青年学校

『青年学校史』鷹野良宏

 昔は全国市町村くまなく「青年学校」という学校があった。そして各都道府県にもれなく、この学校の教師を養成する「青年師範学校」という学校もあった。だが、これらはすべて戦後の六・三・三・四制とも称する現行教育制度の発足とともに消滅し、今では、かつてそんな学校があったことを思い起こす人も少ない。
 そもそも青年学校と称する学校は、明治の中頃あたりから全国各市町村に発達していた小学校卒業直後の勤労青年男女を入学させる「実業補習学校」(「実補と略称」)と、大正十五年以来同じく全国各市町村に設置された小学校卒業直後の男子勤労青少年を対象とする「青年訓練所」(略称「青訓」)という二種類の教育機関が、昭和十年に統合されたものである。そしてこの青年学校は、昭和十四年から男子生徒の場合は義務教育となったのである。
 今日一般に、日本の義務教育が小・中学校合せて九年となったのは戦後の六・三制以来で、それ以前は初等教育六年だけであったと思われている。だが、男子に限っては昭和十四年以降初等教育六年プラス青年学校となり、その年限は、国民皆兵制の下で軍隊に入隊するまでとなっていたのである。(p01)


 しかし全国的には、日露戦争後から大正にかけて、実業補習学校(勿論これだけではない)はぐんぐん増え続けた。この戦後増加の原因には、過去にないものが加わってくる。その一つは、社会主義思想のひろがりであって、労働争議足尾鉱山鉱毒問題など反体制的大衆運動が拡大する中で、内務省・文部省が、青年に対する思想善導政策として地域青年の組織化を強力に進めたからである。…
 さて、もう一つの理由は軍隊編成の近代化による壮丁教育水準の向上要求である。
 この件については、大江志乃夫氏が「国民教育と軍隊」で、旧陸軍関係の資料を駆使して詳しく述べている。要するに、日露戦争における戦闘の経験より、兵器と戦法の近代化が自ずから戦闘単位集団の細分化を必要とし、分隊の指揮官たる下士官の量と質が要求される。それゆえに、優秀な下士官選抜の母胎となる兵卒層が無学文盲であっては困る。
 また、日露戦争後の師団増と既教育兵の増加をはかるため、現役歩兵の徴集人員を増やした上、さらに軍事教育期間の三分の一短縮を実施(明40・10より)する都合上からも、壮丁の教育水準向上は絶対に必要となったのだという。(p24)

f:id:longlive:20140917175725j:plain


 異色の地域は長野県にある。ここは日清戦争の頃から各地に小学校教員の奉仕的活動に支えられた農村青年の夜学会が普及していたが、明治二十六年の実業補習学校規程公布にもかかわらず、これに拠る設立は明治三十三年を迎えるまで一校もなかった。明治三十二年初めて三校発足以後の状況は第4表の通りであるが、この統計を見て驚くことは、女子の比率が全国平均に比して極端に高いことである(第5表)。特に明治四十一年は、女子が男子を上回った。
 本県のこの際立った現象は、一体何が原因であろう。一つの推測ではあるが、長野県における女子の就学動機には、本県の養蚕と家内制手工業である「座操」等、製糸の発展と同調するものがあるのではなかろうか。が、しかし、本県の場合特に考慮しなければならないことは、特に異常とも思えるほどの向学的県民性の伝統である。すでに江戸時代において、寺子屋や心学の普及は全国的に見て抜群であり、明治五年学制頒布以後の義務教育就学率の上昇もまた際立っていた。公立実業補習学校の発足は遅れていても、実質的な実業補習の自主的夜学は十分に発達し、そのレベルも高い。と、ともに、高等小学校に進学する者が多かった。(p25)


 当時軍の切望は軍備の近代化であり、陸軍の場合は、四個師団廃止後の十七個師団が従来の二十一個師団を凌ぐ戦闘力を持つことであった。そのため、火砲の改良、軽機関銃の増加、航空隊・戦車隊・通信隊その他近代的な特殊部隊の創設、こうした拡充に対応できる兵士を確保しなければならない。それには、青年の学力向上と”現役予備課程”の学習による軍隊生活への適応性の向上が前提となろう。
 壮丁学力調査概況によれば、昭和十年になってさえ、壮丁約七十万のうち尋常小学校の中退者が約二万もあり、尋常小学校卒業以後徴兵検査までの八年間何等積極的教育を受けることなく実務に就いていた青年の学力は、平均して小学校三・四年生程度。優れた者でも五年生レベルの加減乗除が出来る程度でしかなかったという。なお、中等学校進学は同年齢人口中わずか二割に達せず、残り八割強のうちの約半分が高等小学校どまりであった。ともあれ昭和初期の兵士の学力平均は、かなり低かったと推測される。
 したがって青訓の出身者は、兵士として相対的に成績がいい。事実彼等は在営期間が短くても、上等兵への昇進、伍長勤務上等兵(この階級は後に兵長と改称される)に選抜される比率も高かった。因みに、兵士のエリートである近衛聯隊の兵士は、その圧倒的多数が青訓の出身者であったという。(p102)


 軍は訓練強化のため、学校教練・青年訓練のため兵器整備目標を次のように定めた。すなわち、小銃と銃剣は執銃訓練対象者全員に、軽機関銃は二百人に対して九丁、擲弾筒は二百人に対して十二丁、模擬手榴弾は対象者の一割以上、防毒面は一学年の半数以上、銃剣道木銃は一割以上。訓練用のグランド面積は、八百名までの最小限度二百メートル×七十メートル。一人当たり最小面積五坪確保とある。
 これらの兵器は、四個師団の廃止による中古品を払い下げたが、陸軍省は学校や青年訓練所からの新品の注文も受付け、射撃用の火薬や実弾の便宜もはかっている。
 こうした軍隊外での訓練用小銃は非軍用銃と軍用銃に大別される。非軍用銃とは明治二十年以前のエンビール、スナイドル、マルチニー、十三年式村田銃等の旧式銃であり、教練科目の中の「兵器取扱法及手入保存法」の教授には役に立たない、軍用銃とは二十二年式村田、露式単発・同連発、三十年式歩兵・同騎兵、三八式歩兵・同騎兵、四四式騎兵の各銃であるが、この中の主流は三十年式と三八式の各歩兵銃である。その銃の払下げ価格は、新品の場合銃四十三円六十銭・銃剣五円三十銭・銃の付属品十二円八十銭・剣の付属品三円十銭の一揃い六十四円八十銭と大変高価であるが、中古の人揃いなら十五円程度であった。陸軍省在郷軍人分会と各学校に対する年一回の払下げは、文部省の配当計画(植民地の諸学校の場合は拓殖局)にしたがい、新品は造兵廠から直接発送される。言うまでもなくこれら銃器の管理保存については厳重な定めがあり、他校への貸付や保管換えについて軍用銃はあらかじめ陸軍省の指示に従い、不要となった場合は勿論火災で焼失しても、その残留品を陸軍省に返還しなければならない。非軍用銃の場合でも、報告を必要とした。つまりは軍用銃の軍隊外備蓄であり、これも四個師団削減の「軍縮」対策の一つであったのである。
 なお帝国軍人後援会では、学校教練あるいは青年訓練中の傷痍、疾病及びそれらによる死亡に対しては、現役兵士に対すると同様の慰籍料を贈与することにしている。(p103)


 しかしながら青訓制度発足の当初この制度の対象に該当する青年の中で、青年訓練所に入所ししかもその出席時数が標準時数に達している者の割合いは、全国平均中の十七人弱という低率で、府県別に計算すると埼玉三十六・三をトップとし、最低石川の一・六というように地域差が大きい(第15表)。
 …各府県も市町村に対し、さかんに中途退所の防止を呼掛けた。
 だがこのような説得も、都市部・商工業地域では効果がない。人口の流動が激しく青年の労働生活が多様で、しかもその生活が雇用主に握られているからである。だから大都会ほど、該当年齢中の入所者は少なかった。
 これに対して農村・漁村では、青年が貧しくない限りは効果があった。
 …全国優良壮丁市町村審査によると、日本一は島根県八束郡大芦村となっている。この村では該当年齢者中の九〇%が入所し、この青訓出身者は入営後ほとんど全員が伍長勤務上等兵に進級して除隊した。除隊時の階級は下から二番目の一等兵が普通で、その一つ上の上等兵で除隊すれば、村の名誉として村長が祝いに来た村もあるという。伍長勤務上等兵とはそのもう一つ上の階級だったのだから、たしかにこの大芦村は全国でも異例である。なおこの村はこの年、健康優良児の県一位も出ており、出稼ぎのないゆたかな村で、納税成績も抜群であったという。(p108)


 もちろん大衆の中には、軍の独善主義を軽蔑し反感を抱く者も決して少なくない。だが、知識人の間にすら近い将来を見越して軍に迎合する者が増えはじめ、例えば左翼の闘士が一躍して親軍ファシストに転向する時代を迎えるようになった。政党政治の腐敗に対する絶望から、大衆の間にも、軍の実力に期待する傾向が急速に高まりつつあったことは決して否定出来ないであろう。
 特に零細農民は、昭和八年に制定された米殻統制法により、早々に米を安く売って現金を手に入れたが、物価の上昇で金は使い果たす。農民でありながらもはや売る米がないばかりか、高い米を買わされる。昭和八年は、豊作にもかかわらず農家は圧迫されていた。ところが翌九年は凶作となる。この年は災害が集中し、九州その他の旱害、北陸の水害、東北の冷害、そして九月の関西における大風水害といった惨状が農民の生活を破壊した。特に東北の冷害は、娘の身売り続出という悲劇を生んでいる。
 注目すべきことは、農民の中にはこのような窮状からの救いを軍に求め、軍もそれにこたえようとする動きが出てきたことである。たとえば和歌山県日高郡藤田村大宇吉田、湯川村大字小松原及び財部、西内原村大字内原、志賀村大字志賀の四か村五大字に発生した小作争議の、憲兵隊による解決である。
 同地域の小作争議は、地主六十名と小作人百五十戸の激突で、昭和三年以来学童のストライキや流血の騒ぎが昭和九年まで続いていた。昭和九年四月六日、四か村の小作人代表は、いずれも在郷軍人の軍服を着用して弁護士とともに和歌山憲兵分隊に乗込んだ。小作人の生活が守られなければ小作人の息子たちは安心して軍務に就けないと訴え、憲兵隊による争議の解決を嘆願したのである。すでに前年十二月、和歌山の歩兵第六十一聯隊に入営した当村の小作人出身の兵士の様子から小作人の窮状を知っていた和歌山憲兵分隊は、上部機関大阪憲兵隊の了解を得て現地に乗込み、田植時までの解決を目途に、貧農、小作人の立場に立って勢力的に調停した。
 当時、徴兵延期の特典を掲げて学生募集をする学校は少なくない。昭和九年陸軍省は、徴兵忌避だけが目的で大学ごとに調査し、東京・大阪だけで四百人以上を突止めている。だが、この年の広島高等女学校の四年生百人を対象とした「あなたは将来どんな職業の夫を選びますか」という問に対する答えは、海軍士官三十二人、官吏二十二人、教育者十二人、会社員十人、陸軍士官・サラリーマン各五人、軍人・飛行家・銀行員各二人、飛行将校・裁判官・外交官・小説家各一人となっている。陸海軍にゆかりの深い広島とはいえ、軍人の合計が四四・四六%という高率は、他の年度や他地域と比較してみなければならないが、やはり見逃せない数字ではなかろうか。
 要するに昭和八~九年になると大衆の軍に対する期待感が確実に高まりつつあったと見るべきであろう。(p130)


 尋常小学校卒業以後、入学試験をパスして中等教育以上の学校に進んだ者は、第25表から推測すればわずかに二割前後で、尋常小学校だけで終わった者が一二・三七パーセントである。この両端を除いた圧倒的多数が高等小学校を卒業する昭和十年に、青年学校が発足した。つまり彼等こそ、青年学校の第一期生である。しかも、彼らが青年学校の本科四年を修了して本科五年、あるいは研究科に進もうとする昭和十四年度から、青年学校が義務制となった。したがって彼等は、青年学校義務制の第一期生でもあり、彼等の年から兵役期間短縮の特典が廃止された。さて昭和十五年一二月に軍隊に入ると、ちょうど現役兵としての在営期間がようやく半分過ぎた途端、太平洋戦争が勃発する。つまりこの世代こそ昭和二十年八月の敗戦にいたる二十歳代前半を、現役下級兵士として日本陸海軍の戦闘員集団の第一線を担っていたのである。それゆえに太平洋戦争による人員の消耗は、この世代が最大ではなかろうか。本稿では、この世代の中で特に青年学校の出身者の比率が、学歴区分の中で四三・四六パーセントと抜群に高いことに注目しているのである。彼等は、学歴の点で下級の将校にもなれない。つまり、太平洋戦争中の軍隊内で、兵士大衆の圧倒的な多数派として終始したのである。(p188)

f:id:longlive:20140917175808j:plain


 第26表から第30表までの表とグラフは、昭和十五年度壮丁学力調査概況の中にあるものの語句などを簡潔に直したものである。
 これだけのデータでもわかるように、学歴別の比率として国策協力・滅私奉公的模範回答が際立って多いのは、師範学校卒業生と青年学校在学経験者であって、その点高学歴者の批判的傾向とは対照的である。(p189)

f:id:longlive:20140917180602j:plain

f:id:longlive:20140917180627j:plain

f:id:longlive:20140917180701j:plain

f:id:longlive:20140917180730j:plain

f:id:longlive:20140917180811j:plain

 なおこの年(昭和十六年)は、四月一日より小学校は「国民学校」と改称された。従来の尋常小学校(あるいは小学校尋常科)は「国民学校初等科」、高等小学校(あるいは小学校高等科)は「国民学校高等科」となる。そしてそこに学ぶこどもたちは、児童ではなく「少国民」と呼ばれることになった。この新名称は、「少年国民」から「年」の一字を省略したものであろうか。(p196)


 昭和十八年の秋、特に軍需工場付設の青年学校では、労働時間延長のため普通学科の授業時間数は減ぜられ、職業科目はもちろん修身公民の教授訓練も、職場での勤労をもって教授及び訓練時間として取扱われることとなり、職場の練達者をもって教員とすることになった。ただし、国語と国史は欠いてはならないという(昭18・11・19 県内政部長の通達)。そして、軍事教練はますます強化しなければならなくなった。
 しかし戦局の悪化にともない……青年学校教育のメインである教練まで、時間を短縮せざるを得なくなった。しかし、東京はじめ大都市と重工業地帯が空襲で潰滅した二十年五月になると、米軍の本土上陸に備えて陸軍二百二十万・海軍百三十万の本土防衛軍の大動員のため、青年学校・男子中等学校以上に教練用として軍から払下げられていた銃器が回収されてしまった。したがって学徒の教練は、竹槍や棍棒とならざるを得ない。そしてその教練も、白兵戦技の訓練となり、女子学徒にも実施されることになった。(p210)


 元来、青年学校の実業教育は実業補習学校の継続として、農業の比率が高いことも継承していた。ところが昭和十四年になると、工業に類する生徒数が一躍前年の十倍になって、農業関係を追抜いて一位に躍進した。…それが、軍需生産の規模拡大によるものであることは言うまでもない。(p229)


 日本は連合国に対して戦闘行為を停止した。無条件降伏である。『…今や国民の斉しく嚮ふべき所は国体の護持にあり……』という内閣告諭に続く文部省訓令は、『敗戦の原因は、国躰護持の支柱たる「皇国教学」の不徹底にあり。敗戦に際し、一層国体護持の思想教育を強化せよ』というものであった。
 この一か月後、文部省の「新日本建設ノ教育方針」は、『軍国的思想及施策ヲ払拭』すべく、学徒隊の解散と軍事教育を全廃を命じた。だが、このこと以上に強調したことは『今後ノ教育ハ益々国体ノ護持ニ努ムル』ことであり、新たな青年団活動にも、『国体護持ノ精神ノ昂揚』という一項を明記している。
 だがこの直後の九月二十二日連合が示した日本管理政策は、日本の軍国主義否定とともに断固国家主義を抹殺するとあり、十月二十二日の「日本教育制度ニ対スル管理政策」には、『教師及ビ教育関係官公吏ハ出来ル限リ迅速ニ取調ベラルベキコト。アラユル職業軍人乃至軍国主義・極端ナル国家主義ノ積極的ナル鼓吹者及ビ占領政策ニ対シテ積極的ニ反対スル人ハ罷免セラルベキコト』と言う。連合国が言う極端な国家主義とは、政府が国民教化の柱として強調する国体観念、すなわち、「万世一系の皇統」とその絶対性を原理とする価値観であることは言うまでもない。連合国は、国体観念の陶冶手段を抹殺するため、十二月に入ると二つの覚書を突付けた。それは、十五日の「国家神道神社神道ニ対スル政府ノ保証・支援・保全・監督並ニ弘告ノ廃止ニ関スル件」と、二十一日の「修身・日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」である。
 このため全国すべての学校は、学生生徒児童に対し、現に使用中の教科書はもちろん、過去の教科書も学校に持参させ、国家主義的・軍国主義的内容の項を指定して切取らせたり、行や用語を墨で塗り潰す作業に追われた。歴史・地理の教科書と地図帳は、すべてまるごと焼却されたのである。(p230)


 しかしながらちょうどこの頃、連合軍最高司令官マッカーサーの要請で来日していた第一次訪日米国教育使節団が三月末日連合軍最高司令官に提出した報告書は、教育制度上の中央集権的画一主義排除の示唆とともに、教育の機会均等実現のため、従来の複線型学校体系の単線化を求めるものであった。すなわちこの報告書は、日本の教育に関する一切の固定観念が否定されるほどの大改革を予告するものであったから、新御真影の学校下賜や新教育勅語渙発という方向は一気に吹っとばされてしまったのである。(p232)


 敗戦とともにすべての学校は、軍国主義国粋主義教育の痕跡を抹殺するため、関係書類や教具教材・軍事教練の器具を焼却し、学生・生徒の挙手の礼や部隊行動などの軍隊的礼式を禁じた。
 学徒隊は解散して工場等の学徒動員は解除されたが、校舎は戦火による消失を運よくまぬがれたのも、学徒動員中に兵舎や軍需工場の作業場に転用されたりさまざまな機関の緊急疎開で占拠され、しかも教材教具等分散疎開したままであったから、即座に教育活動を再開することはとても不可能である。それ以上に、教師は一体何をどのように教えていいか分からず、それにも増して、深刻な飢餓が全国民に襲いかかっていたのである。
 この惨状は、学校種別で比較すれば、青年学校こそ最も深刻であったと言えよう。なぜなら、工場付設の私立青年学校は工場閉鎖で自動的に消滅し、公立青年学校の場合はほとんど独立校舎を持たず国民学校に同居していたからである。しかしそれ以上に再開の見込みを奪った原因は、元来青年学校の目的が軍国主義教育にあり、教員の過半数が軍人指導員だったからである。だから、敗戦により差当たって青年学校に与えられた任務は、地域内に残された旧軍事施設の取り壊し作業となった。(p232)


 青年学校の男子が義務教育であることは、敗戦後も継続していたのである。しかし、かつて青年学校教師陣の主役であった教練担当の軍人指導員が消え去った後に残る普通学科や職業学科の教師たちは、「生徒が登校しても、何を教えていいかわからないので、算盤の練習ばかりやらせていた。欠席が続出しても、出席を強要する気になれない。それは、生徒が大勢押寄せて校内で天皇論議や戦時中の教育や指導員に対する弾劾でもはじめたら、当局に知れて自分の首が危ないと思ったからだ」と回顧する者が少なくない。(p234)


 だが、義務教育ではない女子の生徒数を見ると、その増加状況は制度発足以来順調に伸び、敗戦の昭和二十年はやや低下したが、その翌年がピークとなっている。男女とも昭和二十二年に減少するのは、青年学校制度が昭和二十二年度の末日をもって廃止されることが予定されたため、新入学を停止したからである。
 それはともかくとして、女子生徒の戦後の増加原因は何であろうか?
 もともと女子は男子より年限が短く、本来その教育内容は、家事裁縫や職業教育がメインであった。敗戦により男女同権が叫ばれ、婦人参政権も実現したいわゆる民主化ブームが、女性の向学心・知識欲を掻立てた結果でもあろう。と同時に、当時の若い女性たちは、戦中戦後の極度な衣料不足から古着の修繕や改縫のためその技術を求め、ミシンの使える青年学校に集まって来た。当時は、ミシンが使えるというだけで若い女性を集めることができるほど、ミシンは極端に少なく、その魅力は大きかったのである。(p235)

f:id:longlive:20141008174229j:plain


 ところで、戦後になって男女ともに生徒数が急増した所もある。その好例は長野県である。長野県では、実業補習学校時代から青年学校廃止までの全体を通じ、特に男子の生徒数が最大になったのが敗戦の翌年である。同県のこの年度は、青年学校だけでなく男女とも中等学校の生徒数も急増した。もともと青年学校と中等学校とは、同世代の若者を奪い合う関係にあるはずだから、この現象はなかなか興味深いものがある。これは、向学心の旺盛な県民性の現れでもあろうか。この県の青年学校について言えることは、大工業地帯やその周辺部と比べて軍需工場付設の私立学校が少なかったから、青年学校の閉鎖は少なく、各町村の公立青年学校には、かつての農村型実業補習学校以来の伝統が継続していたということと、敗戦により、青年の工業地帯への流出が止まり、逆に帰郷青年が増えたということも考えられる。(p235)


 さて戦後の占領下、地域に再発足したお祭り青年会の活動メンバーや選挙の若手運動員のほとんどが、元下級兵士や元軍需工場の従業員で、しかもその多くは、高等小学校を経て青年学校で学んだという若者であった。当時は、この経歴の若者こそ「普通の青年」、つまり同世代中の多数派であり、戦時中は軍隊あるいは軍需生産現場の量的戦力として最大の消耗を強いられた。危うく生残って敗戦による秩序や価値観の激変を迎えると、一般大衆の中の最も行動的な初々しい種族として新時代に対応する。彼等がその主体的な地域活動等に同世代中の学歴エリートの参加を積極的に働き掛けなかったのは、当時は高学歴者が少数派で、おのずから高学歴者特有の意識に対して違和感を抱いていたからである。
 以後彼等は、戦後の復興期、そして経済の高度成長と進むにつれて壮年となり、一般庶民の主力となった。つまり、義務制青年学校に在籍した当時の青年たちは、昭和改元以後の約五年間に生れ、昭和の終焉前後に定年を迎えた世代の中の、激動の昭和をもっとも平均的な立場で生き抜いた多数派なのである。(p241)