六・三制

『もう一つの戦後史』江藤淳

 江藤 そうしますと、昭和二十年(一九四五)十月以降から十二月にいたるGHQの四つの指令、教育制度に対する管理政策、教育関係者の調査、除外、認可に関するもの……。

 天城 いわゆる教職追放、審査の問題ですね。

 江藤 それから国家神道の問題、修身、日本歴史および地理停止に関する件と、巨弾を次々に浴びせかけられましたね。

 天城 修身、日本歴史、地理の停止指令は十二月三十一日の指令でした。これらの指令は教育内容の問題に限らず、教職員の適確審査という問題が大きかったですね。たしか六十何万人かが審査を受けました。
 余り知られていないことに、形式的にパージになった人と審査の結果パージになった人のほかに、この数はわからないんですが、審査を受けることを潔しとせずやめた人がずいぶんいるんです。

 江藤 ほう、そうですか。

 天城 自主的に退職するわけです。

 江藤 自分の意志で教職を去った人々ですね。

 天城 ええ、そういうグループもいたことは事実です。

 江藤 当時、審査を受けた先生方、審査を実施しなければならない行政当局も大変だったでしょうけれども、児童、生徒のほうも当惑しましたからね。(p275)


 天城 子供たちの目から見たら、教職追放で急に先生が替わられたということもあるでしょうけれども、形の上では勅語の奉安所が壊されたり、武道が禁止されたとかいうことがあった。

 江藤 小学校でも、戦争中は五年、六年は武道が正課になっていましたからね。

 天城 もっと大変なのは日本歴史、地理の教科書の黒塗りではないでしょうか。

 江藤 これはすごかったですね。(p276)


 天城 話が戻りますけど、六・三制を実施するときになって、日本の財政上からはいろいろな設備も、人員の面からも困難だというので、アメリカ側もいっぺんにやれなければ初等教育と教員養成を中心に手をつけろといったくらいなんです。
 ですから、ある意味では教員の再教育というのは、大きな一つの事業だったわけです。

 江藤 そうでしょうね。

 天城 新しい教員を養成する仕事も一方でありましたけど、現職の人たちをいっぺん再教育して、新教育のために訓練し直すというのが、大変な仕事だったわけです。いろいろと形は変わっていきますけれども、いわゆる現職教育というので、あのとき免許法もできたりして、おそらく十年くらい続いたんじゃないですか。

 江藤 そんなに続いたんですか。(p276)


 天城 それから、中三・高三の新制中学と新制高校ですが、新制高校の性格がよくわからなかったんですね。

 江藤 そうでしょうね。

 天城 六・三・三といっても、三・三の意味が必ずしも充分理解されないまま発足したという事情があります。

 江藤 それがいまだに尾を引いていますね。(p280)