ベトナム戦争

ベトナム戦争のアメリカ』白井洋子

 ベトナムへのアメリカの介入開始時期の問題にもどると、第一次インドシナ戦争中の一九五〇年にトルーマン政権がベトナムと戦闘中のフランスへの軍事援助を決定したことをもって、これをアメリカ戦争のはじまりとする説もある。しかしより一般的に受け入れられているのは、ジュネーブ協定への調印を拒否し、南ベトナムへの直接援助の開始に踏み切った一九五四年説、そして北ベトナム(民主共和国)への爆撃を開始することでいわゆる「アメリカの戦争」へとエスカレートしていった一九六五年を本格的軍事介入のはじまりとする説であろう。
 アメリカが公然と対仏軍事援助を開始した一九五〇年を、アメリカ戦争としてのベトナム戦争の起源と明言するかどうかは別として、この年をインドシナへのアメリカの本格介入のはじまりとする説は今なお有力である。吉田元夫著『歴史としてのベトナム戦争』(大月書店、一九九一)は、一九五〇年のトルーマン政権による一〇〇〇万ドル対仏戦費援助をもってアメリカのインドシナ戦争への本格介入のはじまりとみなしている。小倉貞男著『ドキュメント ヴェトナム戦争』(岩波書店、一九九二)は戦争の過程を実証的に再現した貴重な研究であるが、ここでは「インドシナに対する経済援助は[一九五〇年]五月二五日に最終的に決定された。軍事援助の第一陣として米輸送機C‐47八機が六月二九日、サイゴンに到着した。インドシナの戦争は、米国の戦争に転換しはじめていた」(四〇頁)としつつも、「米国がおおやけにインドシナへの介入をはじめたのは、一九五四年一〇月二三日、アイゼンハワー大統領がサイゴンのゴ・ディン・ジェム大統領に軍事援助を約束した時点である」(一一五頁)と述べている。一九五四年起源説を明確に打ち出しているのは、吉澤南著『ベトナム戦争―民衆にとっての戦場―』(吉川弘文館、一九九八)である。吉澤は当初、一九五四年以前の戦いにおいても、フランスはアメリカの軍事援助なしには戦争を継続できなかった事実に照らして、トルーマン大統領が対仏軍事援助を決定した一九五〇年起源説をとっていたが、この一九九八年出版の『ベトナム戦争』では、「フランスによる戦争とアメリカによる戦争とを、その継続面に注意を払いつつも、一つながりの戦争とはしないで、一九五四年にアメリカが別の戦争を新たに仕掛けた、という立場に立つことがどうしても必要であろう」(一五頁)との視点を明らかにしている。吉澤のねらいは、ジュネーブ協定をあえて無視し、東南アジアに強引な自己正当化を押しつけてきたアメリカが起こした「別な戦争」の実態を、南ベトナムの民衆運動に焦点を当てながら鮮明に描き出すことにあった。
 ベトナム戦争泥沼論でよく知られるアメリカのジャーナリスト、デイヴィッド・ハルバースタムも一九五四年説をとり、その著『ベトナムの泥沼から』(泉鴻之・林雄一郎訳、みすず書房、一九六八)では、そもそも乗り気ではなかったアメリカ政府がゴ・ディン・ジェム政権に肩入れしたことから、アメリカは失敗と混乱の深みにはまって抜け出せなくなってしまったと説明する。一九五四年起源説の主たる論点は、アメリカ政府がジュネーブ協定を無視し、その二年後に実施されることになっていた南北統一選挙を実質的に妨害し、ベトナム国土の南北分断を事実上固定化し、南ベトナムへの直接的な軍事経済援助を協定後に公然と開始したことにある。旧来のフランスによるインドシナ植民地支配とは異なる、とりわけ中国革命後の冷戦体制下におけるアメリカの東南アジア政策はまさにこの時点で鮮明になったといえよう。しかし吉澤も指摘しているように、一九五四年以前の、インドシナの再植民地化を目指したフランスは、アメリカの援助なくして、第一次インドシナ戦争を戦うことはできなかったのである。(p06)


 アメリカ合衆国には、ベトナム問題へのアメリカの関わりの起源を第二次世界大戦直後の一九四五年からとする、つまりベトナム戦争を三〇年戦争ととらえる説もある。その代表的な歴史家の一人にマリン・B・ヤングがいる。その根拠としてヤングは著書『ベトナム戦争』(一九九一)のなかで、一九四五年一〇月はじめ、日本の敗戦から二カ月後に、ベトナム植民地支配復活をねらったフランスの一万三〇〇〇人の戦闘部隊をサイゴンまで運んだのが、一二隻のアメリカ商船隊だったことを挙げている。そして文化史家のブルース・H・フランクリンは、この商船体のアメリカ人船員がフランス軍輸送の命令に抗議した事実を、アメリカ人による最初の反戦運動としてその著『ベトナムとアメリカのファンタジー』(二〇〇〇)において詳細に紹介している。(p09)


 ベトナム戦争の時代は世界史的にはちょうど冷戦期にあたる。それゆえアメリカ国内向けには、この戦争はアジアを共産主義の脅威から防衛するための戦争、自由と民主主義を守るための戦争という大義名分のもとに遂行された。そしてアメリカ政府と軍部が強調する自由と民主主義が「悪」の共産主義と対置された時、アメリカ流の自由と民主主義は絶対化され、アメリカの政策に異を唱えるものは二者択一的に共産主義と結びつけられ、反アメリカ的であるがゆえにアメリカの敵とされた。そのため、実に不幸なことではあったが、アメリカの人びとにとって、第二次大戦後、旧植民地支配下におかれていた人びとの民族と独立と自由を求める運動がアジアやアフリカ、ラテンアメリカ地域に台頭してきた時に、そうした動きを世界史的の大きな流れのなかでとらえることが困難となったことも事実だった。(p13)


 一九四六年一二月二〇日、ホー・チ・ミンは「ベトナム民主共和国主席」の名において全人民への抗戦アピールを発した。
 全国の同胞諸君!
 われわれは平和を望むから、譲歩してきた。ところが、われわれが譲歩をすればするほど、フランス植民地主義者はのさばり、わが国をあらためて侵略しようと決意している。
 そうはさせない! われわれは国を失うくらいなら、すべてを犠牲にしてもよい。奴隷にはならない決意である。
 男も女も、老いも若きも、信条、政党、民族にかかわりなく、すべてのベトナム人が起ち上がり、祖国を救うためにフランス植民地主義者とたたかわなければならない。銃をもつものは銃を使え。剣をもつものは剣を使え。剣をもたないものはスキを、クワを、棒を使え……
 第一次インドシナ戦争のはじまりだった。(p35)


 トルーマン政権とアメリカ国務省がもっとも知りたかったのは、ホー・チ・ミンとモスクワとの関係だった。サイゴンハノイのアメリカ領事館の調査では、ホー・チ・ミン共産主義者ではあるが民族主義者としての側面をより強くもっていること、ベトナム独立運動ソ連との関係はないであろうこと、ベトナムはむしろアメリカに対する政治的、経済的、技術上の援助を求めていることが報告されている。ベトミンがソ連の指示によって動いていることを証明するものは何も見つからなかった。
 アメリカのジャーナリストでホー・チ・ミンとも直接話をしたことのあるハロルド・アイザックスも一九四九年四月の記事で、「ホー・チ・ミンは現在のところモスクワの手先というよりはベトナムナショナリストであると言う方がずっとあたっている」と述べている。ベトミンの指導者の一人はアイザックスに語った。「ロシア人はロシアの利益をすべてに優先させるナショナリスト。かれらはわれわれがロシアの役に立つと考えたときにしかわれわれに関心をしめさない。今のところ、残念ながら、われわれにそんな余裕はない」。つまりベトミンの側の方がソ連からの援助をあてになどしていなかったということである。しかし同年五月、国務長官ディーン・アチソンは次のような結論にたどり着いた。つまり、モスクワとのつながりや「アカ」(原語はコミー、コミュニストの蔑称)の考えをはっきりと否定しないかぎりホー・チ・ミンは「アカ」でしかなく、植民地諸国の共産主義者はすべてスターリニストで、それらの国々は独立するや否や「アカ」の言いなりになってしまう、と。(p36)


 当時のベトナムを訪れた共和党ケンタッキー州選出のスラストン・B・モート上院議員は、ホー・チ・ミンベトナム全域の多くの農民たちから、アメリカで言えばジョージ・ワシントンのように慕われていたと証言している。(p37)


 アイゼンハワー共和党大会で、「私は……アメリカの自由と世界の自由のための偉大なる聖戦を指揮することを命じられたのであります」と演説し、アメリカがベトナムで十字軍の旗手となることを宣言した。…一九五〇年から五四年にフランス軍ディエンビエンフーで敗北を喫するまでの期間、フランスの戦費の八〇%はアメリカからの援助によって支えられた。その額は『秘密報告書』によれば十一億ドルに達したということである。この援助なしにはフランス軍が自力で戦うことはまったく不可能だった。
 しかしアメリカが、ベトナムのフランス十字軍に軍事的経済的援助を与える根拠は、崇高に響く精神性からばかりではなかった。一九五三年八月四日にワシントン州シアトルで開かれた全米知事会議でアイゼンハワー大統領はこのような発言をしている。「われわれがインドシナを失ったと仮定しよう……われわれが非常な価値を認めているスズとタングステンインドシナから来なくなるだろう……われわれは外国にタダでくれてやる計画を可決したのではない」。(p41)


 ジュネーブ会議以前のベトナム戦場の報告をもとに、アイゼンハワーはのちにこう回想している。
 「普通のベトナム農民に約八〇年にもわたってかれらの民族を支配してきたフランスが本当に自由のためにたたかっていて、かれらと同じ人種の生まれであるベトミンが奴隷化のためにたたかっているのだと理解させるのは、ほとんど不可能だった」。「私が会って話をし、あるいは手紙をかわしたインドシナ問題の通はみな、戦争がおこなわれている時点で選挙が実施されていれば、おそらく住民の八〇%は、自分たちの指導者として、国家元首バオ・ダイよりは共産主義者のホー・チ・ミンに投票していただろうという意見であった」。大国主導型のジュネーブ休戦協定会議ではあったが、参加国のイギリス、フランス、ソ連、中国も、この協定内容をもって戦争は終結し、あとは二年後の選挙の実施という政治的決着がもたらされるものと見ていた。(p45)


 ベトナムの地でのアメリカの戦争は自国民からも「汚い戦争」と呼ばれた。何故か。それはひとつには、政府と軍部によって嘘と秘密で塗り固められた戦争だったからである。そのもっとも顕著な事例として挙げられるのが一九六四年八月に起こったトンキン湾事件だった。北ベトナム領内のトンキン湾で、米駆逐艦北ベトナムのパトロール艇から二度の魚雷攻撃を受けたとされ、これを口実に翌六五年から北ベトナムへの持続的な爆撃が開始されることになった。のちに二度目の攻撃については、攻撃を受けたという緊急連絡直後に、米駆逐艦乗務員によるレーダー誤読の可能性があるとの報告が米太平洋軍司令部を通してワシントンに伝えられていたことが暴露された。最初の攻撃に関してもその直前に、南ベトナム軍と米軍による北ベトナムに対する挑発的隠密作戦によるラオス国境の村落への爆撃と、北ベトナム領海内のホングー島、ホンメ島への砲撃があったこと、これらの挑発行為に対して北ベトナム側が厳戒態勢をとっていたことを米軍側が知っていた事実も明らかにされている。つまりジョンソン政権は事件の真相を隠蔽し、あたかも北ベトナム側から突然に攻撃されたかのような状況をつくり上げ、その報復として北ベトナムを公然と攻撃するための「正当」な理由を手に入れたのだった。(p51)


 前掲『秘密報告書』はケネディ政権のベトナム政策について、「アイゼンハワー大統領がはじめた危険の少ないカケだったものが、ケネディ大統領のもとで、際限のない介入に変容した」との判断を下している。(p53)


 アメリカ政府と軍の指導者たちは、世界の最強国であるアメリカがその巨大な軍事力行使の決意さえ示せば、相手側は屈服するはずであると信じ切っていた。トンキン湾事件の起こる少し前の一九六四年六月半ばに、アメリカ側は、これも以前から計画されていた「ニンジンとムチ」方式を実行に移した。アメリカ政府の要請を受けた国際監視委員会のカナダ代表ジェームズ・ブレア・シーボーンがハノイを訪れ、ファン・ヴァン・ドン首相とひそかに会談をもち、「もし戦争が拡大されれば、最大の惨害をこうむるのは、もちろん北ベトナム自身だろう」と告げた。食糧援助をはじめとする「ニンジン」についてどの程度話されたのかは明らかでないとされる。シーボーンが警告した内容の重大性をファン・ヴァン・ドン首相は完全に理解したということだったが、北ベトナム側がその脅迫と「ニンジン」の誘いを跳ね返しことだけははっきりしていた。
 アジアの小国の、それも長年のヨーロッパ植民地主義による支配を自力で打ち破り、貧しさと闘いながらようやく築き上げてきた産業施設や生活に必要な諸施設を、空爆で破壊するぞと脅すことで、みずからの威信を保とうとするアメリカ側指導者の態度からは、大国の奢りと、小国への無知と侮り、物質的豊かさとテクノロジーへの過信が露骨に顔をのぞかせていた。米空軍参謀総長カーティス・ルメイ将軍の発言、北ベトナム空爆によって「石器時代に引き戻してやる」などは、その最たるものだったろう。(p76)


 ベトナム戦争の記憶の置き換えは、ベトナム戦争の歴史の修正版として、次に引用する一九八二年二月のレーガン大統領による演説で公式なものとされた。

 私の記憶が正しければ、フランスがインドシナの植民地支配をあきらめ、旧植民地が独立国家として自立するための援助に関する主要国会議がジュネーブで開かれた。北と南のベトナムは、植民地とされる前から二つの別々な国であったがゆえに、この両国を統一するかどうかはすべての住民による投票によって決定できるとの取り決めがなされたのである。(中略)
 そしてわが国は公然と軍事顧問を派遣したが、それは植民地主義に支配されてきた国が自己防衛に必要な国家安全保障手段としての軍隊をもつための援助を必要としたからだった。私の記憶が正しければ、そうしたことは文民官によって行われていたのであり、かれら[アメリカ人]が居住地を爆破されたり、歩行中に自転車にのった者から攻撃を受けたり、パイプ爆弾を投げつけられたりするまでは、武器を使用することはなかった。武器の携行と軍服の着用が許されたのは、それ[攻撃]以後のことである。しかしこれは[この時点では]まったくの対応策に過ぎなかった。[アメリカ人への]こうした攻撃や侵入があまりにも頻繁に繰り返されるようになったため、ジョン・F・ケネディ海兵隊派遣を認めたのである。これがベトナムへの戦闘部隊派遣への最初の動きだった。

 レーガン大統領による修正版ベトナム戦争史では、ジュネーブ協定の内容は改変され、ベトナムはもともと北と南に分かれた別々の国とされてしまい、協定違反を犯したのはホー・チ・ミンの側であり、アメリカは独立したばかりの小国を防衛するために「崇高な大義」を掲げて出兵したのであって、むしろこの戦争の、ベトナム人の無謀な攻撃の被害者なのだという解釈が平然と語られている。つまりこの戦争からアメリカ側の侵略性をぬぐい落とし、アメリカの国と国民はこの戦争の被害者なのだというすり替えを行なったということである。このすり替えはアメリカ国民にとって大いなる救いとなった。ベトナム帰還兵を「ベトナム」の悪夢を想い起こさせる幽霊として嫌悪し、また負け犬や厄介者、赤ん坊殺しとして冷遇し排斥してきたことへの、罪の意識や自責の念に苛まれていた「銃後」の国民への癒しともなったからである。八〇年代の「癒し」とは、このようにしてこの戦争に対する国家的、国民的な免罪をも絡ませたものであった。(p183)