部落差別は知識人とグローバリズムがつくった

『歴史を考えるヒント』網野善彦 新潮文庫

 神奈川大学短期大学部で講義をしていた頃、私は必ずこの被差別民の問題について話すことにしていました。日本人なら誰でも知っておくべき非常に重要な問題であり、日本の社会を深く理解するために、正確に認識しておくべきことだと考えたからです。まず講義の冒頭で「同和問題を知っていますか」と質問したところ、数人を除き、答えられる学生はいませんでした。知っていると手を挙げる学生が数人いましたので、出身地を聞いてみると大阪、広島、山口、島根、三重など西日本出身の学生ばかりで、関東出身の学生の中には本気で「童話」と勘違いした人もいたのです。これには苦笑せざるを得ませんでしたが、もし京都や大阪の大学で同じ質問を発したら、いまごろそんな馬鹿なことを聞くな、と一笑に付されるか、猛烈な批判を受けるだろうと思います。
 また、これも同様の問題ですが、大阪出身と東京出身の二人の歴史家が東京の電車の中で差別問題について話を始めたところ、東京の歴史家は大きな声で「非人」「穢多」などの言葉を平気で使うのです。大阪出身の歴史家が驚いて、周囲を見回しながら「こんな場所でそんなことを言っていいのか」と注意したのですが、東京出身の歴史家は何のことやらわからずに怪訝な顔をしていた、ということがありました。
 このように、差別問題に関しては関東人が「鈍感」であると言っても、間違いではないと思います。差別発言で糾弾を受ける人に東の出身者が多く、それはたとえ悪意によるものではないにせよ、無知、鈍感であるとの誹りは免れないでしょう。
 実は、私自身も山梨生まれの東京育ちであり、二十歳になるまで生活の中では全く未経験で、被差別部落について本当に知ったのは歴史を勉強し始めてからのことなのです。関西の方々と話をすると、子供の頃から差別を受けた、あるいは逆に、被差別部落には近づくなと親から言われたなど、様々な話を聞かされるのですが、私にはそういった肌に直接響いてくるような深刻な体験は全くないのです。先ほどの神奈川大学の学生もおそらく同様であろうと思われます。もちろん、山梨にも神奈川にも被差別部落はありますが、数も少なく、多くの人の日常には関わらないことが多いのです。
 この問題を論じる場合、まず日本列島の中でも地域による実態のちがい、そのことからくる著しい認識の差異があることを、決して忘れてはならないと思います。それを無視して、発言したり行動した場合、誤って人を傷つけることも起こりうるのです。(p123)


『部落の歴史 前近代』寺木伸明

 七世紀後半になると、古代天皇制国家は、統治のための制度として中国の隋・唐の律令制度を導入しました。当時、東アジアの朝鮮・中国東北部ベトナムなどでは、隋・唐の政治的、経済的、文化的影響を受けて、律令国家群を形成していましたが、日本もその国際的影響を蒙っていました。…
 律令制度のもとでの身分制度について言えば、…中国の良賤制が用いられて、人びとは大きく良民と「賤民」に二分されました。良民は、さらに官人・公民・品部・雑戸に区分され、「賤民」は、陵戸、官戸、家人、公奴婢・私奴婢に細分されました。これを「五色の賤」と言います。…
 これらの公私の奴婢たちは、家族をもつことが許されなかったばかりか、売買・贈与・質入などの対象とされていました。…
 律令制度のもとでの身分制度は、荘園制の発達による公地公民制の堀り崩しにともなって、次第に動揺し解体していきます。(p22)


 このような事情から渡来人の多くに比較的高い地位が与えられました。…他方、社会的に差別・迫害を受け、そのために低い地位に追いやられていたことを示す記録はほとんど見出されません。(p28)


 中国・朝鮮から日本へ入ってきた仏教は、大乗仏教でした。この教義のなかにはインドのヒンドゥー教に根強い死穢・産穢・血穢・肉食穢などの考えが混入していて、そうした考えが平安仏教、とくに密教の隆盛により、まず天皇や貴族の間に、また地域的には平安京を中心に浸透していったものと考えられます。言うまでもなく、屠殺の仕事が、もともとケガレ視されていたわけではありません。原始社会においては狩猟は人間が生きていくうえで必要不可欠な仕事で、かつ集団で行なわれていました。屠殺・肉食は、日常的であったとも言えるでしょう。当然、古代においても屠畜・肉食は行われていました。(p31)


 中世の「河原者」の居住地と近世の被差別部落の位置が重なる所が、京都・奈良をはじめとして、かなりの地域で確認されています。したがって、現在の研究では、近世の部落が中世の被差別民と無縁であるとする考えは成り立たなくなってきています。(p55)


 ここで、近年、〈部落史の見直し〉の一つの焦点として浮上してきている中世起源説についてふれておくことにしましょう。
 従来の通説は、ご承知のように近世政治起源説でした。この説は、部落は近世権力が民衆の分裂支配を目的として政治的につくった、というものです。しかも、従来の概説書・入門書のなかには、あたかも何もないところにある日、突然、暴力的に設定されたかのように受け止められても仕方のないような叙述のものがありました。教育現場でも、そのようなかたちでの指導が相当広がっていたと思います。そうした、言わば戯画化された近世政治起源説に疑問を感じた研究者から中世起源説が提唱されるようになりました。一九八〇年代に入ってからのことでした。(p57)


 近世被差別部落(=「かわた」「えた」身分)の社会的系譜は、すでに見たようにけっして「河原者」だけではないということです。職人としての皮革業者や神人、渡守や青屋なども含まれていました。つまり部落の起源を「河原者」や皮革業者を核に、さまざまな社会階層の一部を組み込んで一つの身分に束ねたということなのです。(p60)


 近世前期、岡山藩池田光政につかえた儒学者の熊沢蕃山は、僧侶を批判するに「穢多のきたなしといへど、(僧侶は)それよりなをまされり。…死たる牛馬をとりあつかふ者だに、穢多といへり。況や死人をとりあつかひ、死皮をはぎて食とし衣とし、数百の墓とならび居者(おるもの)は大穢多ならずや」(『三輪物語』)と述べ、「穢ないもの」を言うのに当然のように「えた」身分を引きあいに出しています。
 近世中期の儒学者荻生徂徠は、「穢多の類に火を一つにせぬと言ことは、神国の風俗、是非なし」(『政談』)と、「えた」身分の人びとに対する差別を「神国の風俗」としてどうしようもないものとして肯定しています。
 江戸後期の儒学者であり経済学者でもあった海保青陵にいたると、「穢多は禽獣(鳥と獣)」と同じで、「穢多の心に善悪」はないとし、顔に入墨をしてオランダ人のような「文字にてかかれぬ名」をつけさせよ、と驚くべき差別意識を吐露していました(『善中談』)。
 これらは、近世の学者・知識人の差別思想のほんの一端です。
 こうした差別思想の展開や、先にみた幕藩領主の差別法令の発布などによって、百姓や町人の、部落の人びとに対する差別意識も次第に助長されていきました。(p84)


『日本の聖と賤 中世篇』沖浦和光 野間宏

 沖浦 江戸時代を通じて、正確な統計資料がないので、もちろんはっきりはいえませんが、皮革関連の仕事に従事していたのは、おそらく部落民全体の数パーセントにしかすぎない。(p55)


『日本の聖と賤 近代篇』野間宏 沖浦和光

 野間 近世段階での被差別部落、つまり、当時の穢多身分の生業と渡世について考えてみると、一番多いのはやはり農業ですね。(以下の部落はすべて被差別部落をさす)

 沖浦 そうですね。正確な統計は残っていないのではっきりしたことは言えませんが、穢多身分の多くの部分が農業に従事していたことは確かですね。何パーセントほどだったかということは正確に言えませんが、一八世紀末の天明・寛政頃では、やはり農耕をやっている者が一番多いでしょうね。(p14)


『部落史がかわる』上杉聰

 職業でくくれない部落

 注意深く見てみますと、「穢多」についてさえ、皮革の職業一辺倒でとらえることには無理があります。「穢多」身分の中で皮の仕事に携わる人は、わずか一握りの人にすぎません。地方によっては、砥石を作ったり灯心を作るような場合もありました。行刑の仕事は、やる地方とやらない地方に分かれていて、すべてがやったわけではありません。する地方でも、部落の全員がやらされたわけではありません。
 「穢多・非人」とセットで語られてきた「非人」も、皮革の職業でとらえることができません。「非人」は、関東で皮剥ぎの仕事を「穢多」の下請けとしてやらされた場合が一部ありましたが、その他の地域にそうした事例は見られないようです。救済、つまり社会福祉事業の対象にだけなっているような地方もありますし、刑吏や囚獄関係の仕事をやる場合もあります。刀鍛冶をやっているような場合(金沢の非人清光の例)さえありました。
 このように、部落を何か共通する職業でまとめようとすることは、とうてい不可能です。では、いったい何が、すべての部落に共通するのでしょうか。これを「穢れ」でくくろうという考えがあります。例えば皮の仕事には動物の死穢が関係します。刑吏の仕事であれば罪穢や血穢、また死穢も関係すると考えられます。医者の場合は、血穢や訪病穢などが関係してきます。ハンセン病も穢れると考えられていました。
 芸能者については、「穢れ」で説明することができないと思われるかも知れませんが、これも、昔の芸能が、たとえば前章の「猿引」のところで説明したように、家畜や人間の「穢れ」を取り去り、無病息災、家内安全を祈願する機能をもっていたと考えれば説明できます。「巫」などの宗教者も同じように考えることが可能でしょう。
 こうしますと、かなりの程度まで説明ができそうです。最近、部落問題において「穢れ」の重要性が注目を集めている理由もこのようなところにあります。
 ところが、このやり方だと、どうしても解決できない問題が残ります。それは、たとえば「凪」のように、中世は別としても、江戸時代になると、まったく穢れた職業につかない部落があることです。「凪」の人たちは、江戸時代に入ると意識的に「穢れ」に関係する仕事を拒否したようです。そうした職業をやりますと、今論じている「穢れ」による差別を受ける危険性を感じたからにほかなりません。では、それで「凪」に対する差別はなくなったでしょうか。そうでないことは前章で述べたとおりです。
 同じ問題が「穢多」の人たちについても起こります。一八七一(明治四)年に賤民廃止令が出されて、死牛馬の処理や皮革製造の仕事をしないでよくなったので、それを積極的に放棄することを始めた部落があります。村民全体が約束の証文を作り、決して穢れた仕事と関係しないことを誓い、相互に監視するようなことさえやりました。その結果、多くの被差別部落が、現在にいたるまでにそれらの仕事にかかわらないようになったのです。では、それで部落差別はなくなったでしょうか。答えは「否」です。たとえ「穢れ」にかかわる仕事をしなくても差別は受けつづけています。
 「穢れ」で部落をくくろうとすると、別に大きな矛盾も起こってきます。「穢れ」に関係しているにもかかわらず「差別されない人」がいることを、逆に説明できなくなるからです。つまり、お医者さんである「藤内」への差別を、先ほどは血や訪病の「穢れ」で説明しましたが、それはそれでよいとしても、すると全国各地の医者が差別されねばならないことになります。しかし、そういった差別はありません。
 「穢れ」に関わる職業はいっぱいあります。お坊さんは、忙しいときには毎日のようにお葬式をします。住んでいる寺の中にはお墓もあります。神主さんは毎日お祓いの仕事に精を出します。ということは、「穢れ」に毎日接触しているのです。しかし差別されません。……
 差別を「穢れ」で説明することはある程度できますが、このように、いくつかの点で無理があるのです。日本の場合、「穢れ」意識の高まりは古代から中世にかけて頂点を迎えると考えられています。しかし、部落差別が最強となるのは、むしろ「穢れ」観が弱まり始める江戸時代です。もし差別を「穢れ」だけで説明するとすれば、このズレが大きな障害となるでしょう。(p151)


 「穢れ」はヨーロッパにもありました。中世ドイツで刑吏は差別され、穢れているとみなされていました。刑吏と酒を飲めば、穢れたとされ、賤民に落とされたといいます。(p156)


 起源と「アホ・バカ分布図」

 また、京都から全国に部落差別が広まったのは、京都が文字どおり政治と文化の中心地であったからにほかなりません。東京が政治・文化の中心になって永いため、そうした実感は持ちにくいかもしれませんが、その考えを訂正する良い材料があります。
 「探偵! ナイトスクープ」というテレビ番組が、一九九一年に「全国アホ・バカ分布図」なるものを発表し、これが日本民間放送連盟賞をはじめ、同年のテレビ界のビッグタイトルを総なめにしたことを知っておられる方も多いかと思います。この番組の成果はその年の「日本方言研究会」で報告されるなど、大変内実のあるものでした。現在は、松本修『全国アホ・バカ分布考』という本にまとめられています。
 「アホ・バカ分布図」作成のきっかけになったのは、視聴者から寄せられた「東京からどこまでが『バカ』でどこからが『アホ』なのか調べてください」という調査依頼だったといいます。御存知のように関東では「バカ」と言い、関西では「アホ」と言います。関東人は「アホ」を、関西人は「バカ」を、それぞれが大変きつい表現と感じ、その言葉に傷つくことも多いと聞きます。それは別として、ならば関東と関西の間のどこかに「バカ」と「アホ」の分界線があるだろう、というのはまったくユーモアあふれる質問でした。
 この調査依頼に対して、番組お抱えのタレント探偵が新幹線に乗って一泊二日で調査したところ、関東では当然にも「バカ」を使っていたものの、名古屋に来ると「タワケ」が使われていて、仕方なく「タワケ」と「アホ」の分界線をさがしてみたところ、岐阜県関ヶ原町にあることを発見します。「ここが『アホ』と『タワケ』の境界線です」として、境界を示すプラカードを立てて、無事調査は終わったわけです。
 ところが番組のアシスタントに九州出身の人がいて、「バカ」は九州でも使うという発言があり、「アホ」と「バカ」の境界は西にもある、ということに気付くわけです。それから、改めて調査が始まり、全国の市町村の教育委員会に向けてアンケートを発送し、おたくは「アホ」と言いますか「バカ」と言いますか? と尋ねたわけです。すると、うちでは「アホ」とも「バカ」とも言いません。「ボケ」と言いますとか、「アンゴウ」と言います、などの回答が寄せられました。
 それを地図に落としたものが図12です。京都を中心に、見事な同心円を描いています。どうして京都なのでしょうか。方言の分布が、京都を中心にコンパスで描いたような形になっているという仮説を最初に発表したのは柳田国男『蝸牛考』(一九二七年)でした。彼は、「カタツムリ」「マイマイ」「デンデンムシ」などの言葉が、近畿を中心に同心円状に分布していることを指摘し、これが京都における時系列的な流行語の変遷と合致していると考えました。
 別名「方言周圏論」とも呼ばれるこの学説は、京都の、ある時代の流行語が周囲に伝播し、つづく時代の京都のはやり言葉がそれを追い掛けるように周りに伝わると、京都における時系列的な言語の変遷が、もっとも京都に遠い地方から近い地方へと同心円を描いて分布する、という仮説です。戦後、この説は実証研究が進展しなかったこともあって、あまり注目されることがありませんでした。ところが、はからずもテレビ番組が、「アホ」と「バカ」に類する語の多重同心円を発見したことで、素人にもわかる研究成果となったのです。
 もちろん方言のすべてが京都から伝わったものとは限りません。言語全体の四分の一から、多くて三分の一程度ではないかと言われますが、方言周圏論は京都の文化的地位の大きさを改めて実感させるものに違いありません。
 平安時代から室町時代にかけて、京都は最高五〇万人を超える、ロンドンやパリをはるかにしのぐ世界最大の都市でした。地位が低下した戦国時代にあってさえ、日本に来たキリスト教の宣教師たちは、地方での宣教を通じて、京都で受け入れられないものは日本全国どこでも受け入れられない現実を嫌というほど体験させられて、京都での布教に力を入れたものでした。(p201)

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 部落の分布も京都中心

 「アホ・バカ分布図」が部落の起源とどう関係するのか、とお尋ねになるだろうと思います。そこで図13を見てください。これは、一九〇七(明治四〇)年の内務省調査をもとに帝国公道会が作成し、「細民部落分布図」と題して雑誌『公道』に掲載した、初めての被差別部落の分布図なのです。明治の初めにも部落の人口統計表は作成されましたが、廃藩置県の前だったために、飛び地があちこちにあった藩の実態により、属地的な地図を作ることができなかったのです。たとえば今の茨城県にある藩が岡山県に領地を持っているという状況は例外ではありませんでした。そのため、岡山の人口(当然、部落も)が茨城に集約されるため、岡山も茨城も、その土地での人口統計が成立しない状況があったのです。したがって図13は、初めての属地的統計をもとに作成したものですから、江戸時代の部落分布に比較的近い、最も古い図ということになります。
 これを見て、何よりも驚くことは、京都の部落の人口密度が一番高いということです。次に兵庫、奈良と続きます。そして近畿とその周辺では、同心円がほぼ確認できるのです。部落が京都から全国に広がったことを雄弁に物語っているといえます。
 ただ、細かな点を指摘しますと、四国南部、福岡などの密度の高さが、これでは説明できません。また関東北部の高さも説明できません。さらに、日本全国を見回したとき、愛知県から東は全体に密度が低く、逆に西部は全体的に高くなっています。この点も説明できません。
 これらは、次のような点を加味するとき説明できると思います。言語の伝播の場合、人と人の接触が行われることによって土地から土地へ地つづきで伝わっていくことが推測されます。しかし、部落差別の場合、これは権力による政策であって、為政者ないし権力者の支配機構を通じて伝播していくと考えられます。すると、地方への伝わり方は、言葉の場合と少し異なってくると考えられるのです。(p204)

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 改めて注目すべき政治の力

 そこで図14を参考にしていただければと思います。これは中世に文化人が地方へ流寓したありさまを描いたものですが、関東であれば足利地方、四国であれば南部、九州は福岡などが京都と深いつながりのあったことを示しています。
 図13で注目されることに、部落の分布が東西で大きく違うことがありました。愛知県から東になると部落の人口が急に減るのはなぜかということがよく問題にされますが、明瞭な解答がこれまで得られていません。ところが、これについても、政策が伝わったという考えに立てば説明が可能です。
 関東では十世紀前半に平将門が新国家を樹立して以来、鎌倉幕府の成立など、武家が大きな影響力を持ちつづけ、鎌倉時代後期を迎えるまで、東国は京都に対して強い自立の傾向を持ち続けていました(網野善彦『中世再考』)。愛知以西は、当時、鎌倉幕府の強い影響下にあり、その支配制度は、部落差別政策を推進した直接の国家機関(検非違使国司など)が解体されていたり、大きな影響力を持っていなかったことで説明できます。
 鎌倉幕府が京都にならって賤民政策を積極的に採用するのは、次章で少し詳しく述べますが、鎌倉時代中期以降のことと考えられます。西日本と比べて約二五〇年ほど遅れているとみてよいでしょう。もし被差別部落武家によって始められたものならば、関東の部落の人口密度が最高にならなければならないはずです。しかし、江戸にも鎌倉にも、そして名古屋にも、部落の分布は極めて少ないのです。分布図(図13)は、部落を成立させた力が、武家以外の権力機構によるものであったことを如実に示しているのです。
 部落の起源は、当時国家の中心であった天皇とその都の秩序にそぐわない人々を穢れたものとして排除し、それと同時に、秩序を壊すもの(「穢れ」)を排除する下働き(「清目」)に取り込むことによって始まりました。言い換えるならば、国家秩序から排除されるとともに、「清目」として国家に秩序づけられる矛盾した存在が今ここに現出したのです。
 京都は江戸時代、「穢多の水上・京都」と呼ばれていました(『諸式留帳』)。江戸幕府は、弾左衛門を通して部落への政策を遂行しましたが、問題が起こるとその処置について京都の慣習を参考にし、地方での紛争においても法源を京都に求めたのでした。江戸時代における差別の法制度の根拠は中世以来の京都で実施された慣習法であり、その上に建てられていたのです。(p208)

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天皇の国 賤民の国』沖浦和光

 儒教を背景とし《貴―賤》観を軸とした中国の律令制では、国家の制定した〈礼の秩序〉に包摂されない者が賤とされた。ケガレは、国家や共同体に対するツミの観念と強く結びついていた。その良賤区別の根底には、皇帝権力に忠誠な者は良、国家の定めた規範に背き皇帝に反抗する者は賤とする思想があった。
 ところが、ヒンドゥー教を背景とし《浄―穢》観を軸とするインドのカースト制では、神々を祭るバラモン階級が聖なるものとされ、その支配秩序・価値体系を脅かす者がケガレとされた。呪術的秘技に生きるとされた漂泊の職人や芸人たちも、ヒンドゥー教の宇宙論(コスモロジー)を攪乱し神々の浄性を穢す者としてカースト外(アウト・カースト)という烙印を押された。バラモン聖典である『マヌ法典』に明示されているように、征服者である色の白いアーリア人以外は、分類体系からハミ出した異人として差別された。さらに死や産や経血にかかわる者がケガレとされた。(p154)


『日本の聖と賤 近代篇』沖浦和光 野間宏

 沖浦 そういうことですね。儒教を背景とした中国の賤民制と、ヒンドゥー教がその根底にあるインドの不可触民制は、日本列島における身分差別制度の二大源流ですから……。(p10)


 沖浦 ええ、とくに朝鮮半島の賤民制は、日本の賤民制と類似点も多く、その発生史の段階では、中国の律令制の影響を深く受けているのです。ヤマト王朝における律令制の形成は、今からおよそ一三〇〇年も前ですが、当時の朝鮮三国では、さらに二〇〇年以上も遡るのですから、歴史の根がとても深い。(p11)


 沖浦 一番ひどいのは、後期の経世家である海保青陵です。……「古より穢多は火けがれたりとて、良民火を同じうせぬこと我邦の古法なり」と言っています。その理由として、彼らは外国からやってきた「夷狄の種」であって、「我が天照太神宮の御末にてなきゆえなり」(『善中談』)と断言しています。

 野間 バリバリの国粋主義者と同じ論理ですね。

 沖浦 いや、それどころではない。穢多は「良民が恥じ憎みてせぬこと」を平気でやるから、まさに「禽獣」と同じであると言ってます。そして、朝鮮人やオランダ人は天照大神の末裔ではないが、彼らの心は良民と同じだから差別してはならない。ところが穢多は、外貌は良民と同じであるが、心は違うのだから実にまぎらわしい。そこで、一見してすぐ良民と区別できるように、みな額の上に真一文字で太く入墨をさせよと提言している。

 野間 ……いやもう驚きですねえ。そんなひどいことを……。まあ現代でも一見したところ西欧流の近代主義者のように思えても、部落問題については驚くほど無智な差別論者がいますからねえ。(p114)


『アジアの聖と賤』沖浦和光 野間宏

 野間 『マヌ法典』の第一〇章では、人間のうちの最下級なるものとして、スータ、チャンダーラ、マーガタなどをあげて、彼らの職業を、馬・戦車の取り扱い、治療技術、後宮の護衛、商人、大工、屠殺業、皮革職、漁夫、楽人などに指定している。

 沖浦 第三章をみても、バラモンが避けるべきものとして、芸人、高利貸、医師、売肉業、弓矢製造者、賭博師、飼鳥者、製油者、占星術師、建築家、植木屋などをあげています。それから『マヌ法典』についで実用的価値からみても重要視されていた『ヤージュニャヴァルキヤ法典』では、賤視されている職業として、それ以外に工匠、織師、洗濯屋、酒屋、籠師、舞台芸人、鉄師、木師、金鍛冶、民間祭祀人、染師などをあげています。

 野間 この中の大半の職業は、今日でも賤視されて、不可触民の仕事とされていますね。注目すべきは、日本の賤視され差別されてきた民衆の担ってきた仕事ときわめて類似していることですね。(p66)


『アジアの聖と賤』沖浦和光 野間宏

 律令制に強く投影される『韓非子』の法治主義

 野間 それから重要なのは、荀子のあとに出てきた法家思想ですね。彼らは、孔孟流の文人政治、仁義にもとづく徳政を排して、厳格な法治主義を要求した。

 沖浦 百家争鳴の戦国時代に台頭してきた法家思想は、人の本性はもともと悪で、すべて利害打算で動くのだから、道徳的教化主義ではダメだと、法治主義にもとづく専制官僚政治を主張した。つまり、孔子いらいの伝統的儒教が説く〈仁〉や〈徳〉では、とても人民を完全に統治できないと、徹底的に上から締めあげる政策を主張した。それが『荀子』から『韓非子』への系列、いわゆる性悪説
 なかでも『韓非子』の哲学が、非常に大きな役割を演じました。秦帝国ではこの学説を積極的に取り入れて、それに反対した儒家を押さえ、焚書の大弾圧を加えた。

 野間 法家思想と律令制思想とは、大いに関係があるわけですね。

 沖浦 ありますね。たとえば『韓非子』は「人民とは権威に服するものであり、義によって動かされることはまれである」と、全く孔子を否定しています。さらに、「民衆はもともと愛情をかけられるとつけあがり、おどされると服従するものである」「賢明な君主は、民衆の労力は用いるけれども、そのことばにはしたがわない。民衆の手柄はほめるけれども、その無用の行動は厳重にとりしまる。だから民衆は、全力を尽くしてお上にしたがうのである」と説いています。

 野間 いわゆる愚民論を前提において、いかに彼らを管理し統治してゆくかを説くわけですね。孔子の時代の〈仁〉や〈徳〉ではもはや政治はできない、というわけですね。

 沖浦 君主の持っている権勢によって、厳格な法による上からの統治を行なえというのですね。はっきりした実定法の確立を要求したという点でも、画期的な主張です。(p128)