教養主義の没落

教養主義の没落』竹内洋

 京都の大学生のデモの圧巻は円山公園前や四条河原町交差点あたりでの渦巻きデモである。このとき規制しようとする機動隊と激しくぶつかる。機動隊を殴ったり、蹴ったりする回数よりも、殴られ、蹴られるほうがはるかに多かった。学生を殴る機動隊を憎んだ。しかし、機動隊員に対する「権力の手先」という罵倒はともかく、「犬」とか「百姓」という口汚い罵声にはついていけなくなりはじめた。(p11)

 


 大半のプチ教養主義者は、散漫な知識を寄せ集めるニーチェのいう教養俗物(『反時代的考察』)のようなものであったことは否めない。(p24)

 


 教養知は友人に差をつけるファッションだった。なんといっても学のあるほうが、女子大生にもてた。また女子学生も教養のあるほうが魅力的だった。また教養崇拝は、学歴エリートという「成り上がり」(マックス・ウェーバー)が「教養」というメッキによって「インテリ」や「知識人」という身分文化を獲得する手段であったことも否めない。(p25)

 


 マックス・ウェーバーは、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、「宗教上の立場が到達しようと欲した理想と、その立場の信仰が事実上信者の生活態度に及ぼした影響とは、明晰に区別しなければならない」とし、自分の研究はプロテスタントの神学や信仰の理想そのものの研究ではなく、信仰が信徒の生活態度に及ぼした事実の考察であることを強調している。ウェーバーのこの言明を借用させてもらえば、本書の対象は教養そのものよりも教養主義教養主義者の有為転変のほうにある。(p26)

 


 「嘗て、森戸事件は、支配階級が大学教授の赤化を防止するため試みたお灸であつたが、一面に於ては、従来ゴロツキ仲間の思想の如く見られてゐた社会主義思想が大学教授達の間に食ゐ入つたことによつて、社会主義は著しく男前を上げた」(『学生社会運動史』)
 社会主義は壮士あがりのならず者やごろつき集団まがいの矯激な運動あるいは在野知識人の運動ではなく、知的青年の社会思想や社会運動に格上げされたのである。ここらあたり「野卑」で「淫猥」とまでされた小説に、東京帝国大学講師だった夏目漱石が手を染め、また専業小説家となることによって、小説が知識人の嗜みに格上げされていった過程と似ている。(p41)

 


 マルクス主義が知的青年を魅了したのは、明治以来、日本の知識人がドイツの学問を崇拝してきたことが背後にあった。しかしそれだけではない。マルクス主義は、ドイツの哲学とフランスの政治思想、イギリスの経済学を統合した社会科学だといわれた。合理主義と実証主義止揚した最新科学とみなされた。したがって、マルクス主義は、教養主義にコミットメントした高校生に受容されやすかった。受容されやすかったというよりも、マルクス主義は教養主義の上級篇とみられさえしたのである。(p50)

 


 学生の左傾化の動機そのものが読書人的教養主義的である。表1-3は、一九三一(昭和六)年と三八-三九年の学生と社会人の思想左傾原因調査の一覧である。学生においては、左傾の原因は、「左翼理論に関する文献」の影響がもっとも多い。これと「プロレタリア文芸の影響」をあわせると、五〇パーセント(一九三一年)、三八パーセント(一九三八-三九年)となる。「社会の現状に対する疑惑」が原因である者は、社会人には多い(三〇パーセント)が、学生は少ない(三一年、一三パーセント、三八-三九年、五パーセント)。(p51)

 


 程度の低い「独創」に走るのは卑しいことであり、古人や今人のすぐれた思想や生活に接することのほうがよほど大切であるとされている。そうではあろうが、そうした教養主義的志向こそが裏口から象徴的暴力装置を招き入れるのである。
 このことは阿部次郎とならんで教養主義のイデオローグだった和辻哲郎の対話体のエッセイ(一九一六年)をみると、いっそう明瞭になる。そこには、小さな創作に精出し、能動的なかかわりをしないと寂しくてならないという青年が登場する。この青年への諌めとお説教、つまり和辻哲郎の教養観がつぎのように披瀝されている。
 「君は自己を培って行く道を知らないのだ。大きい創作を残すためには自己を大きく育てなくてはならない。(中略)君が能動的と名づけた小さい誇りを捨てたまえ。(中略)常に大きいものを見ていたまえ。(中略)世界には百度読み返しても読み足りないほどの傑作がある。そういう物の前にひざまづくことを覚えたまえ。ばかばかしい公衆を相手にして少しぐらい手ごたえがあったからといってそれが何だ。君もいっしょにばかになるばかりじゃないか」(「教養」)
 「能動的な」若者は、最後に、この言葉を受け止め、「人類の文化の重みがだんだんと感じられて来たようだ」という言葉で結ばれている。
 ここにみることができるように、教養主義とは、万巻の書物を前にして教養を詰め込む預金的な志向・態度である。したがって、教養主義を内面化し、継承戦略をとればとるほど、より学識をつんだ者から行使される教養は、劣位感や未達成感、つまり跪拝(きはい)をもたらす象徴的暴力として作用する。「そういう物の前にひざまずくことを覚えたまえ」なのだから。(p54)

 


 マルクス主義へのコミットメントはこうした教養主義空間における罠やしこりを一挙に解除した。マルクス主義を象徴的武器に、教養主義を観想的であり、ブルジョア的であり、プロレタリア革命の敵対的分子であると決めつけ、象徴的暴力関係の逆転をもたらしてくれるものだった。マルクス主義は十分な学識という「貯金」を貯めこまずに象徴的暴力を振るえるという意味では教養主義の荒業ともいうべきものだった。(p55)

 


 マルクス主義は教養主義を蔑む理論的砦ともなったから、教養主義の鬼子だった。しかしマルクス主義が読書人的教養主義的であるかぎり、教養主義空間内での反目抗争であるから、両者は反目=依存関係にあった。だからこそ従来の教養は「旧い教養」で、マルクス主義こそ「新しい教養」とみなされたのである。(p55)

 


 エリート学生文化からマルクス主義が強制撤去されることによって空白地ができた。この空白を埋めるかたちで、教養主義が復活する。マルクス主義がキャンパス文化で覇権をにぎっていたときに「御用学者」とみなされていた河合栄治郎(一八九一~一九四四)がこのころから「戦闘的自由主義者」として脚光をあびる。(中略)
 大正教養主義マルクス主義を呼び、マルクス主義が弾圧されると再び、昭和教養主義が息を吹き返した。もちろん河合の昭和教養主義は阿部次郎に代表される大正教養主義の単純な反復ではなかった。大正教養主義は、「普遍」(人類)と「個」(自己)があるが普遍と個を媒介する「種」(民族や国家)がなく、「社会がない」(唐木順三『現代史への試み』)ものだった。河合を代表とする昭和教養主義は、マルクス主義をかいくぐっているだけに、社会に開かれた教養主義である。人格の発展は、内面の陶冶にとどまらず、社会のさまざまな領域の中での行為によって現していくものだった。(p57)

 


 再言すれば、大正末期から昭和初期をみれば、旧制高校教養主義は、マルクス主義的教養主義であり、教養主義マルクス主義である。戦後、論壇で活躍する清水幾太郎丸山眞男などは、マルクス主義が弾圧されながらも、マルクス主義関係文献をひそかに読んでいた世代である。だから、戦後、旧制高校教養主義マルクス主義と同伴しながら復活したのである。(p62)

 


 しかし、文学部生の学生数全体に占める割合はそれほど多くなかった。戦前の帝国大学で文学部があったのは、東京帝大と京都帝大だけである。東北帝大と九州帝大においては法学部として存在しただけである。しかも、学生数全体に占める文学部生の割合も少なかった(p88)

 


 文学部生にとって経済資本の期待収益が少なくなるぶん、文化教養への投資の思い入れが強くなる。文学部生の矜持は、自分たちはパンのための学問を学んでいるのではないという自負を肥大させた。一九一三(大正二)年に『赤門生活』という東京帝大案内本が発行されている。各分科大学を紹介しているが、文科大学気質のところにはこう書かれている。
 「文科の連中は、いつでも自分をえらいものだと思つている。その証拠には、法科のやつは外面的だとそしるし、医科と工科とはまるで金の亡者のやうに悪くいはれるし、それで理科の男はあたまが悪いもんだからフアインなことは考へられないんだと罵って居る」(p97)

 


 三四郎が文科大学に入学する二年ほど前(明治三八年)『文科大学学生々活』という文科大学の内幕本が出ている。『読売新聞』の連載をまとめたものである。著者はXYとなっているが、正宗白鳥(一八七九~一九六二)の匿名である。その中に高等下宿の女中の会話としてつぎのようなものがある。
 「法科と工科の人が一番さつぱりして男らしい、医科の人はいや味があるし、それから文科の人はくすんでゝ一番いやだつて、それに何だつて、文科の方は官員さんにもお医者さんにもなれないし、一生金持ちにはなれないんだとさ」
 文科大学生の矜持は、経済資本の期待収益の低さによって、部外者からは、「くすんだ」ものに思われてしまっている。(p97)

 


 ここで興味深いのは、文系の中では、経済学部は文学部と対蹠的な学部であることだ。経済学部は相対的に豊かな階層が多い。ところがこれまでみてきたように、学習時間や図書閲覧、書籍費などの指標でみると、経済学部はもっとも低い。(p111)

 


 文学部は全学平均の約二倍で、スポーツ嫌いの第一位である。(p114)

 


 健康状態については自己申告であるが、文学部は「強健」がもっとも少なく、「虚弱」が医学部についで多い。(p115)

 


 帝国大学調査から、日本の教養貴族の生産工場である帝国大学文学部は帝大の他学部に比べて「農村的」で「貧困」で「スポーツ嫌い」、「不健康」という特徴が抽出された。(p117)

 


 われわれは、帝大理学部が新中間層的で都市出身者的な学部であるときに、帝大文学部はもっとも農村的な学部であるという知見を得た。したがって、農業出身者や地方出身者にとって教養主義の殿堂である帝大文学部は敷居の高い学部ではなく、むしろ親和的な学部だったと述べた。(p117)

 


 近代日本においては、理学部のほうが文学部よりも出身階級が高く、都市出身者が多かったのである。(p127)

 


 教養主義の別名は岩波文庫主義でもあった。わたしのようなプチ教養主義者は、大学生のとき岩波文庫を何冊読むかで、自分の教養の目安にしたものである。(p132)

 


 戸坂はつぎのようにいう。漱石は天才ではなく、秀才である。秀才文化が教養である。秀才文化は、既存文化の享受者か、せいぜいが批判的享受である。破壊的・再構成的ではない。したがって漱石=岩波文化は、「既存文化の高水準」として尊重される。そういう意味で、漱石=岩波文化こそ教養主義文化である。(p150)

 


 前章でみたように、教養主義の精髄は西洋文化志向である。(p170)

 


 教養主義西洋文化の崇拝を核にしたからバタ臭くはあったが、修養主義と同じく勤勉を定礎にした鍛錬主義だった。したがって、教養主義は、必ずしも成熟した都市中流階級のハイカラ文化とはいえなかった。むしろ田舎式ハイカラ文化とでもいうべきものだった。(p172)

 


 さらに、村上はつぎのようにいう。日本の教養主義文化を担った岩波文化は、「翻訳文化の思惟方式」であり、「地方人の大胆さ」で「江戸や京の文化を中心とする日本人の考え方を断ち切らぬとほとんど入ってゆけない」ものである。(p175)

 


 このように山の手が新興住宅地として活気づき、そのぶん下町が淀んでみえたにせよ、下町には江戸式の伝統文化が支配していたから、山の手族に代表される棒給生活者のライフ・スタイルは、必ずしも高給文化として下町文化を圧倒できたわけではない。下町の商人や職人は独立業種としての自負心から、山の手の勤人を「地方人の立身」と、蔑視さえしていた。いくら学問や財産があっても清元と長唄の区別ができないようでは、「通」や「粋」に欠けており、江戸趣味や純東京人の気分がうすく、田舎式だとか田舎者の東京生活だとかいわれもしたのである。したがって、下町の商人や職人の子弟にとって、帝国大学への志願でさえ「役人になるのヂァあるまいし」、と周囲から叱られるていのものであり、慶応義塾と東京高等商業学校だけが、進学の許される学校だったほどである(奥井復太郎「明治・東京の生活」『奥井復太郎著作集』第七巻)。(p182)

 


 「ヨーロッパ的なものを自分の支えにしている」という山の手階級の文化戦略が戦略たりえ、しかも功を奏したのは、近代日本の上流階級つまり華族の文化の特質によっていた。(p185)

 


 近代日本の教養主義は、西欧文化の取得である。日本人にとって西欧文化は伝統的身分文化ではないから、階層や地域文化と切断した学校的教養そのものだった。(p187)

 


 教養の理想は高貴な生まれという生得的地位(アスクライブド・ステイタス)に代わる業績的地位(アチーヴド・ステイタス)の証だった。かくてドイツにおいては、教養(ビルドゥング)は貴族層に対する中流階級の挑戦的武器であり、新しい啓蒙の時代における真の貴族、つまり教養貴族の証明証にほかならなかった。精神の貴族、あるいは教養貴族としてみずからの能力を開花させ、卓越化し、裁判官や高級官吏、大学教授といった公的な仕事で傑出した業績をあげることを目指した。かれらこそが教養市民層である。(p191)

 


 こうしてさきに引用した中野孝次の小説『若い夏』の主人公の悲劇が生じる。教養主義者は、「度しがたいスノビズム」、「ブルジョアの洗練に憧れとるだけ」と。悲劇は学歴上昇移動ができなかったことによるのではない。学歴上昇移動をしてしまったがゆえの悲劇なのである。(p192)

 


 マックス・ウェーバーは、ドイツの学歴エリートである教養市民層を念頭に、教養の相違は、「心のなかでもっとも強力に作用する社会的制約のひとつである。とりわけドイツではそうである」と述べながらも、こうした教養市民層予備軍の学生を「紳士的」でも「貴族的」でもなく「徹頭徹尾平民的」であり、「めっきをはった平民」や「成りあがり」と呼んだ(「ドイツにおける選挙法と民主主義」『政治論集』1)が、日本の学歴エリートはドイツ教養市民層のそうした資質とも相似形になる。(p194)

 


 マルクス主義は、ヴ・ナロード(民衆の中へ)的要素からし教養主義以上に地方出身インテリとの親縁性が高かった。新人会会員の家庭環境の統計的調査をしたヘンリー・スミスは、その親縁性をつぎのようにいう。会員の出身階層は農村の貧しい小作農や下級官吏、商人、大地主までさまざまではある。しかし、大学教授、政治家、高級官僚など、都市インテリ家庭の出身者は「非常に少なかった」。「地方出身者ということが、新人会員の背景の重要な共通点であった。(中略)地方性は新人会員の精神構造の大きな要素であった」(『新人会の研究』)。(p195)

 


 林房雄は、『文学的回想』のなかで、第五高等学校で共産主義青年になったころのことについてつぎのように書いている。
 「仲間はだんだん増え、合宿もでき上がつた頃、高尾平兵衛と浦田武雄が東京からやつて来た。新人会の諸君は新教徒のやうに厳粛で紳士的であつたが、この労働者出身の『職業的革命家』は激烈で行動的であつた。『天皇も貴族もブルジョアも片つぱしから叩き殺せばいいんだ、それが革命だ』と言つた」
 「天皇も貴族もブルジョアも片つぱしから叩き殺せばいいんだ」という労働者出身の革命家の激烈な言葉は、「腐敗し、衰退するブルジョア文化」という学歴エリートの言葉と、文化洗練階級への憎悪の感情で通低していたとはいえまいか。(p196)

 


  ブルデューは、民衆が学校制度に接するときに生じる宙吊り状態についてつぎのようにいっている。
 「ごく普通の人々が高度な文学と接触することによって生じる結果として、民衆的な経験が破壊されるということがあります。その結果、人々は何ももたない状態に置かれてしまう。つまり、捨て去った元の文化と、知識も教養もあるという、ふたつの文化のあいだで行き場を失うのである」(「読書――ひとつの文化的実践」)(p211)

 


 教養主義といえば、『三太郎の日記』や『善の研究』(岩波書店版)が刊行された大正時代を、あるいはレクラム文庫や岩波文庫を読む旧制高等学校生を想定するのが通念的理解である。こうした理解が間違っているわけではないが、本書で詳しく説明したように、教養主義は、高等教育の拡大と足並みをそろえ、むしろ戦後日本社会において、大衆的教養主義としてクライマックスを迎えたことを忘れてはならない、とおもう。教養主義は、旧制高等学校世代の話だけでなく、一九七〇年前後までの学生文化だったのである。いやむしろ、文庫本や新書、全集、総合雑誌という教養主義のツールや衣装の普及は、戦後のほうが断然大きい。序章でわたしのプチ教養主義者の由来を語ったが、これを戦後の大衆教養主義の時代を象徴する逸話として読んでもらえるはずである。
 本書が教養主義について年代記的記述の形式を踏まずに、戦後日本社会と戦前とを行きつ戻りつする論述スタイルをとっているのは、教養主義が戦前と戦後で連続していること、それ以上に戦後日本こそ、教養主義は大衆化したというわたしの考えによるものである。(p247)