大東亜戦争の2大原因

宮崎正弘の国際ニュース・早読み(人民元が連日の切り下げ)
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(読者の声1)貴誌前号に紹介された書評欄の倉山満著『お役所仕事の大東亜戦争』(三才ブックス)の紹介文の感想です。本は未読なので、誤解があるかもしれませんがよろしく。若い人なので今後の成長を期待して以下意見を記します。

1.一人相撲史観
 倉山氏は大東亜戦争の原因を日本政治メカニズムにあったという。しかし戦争は相手のある国際事件だ。日本にだけ原因を求めるのは誰が見ても無理である。当時の外国の歴史資料をもっと読んで欲しい。こうした日本だけに責任を求める歴史観を私は「一人相撲歴史観」とよんで評価しない。これは戦後の占領軍の日本悪者歴史観の域を出ないからだ。

 一人相撲史観の理由は、反日目的は別として、歴史事件の因果関係、ヒトラースターリン蒋介石ルーズベルトの事績、その思想をよく知らないからだろう。大東亜戦争では日本は受け身であった。支那事変は8.13の蒋介石の上海奇襲攻撃で始まっており、真珠湾事件も日本の反撃というと日米戦争の性質がよく分かる。米国は既に蒋介石軍に偽装した米空軍を支那南部に配備して日本軍を攻撃しており、ハルノートを突きつけていたのだ。

2.大東亜戦争の2大原因:米ソの対日戦争の動機は、スターリン独ソ戦に備えた極東工作としての支那事変ルーズベルトの明治以来の満洲狙いの日米戦争に大別できる。これにより日本は米ソ二大超大国に挟撃され滅ぼされた。なお日本を攻撃した蒋介石はヤルタ会議に呼ばれなかったことで明らかなように米ソの傀儡だった。

3.ソ連スパイ
 ヒトラー1924年からドイツを自給自足体制にするためソ連の占領を公言していた。これに対してスターリンは、30年代内外で独ソ戦の準備を開始した。内部では共産党赤軍の幹部を大粛清して、戦時の混乱の種を根絶した。国際的には米国と国交を開設して米国最高指導部にスパイをおくりこんだ。ソ連スパイとして大統領特別補佐官のA・ヒス、ロスアラモス原爆研究所のクラウス・フックスなどよく知られている。日本は近衛首相の周囲に尾崎経由で入り込んだゾルゲである。他にもソ連スパイコード名エコノミストが有名だ。この男は商工大臣と昼食を取るほどの高い地位の人間であった。しかし名前が特定されないまま戦後世界に滑り込んでいる。ナチス、英国、蒋介石周辺にもソ連スパイが入り込んでいた。こうして彼等が各国政権中枢の情報をスターリンに通報し、さらに各国の政策をソ連に有利に動かすような情報を流していたのである。

4.支那事変工作
 スターリンはまず1936.12の西安事件蒋介石を捕らえて、本人と息子(?経国)の生命の代償に対日攻撃をさせた。それが支那事変だ。支那事変は、蒋介石の転換期、準備期、挑発期、攻撃期、戦争期、終戦に大別できる。準備期は1937年の前半で厖大な物資を集積した。蒋介石は兵員百万人、軍馬十万頭の半年分の食料、兵器弾薬を半年かけて準備した。金はソ連が3億ドルの軍事借款を与えた。よく言われる盧溝橋事件は挑発期だ。ほかに通州日本人大虐殺事件も含まれる。挑発期の目的は日本人を興奮させ、冷静な判断力を奪い、大陸の戦争に引きずり込むことだった。また欧米に蒋介石戦争責任を不明にすることだった。ともに成功した。なお盧溝橋事件では中共が双方に撃ちかけて戦争が始まったという俗説があるが意味がない。蒋介石は既に対日戦の準備を完了していたからだ。西安事件後の国共小競り合いは偽装の芝居である。ルーズベルト曰く「政治的な事件に偶発はない。すべては仕組まれている」

5.アジアの解放
 この事業は日本とアジア諸民族の共同事業と考えると分かり易い。すなわち、日本が緒戦で白人宗主国軍を撃破した。1945年日本は敗戦し撤退した。しかしアジアの解放事業は終わっていない。すなわち各国が立ち上がり独立戦争を経て独立した。だから役割分担だ。日本が上げ膳据え膳で各国の独立を準備して提供するという発想は当時からなかった。日本軍は各国に、独立は自分で血を流して手に入れよ、と教えている。各民族も同意している。そこで日本軍は各国で民族主義振興、現地軍の設立、行政官僚の育成、国民教育の準備など、白人宗主国の禁じていたことを援助し、進めたのだ。

6.国体の護持:
 日本では国体は『天皇を中心とする日本の独自のありから』といわれるが、より正確に理解したい。すなわち、国体とは日本民族の生態である、慣習、制度、価値観の総体だ。その機能は連続性と連帯性だ。その具体的な政策が明治憲法だ。それを敵が壊したので今日本人は苦しんでいるのである。

7.参考:上海戦の始まり、トレバ二アン著「シブミ」から抜粋。
これはトレバ二アン著「シブミ」からの引用抜粋。上海事変の戦闘状況を比較的正確に書いている。なおカズオ・イシグロの「わたしたちが孤児だったころ」や「太陽の帝国」にも上海戦と英国人の状況が小説的に描かれている。

引用:1937年7月7日に支那の英字紙は北京の近くの盧溝橋で日本軍と中国軍が銃撃を交わした、と報じた。上海のバンド地区の英国の実業家達は、これは迅速に手を打たないと収拾不能になる可能性があるという意見で一致した。そこで北(南京)へ急行して上海以外で抗戦してくれと蒋介石総統に伝えた。 しかし総統は共同租界を危険にさらすことにより、外国の介入を期待できることを期待して拒否し上海で戦争することにした。 8月9日、車で郊外(紅橋飛行場付近)の紡績工場の検査に向かっていた大山勇夫中尉と運転手の斉藤与蔵一等水兵が中国兵士に停止を命ぜられた。そして蜂の巣のように撃たれ性器を切り取られた二人の死体がモニュメントロードで見つかった。 日本は居留民保護のために軍艦から陸戦隊一千人が上陸した。前面には既に塹壕を構築した蒋介石の数万の精鋭部隊が待ち受けていた。 欧米の大使は、安楽な暮らしを楽しんでいた英国人らの要請で、上海を戦闘地域から外すように東京と南京に要請した。日本政府は双方が非武装地帯から撤退するという条件で同意した。 しかし8月12日、w)?シ娉霎仟Δ脇鐱楞輓了・曚半・甸屬療渡胆・鮴效任靴拭・・嫌ぢ月13日の金曜日には蒋介石軍第88師団五万人が北停車場に到着し、租界から外に通じる道路をすべて封鎖した。それはごく少数の日本軍と自分たちの間に緩衝用に出来るだけ多くの一般市民を閉じ込めておくのが狙いであった。 8月14日に蒋介石軍機(米国製)が上海地域を盲爆した。高性能爆弾がパレスホテルを直撃した。さらに31分後に別の一機が大世界娯楽センターを爆撃した。1千人以上が爆死し、一千人以上が負傷した。(注:後のライシャワー大使の令兄がホテルで爆死) その夜、蒋介石軍の砲兵が日本の艦船を砲撃した。蒋介石軍は支那事変中、上海で一番頑強に抵抗した。日本軍ははるかに兵力が少なかったが、支那兵を駆逐するのに3ヶ月もかかった。蒋介石は外国の干渉を誘い出すつもりで、連日空軍による無差別爆撃を繰り返した。
  (東海子)


宮崎正弘の国際ニュース・早読み(中国政界、団派ナンバーツーの側近が失脚)
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(読者の声3)安倍談話でようやく村山談話の歴史のくびきが外され,日本人の歴史研究が急に自由になってきた感じがします。
 さて貴誌前号の小川栄太郎氏への書評に関して以下に感想です。
支那事変理解の要点」
 小川栄太郎氏は愛国者で期待しています。
ただし支那事変歴史観については、補足が必要と思います。支那事変の発端の概要についてはチューブ動画(索引:ajer 支那事変の本当の原因は何だったのか)を参照してください。
 小川氏は「大東亜戦争は敗戦したので無条件では肯定できない」というが、この戦争は自衛戦争でした。戦争はビジネスではありません。「人間は負ける戦争を何故するのか」を知りたいと思います。同じ敗戦国フィンランド人は負けたけれど対ソ戦を誇りに思っています。指導者マンネハイムは銅像になってヘルシンキ駅前に立っています。日本なら東條英機です。
 1930年代には大不況で国際貿易がブロック化したのでヒトラーは自給体制を確立するため、「わが闘争」で明言していたロシア占領に向かいます。これに対してスターリンが東西挟撃を防ぐために極東工作を行います。それが支那事変です。(成功しました)米国の援蒋の目的は、これとは別の満洲狙いでした。日本を滅ぼし支那満州蒋介石を傀儡に支配しようと考えたのです。(失敗しました)
 日本の満州事変は、日露戦争で得た正当な権益を1929年から張学良軍閥が侵害したので撃退したのが原因です。満洲満洲人王朝の清朝の本土ですが、万里の長城の外にあるように支那の伝統的な領域ではないことを確認したい。
 満州事変支那事変とは関係ありません。満洲では戦争はありませんでした。西安事件前の蒋介石国共内戦勝利と支那統一を最優先にしていました。有名な「安内攘外」方針です。無理に関係を主張するのは、1936.12の西安事件蒋介石支那統一方針から対日戦に転向した史実を隠蔽するためでしょう。
 支那大陸は1912年の清朝滅亡後複数の地域軍閥が覇権を争う戦国時代になりました。いわゆる「中華民国」も国民党軍閥の自称にすぎなかった。国民の選挙があったわけではない。支那事変の分析は「中国」と言うあいまいな概念を使わず具体的な軍閥名で呼ぶと分かり易くだまされない。
 日本は1901年の義和団議定書以来米英仏伊とともに30年来北京地域にPKO軍を置いて居留民を保護していた。支那本土を占領する気はありませんでした。それが1937.7.8に日本のPKO部隊だけが襲われたのです。
 独ソ戦を控えたスターリンは1936.12の西安事件で捕らえた蒋介石に対日攻撃を命じました。そこで蒋介石は1937年前半6ヶ月間にソ連の3億ドルに上る軍事借款を得て、厖大な対日戦の準備(食料、兵器、弾薬、飛行機など)を完了しました。そして1937.7から挑発を開始しました。この狙いは、日本人を激昂させることと、国際社会に戦争責任をごまかすことと思われます。日本はその手に乗って支那事変になりました。
 7月から起きた盧溝橋事件以下通州事件を含むいくつかのの対日挑発事件は仕組まれたものです。米国のルーズベルトは「政治的な事件には偶発はない。すべては仕組まれている」と述べています。
 したがって盧溝橋事件の発端として中共蒋介石軍と日本軍の双方を攻撃して戦争させたという俗説は、水滸伝のレベルの珍説であり、厖大な準備と補給を前提とする近代戦ではありえないことです。これは西安事件蒋介石共産党への降伏を隠すものです。1937年には国共の小さな衝突がありますが,これも西安事件蒋介石の降伏を隠すための芝居と思われます。共産党の本拠地、延安総攻撃をやらないのですから。
 上海の蒋介石の攻撃に対して日本の方針選択では、支那からの総撤退論(参謀本部作戦部長石原完爾大佐)とその他の人々の一撃講和論に分かれましたが、決断が遅れている間に蒋介石が大軍を投入し現地の状況が急速に悪化したため、本土から救援軍を送らざるをえなくなり、それが泥沼化したのです。
 汪兆銘政権は約7年間、日本軍と支那沿海部、人口2億以上重慶を除く一千都市、工業生産の9割以上を支配しました。蒋介石は奥地の地方政権となり、米ソの援助がなければ一日も戦争を続けることは出来ませんでした。日本軍は町外れに駐屯し、物資の買い付け以外現地人の生活に関与しませんでした。占領地はおおむね平和で、帰還時には現地商人から婿になって欲しいといわれた購買担当の日本兵もいたほどです。
 蒋介石の傀儡性は、1945.2の戦後世界を決める最重要のヤルタ会議に呼ばれず、米ソが蒋介石の了解もなく支那処分(外蒙古ソ連割譲、帝政ロシア支那利権の回復)を決めたことから明らかです。蒋介石は息子をモスクワに送りスターリンに抗議しますが相手にされず、泣く泣く事後承諾しました。中共資金、武器、監督をソ連に仰ぐソ連共産党支那支部に過ぎませんでした。
 日本は支那事変ではヒトラーの仲介も利用し、何度も蒋介石に講和を提案しましたが、蒋介石スターリンの傀儡になっており真面目に取り組まず、日本の手の内を見るだけでした。だから近衛声明は正しかったのです。なお蒋介石からの講和提案としては、1945.3のミョウヒン工作がありますが遅すぎました。
 支那事変の分析では、蒋介石が何故自分が損をする対日戦争を続けたのか、を合理的に説明できることが必要です。西安事件の実行犯の一人張学良によると、戦後台湾で蒋介石は「お前のために支那を失った」と終生許さなかったと言います。(張学良は事件後蒋介石に降伏し(莫大な身代金?)助命され幽閉された)
 国民党の最高指導部の一人である汪兆銘重慶から南京に招致した日本軍特務機関の工作は素晴らしいと思います。映画にしたいものです。汪兆銘夫人の陳壁君女史は、戦後中共の法廷で「我々を日本の傀儡というのなら、蒋介石は米ソの傀儡ではないか」と堂々と反論し,聴衆に感銘を与えたことは有名です。
 1941年の日本の南進は、米国の禁輸の圧迫に耐えかねてやむを得ず行ったものです。ゾルゲの功績といいますが、支那事変を抱えている日本が北上できないことは、スターリンは知っていました。そのためにこそ、1937の支那事変、1938の張鼓峰事件、1939のノモンハン事件を起こしていたのですから。
 また日本政府上層部にソ連スパイ、コード名エコノミストがおり国家機密をソ連に通報していました。戦後スターリンの文庫から彼の真珠湾計画の報告が見つかっています。
 小川氏は日本が国際世論戦争に破れたといいますが、30年代の欧米のマスコミ,映画界はすでに米国政府の反日方針の下でソ連の工作もあり、狂ったような親蒋反日報道を行っていました。現代のような状況ではありませんでした。
 これは私も以前勘違いした現代日本人の誤解です。日米戦に反対したラルフ・タウンゼントの本が参考になります。
(東海子)


宮崎正弘の国際ニュース・早読み(人民元はいま売れ、質問は後で)
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(読者の声1)先の小生の「支那事変理解の要点」について、近代史家のT先生から、「スターリン、蔣経国会談」の典拠の問い合わせをいただきました。そこで以下ご参考まで。
                記
1.典拠:小谷豪冶郎著『蒋経国伝』(1990年)。小谷は蒋経国の書き記した覚書や書簡、報告書類を編んで作られた『風雨中的寧静』、『総統蒋公大事長編初稿』から引用している。)

2.ヤルタ会議と支那事変の黒幕
支那事変蒋介石の立場をよく示しているのが、1945.2のヤルタ会議です。この会議は戦後世界を決める最重要会議でしたが、蒋介石は呼ばれませんでした。そして重大な支那処分が決められました。これは支那事変の黒幕が米ソであり、蒋介石が彼等の傀儡に過ぎなかった証拠です。当時の中共は言うまでもなく監督、資金、兵器をソ連に仰ぐ、ロシア共産党支那支部毛沢東スターリンの子分に過ぎませんでした。

3.支那処分とは
ヤルタ協定では、日本処分(南樺太北方領土など)が知られていますが、米ソは蒋介石抜きで支那処分を決めました。それは広大な外モンゴル支那からの独立(実質ソ連の衛星国化)、日露戦争で廃止された帝政ロシア支那利権回復などです。

4.蒋経国スターリン会談
以下、上記資料抜粋。インターネット情報です。
引用開始> 蒋介石ヤルタ協定の内容をアメリカの駐華大使から知らされたのは、締結から2か月半を過ぎてからだった。蒋経国は(1936.12の西安事件後、1937年4月に12年に及ぶソ連人質から釈放され)蒋介石の有能な部下として活動を開始しており、1945年6月、中ソ交渉のためにモスクワに派遣された代表団に随行した。
 スターリンの態度ははじめ丁寧だったが、正式交渉に入るとがらりと変わり、1枚の紙をテーブルの上にポンと投げるように出して、「これを見たことがあるか」と言った。

 中国側代表はそれが「ヤルタ協定」であることを認め、大体の内容は承知していると答えると、スターリンは「これはルーズベルトがサインをしたもので、あなたが話し合いをされるのは結構だが、これを根拠にしなければならない」と強調した。
 中国側は「租借」と言う言葉の使用を「歴史の恥辱」として反対し、また外蒙古の独立についても強く抵抗した。激烈な論争の末、スターリンは「租借」に関しては断念したが、外蒙古の独立問題についてはけっして譲歩しようとはしなかった。
 蒋介石の指示により、蒋経国は個人の資格でスターリンに面会し、説明した。「中国が日本に対して抗戦してきたのは失われた領土を取り返すためである。しかるに外蒙古のような広大な土地を割譲するようなことになれば、何のための抗戦かということになる。国民はわれわれをけっして許してはくれないだろう。」

 スターリンは言った。「君の話を理解できないわけではない。しかし十分了解してもらいたいのは、私が君に援助を頼んでいるのではなく、君の方が私に援助を求めているということだ。中華民国に力があり、日本を自力で追い出せるなら、私は要求など持ちだしたりしない。それだけの国力がないのに君のように言うのは、無駄口というものだ。」

 蒋は単刀直入に尋ねた。「あなたは外蒙古の独立に、なぜそれほどこだわるのか。外蒙古は確かに広大だが、人口は少なく交通も不便、ろくな産物もない。」
 スターリンは答えた。「私が外蒙古を欲する理由は、完全に軍事的観点からだ。もし軍事的力量を持った国家が外蒙古からソ連に侵攻し、シベリア鉄道を切断したら、ソ連はそれでお仕舞だ。」
 蒋は、「いま中国はソ連の要求で25年間の「友好条約」を結ぼうとしている。外蒙古からソ連に進行するような軍事的力量を持った国などどこにも存在しないではないか」と反論した。
 スターリンは答えた。「条約とは頼りにしたくても信用できないものだ。もうひとつ、中国にソ連を侵略する力がないと君は言ったが、中国が統一をし始めたら、他のどの国よりも進歩が速い」<引用終わり
(注:結局蒋介石側は泣く泣くスターリンの主張を認めた)

5.その後の外モンゴル
この結果外モンゴル支那から独立し、ソ連の衛星国になりました。そしてソ連崩壊後真に独立したので現在日本と友好関係にあります。日本にとって重要なのは、外モンゴル満洲の境界がノモンハン事件でハルハ河を越えて満州国側にはいったまま停戦されたので、現在の日本はノモンハン事件英霊のご遺骨収集ができる事です。

6.現代中共とヤルタ密約:中共ヤルタ協定の史実を避けているようにみえます。それは蒋介石が米ソの傀儡であり、支那事変ソ連のための対日代理戦争であったことが分かるからでしょう。また支那民族主義者からみると、蒋介石中共ソ連に広大な領土(外蒙古)を割譲した漢奸となります。これは余計なお世話ですが。

7.スターリンの日本復興予想と的中
蔣経国が「今度の敗戦で日本は永久におしまいですね」というと、スターリンは、「違う。日本は強力な民族だから米国が支援すれば5年、私(スターリン)が押さえても10年で復興するだろう」と述べた。スターリンは冷酷な現実主義者であり親日ではありません。事実戦後の日本は経済に限ればスターリンの予想通りとなりました。
   (東海子)


宮崎正弘の国際ニュース・早読み(台湾の老兵が北京軍事パレードに参加するのはおかしい)
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(読者の声2)貴誌前号にでた西村真悟先生の「中華人民共和国は日本が創った」への感想です。平素は西村真悟先生には感謝しています。先生のご著書の紹介について以下参考意見です。
1.中共の対日戦争勝利問題:
2.那事変の勝利者蒋介石を傀儡に使ったソ連です。支那事変のおかげで生存をかけた対独戦に専念できたからです。中共ソ連の現場代理人であり戦後支那事変のおこぼれとして内戦に勝利し支那を統一しました。蒋介石支那事変の実行犯で形式的に日本軍の降伏を受け入れましたが、ヤルタ会議でソ連外蒙古を奪われてしまいました。中共ソ連外蒙古奪取の手伝いをしたので支那人民族主義者から見ると漢奸と云えましょう。支那事変は重層的、複合的なので事情をよく知らないと欺されます。

3.中華自民共和国は、大日本帝国陸軍のお陰で誕生した。これは社会党代表団に対する毛沢東の「感謝」がもとですが、毛沢東の真意は日本に対する冷笑と嘲笑なのでよろこんではいけません。残忍な毛沢東の好きな諺は「馬鹿は大石を持ち上げて自分の脚の上に落とす」(=骨折り損のくたびれもうけ)でした。スターリンの罠に掛かった日本を馬鹿にしているのです。なお、コミンテルンというのはスターリンの手袋と言われたソ連KGBの偽装工作組織なので、独立した組織のように語るべきではありません。

4.戦前の中共とは: 1921年ソ連共産党支那支部として発足しました。資金、武器、権威、監督官をソ連に仰ぎ、祖国はソ連でした。毛沢東スターリンの承認がなければ指導者の地位を維持することは出来ませんでした。中世のローマ教皇支配体制に類似しています。

5.1930年代の中共ソ連の極東政策にしたがったものです。実際ソ連ボロディンら監督官が中共を管理していました。スターリンヒトラーが政権を取ると将来の対独戦に備え準備を始めました。内部では戦争時の権力闘争を防ぐために共産党赤軍幹部を皆殺しにしました。大粛清です。対外的には、ドイツとの東西挟撃をさせないために、東部国境の反共勢力の蒋介石と日本を戦争させ無力化を図りました。それが支那事変となります。

5.西安事件中共:その工作の発端は1936.12の西安事件です。ここで西安に会議に出張した蒋介石は部下の張学良に裏切られ生け捕りにされ降伏しました。このとき蒋介石スターリンに決定的な弱みを握られました。裸にされ写真を撮られたのではないかと思います。スターリンはじめから蒋介石を生かして使うつもりでした。中共毛沢東周恩来スターリンの指示に従って動く現場管理人でした。なおスターリンはその後、支那事変ソ連工作員をモスクワに召喚し日本のスパイとして処刑しています。口封じです。

6.ヒトラーの戦略:彼が蒋介石国共内戦を支援したのはソ連を挟撃する準備でした。だから支那事変勃発後も日本との講和を仲介しました。いわゆるトラウトマン工作です。しかし蒋介石が講和に乗らないことから、スターリンの手に落ちたことを察知し、1938.8にはドイツ軍事顧問団を全員帰国させました。俗説のヒトラー蒋介石支那事変をやらせた論は間違いです。というのは蒋介石支那統一の五分前にあり、対日戦争は百害あって一利無し、だからです。蒋介石が何故自分の損をする対日戦争をしかけたのかが支那事変の鍵です。それは満州事変ではなく西安事件です。

7.盧溝橋事件の理解:西安事件後、ソ連蒋介石に3億ドルの軍事借款を与え、蒋介石盧溝橋事件の前には半年かけてすでに厖大な対日戦の準備を完了しました。そして挑発を開始したのです。その目的は日本人を激昂させ判断力を奪うことと欧米に蒋介石の開戦責任が分からなくするためと思われます。これは成功しました。なお近代戦は補給線であり偶発や突発はない事を知っておきたい。したがって中共が日本と蒋介石軍の双方に撃ちかけたという俗説はあり得ません。近代戦はヤクザの出入りではない。これらはすべて極秘裏に周到に準備されて行われたものです。「政治事件に偶発はない、すべては準備されている」ルーズベルト

8.重慶政府:支那事変中、重慶蒋介石の政府がありましたが、そこにはソ連ボロディン中共周恩来が詰めており、蒋介石を監視していました。しかし蒋介石は自分が損する戦争をやりたくないので、戦意が低く、米国は困って、一時中共と接触しました。毛沢東は武器さえもらえば日本海から日本本土に上陸すると言ったそうです。これは蒋介石と米国共和党の反対で実現しませんでした。

9.戦後:蒋介石が「恨みを恩で返す」といったのは、降伏した日本軍が中共軍に参加しないように早期復員を勧めるためでした。ですから真に受けてはなりません。そして毛沢東ソ連から兵器をもらい満洲から国共内戦が再開します。中共ソ連の手下であり、現在のような対等の地位にはなかったことを確認したい。

10.朝鮮併合の理由は対ロシア自衛:日本が李氏朝鮮を併合したのは、朝鮮がロシア帝国の手先となり、日本攻撃をする可能性があったからです。日本の朝鮮統治善政論は事実だが、日本は朝鮮人の生活向上のために超大国ロシアと国家の生存を賭けて戦ったわけでない。あくまでも日本の生存のためです。「国家の生存を欠けて経済植民地を争う国はない」と覚えたい。したがって日本の李氏朝鮮併合は正当な自衛でした。戦後の日本人の対朝鮮罪悪意識は欺されているのである。
 マキャベッリは「隣国を助ける国は滅ぼされる」と述べています。日本は朝鮮を開発せず李氏朝鮮の原始的なままにしておくべきでした。いま北朝鮮は核大国となり日本に牙をむいています。
   (東海子)