日新館の教育

『シリーズ藩物語 会津藩』野口信一

  日新館とその教育

 そもそも会津藩の教育の原点となったのは寛文四年(一六六四)に建てられた、日本初の民間の学校といわれる稽古堂に遡る。公立、藩の建てた学校で一番古いと言われるのは岡山の閑谷学校であるが、稽古堂の創立はその四年前である。この稽古堂は当時としては画期的な、民間の民間による民間のための学校であった。農工商はもちろん、時には藩の侍たちも来て学ぶことがあった。田中玄宰の祖正玄も聴講生の一人であった。(p117)


 玄宰による教育改革は順調に進んだが、宿願であった徂徠派の学者古谷昔陽の招聘がなかなか実現しなかった。これまで容頌は、藩祖正之が進めてきた朱子学と異なることを理由に難色を示していたからである。徂徠学とは「学問をすること自体が人間の目的ではなく、学問を使って民を安らかしめ、世を救うこと」を狙いとするものであった。このため学力増進を図る等級制、多数科目制を導入し、学問を社会繁栄、国家興隆のための道具と考えるものとして、玄宰の狙うところと合致したのである。この点「学問すること自体を目的」とする朱子学とは相容れないものであった。(p119)


 飛び級
 平均的には十八歳で一等級卒業となっていた。中には十四歳位で一等級を卒業する出来の良い生徒もいたが、年にニ、三人しかいなかった。(p122)


 武道
 一方武道であるが、生徒たちは文と武、どちらを好んだかというと、当然武であった。当時の風潮として「文事なきは恥とせず、武事なきは恥とする」とされた。これは槍刀を以って奉公する侍のことであるから当然であった。
 武道は十四、五歳頃から始め、刀、槍、弓、馬の四つが必修科目で、それぞれ流派がいくつもあり選ぶことができた。階級も流派により三~五階級あったが、日新館の授業だけでは腕も上がらないので、宅稽古といい先生の自宅の稽古場に通い習っていた。城下にはこうした私塾が文武合わせて百近くもあった。 (p125)


『図説 江戸の学び』市川寛明 石山秀和

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