な母たちの精神を吸う、愛国主義の子供部屋になっている。