リンカーン

『偉人リンカーンは奴隷好き』高山正之

 朝日新聞オバマがよほど好きみたいだ。
 先日の論説委員コラムは「オバマの尊敬するリンカーン徳川家茂に宛てた書簡があった」という、それがどうしたみたいな話を載せていた。
 書簡は南北戦争のさなかに書かれ、そのすぐ後に彼は奴隷解放を宣言している。それから百五十年、いまオバマ大統領が登場した。家茂から現代までの年月と重ねてみて「これを長いと見るか短いと見るか」とコラムは問う。
 問いがよく分からない。
 だいたい百五十年前まで奴隷を使っていたこと自体、米国は恥ずかしいほど遅れていた。
 やっと奴隷制をやめてなお、百五十年間も人種の壁を崩さなかったのは正気の国とも思えない。
 奴隷制を憎んでその歴史ももたない日本と重ねたら、なおさらこの国のお粗末さが際立つだけだ。
 このコラム子はそれも分からずに、あたかも米国がいい国のように語る。
 この国の正体は百五十年前を見ただけではだめだ。遡ってメイフラワー号でやってきた清教徒の時代から見なければならない。
 彼らは知られるようにワンパノグ族の酋長マサソイトが恵んだ食糧で冬を越す。感謝祭の謂れだが、よさそうな話にはけったいな続きがある。
 七面鳥で元気になった新教徒らは酋長の死ぬのを待って彼らの領土を奪い始める。抵抗した息子は殺され、その首は二十年間プリマスの港に晒された。
 彼の妻子と一族もまとめてカリブの奴隷商人に叩き売られた。
 土地を手に入れた新教徒は働き手と妻を最寄りの奴隷市場に買いにいった。
 奴隷市場は実はメイフラワー号が着く一年前に店開きしていて、最初の売り物は百四十人の英国産の白人女囚だった。
 新大陸はまず男どもが入植したから圧倒的な女日照りだった。それで英政府は万引き程度の罪でもみな島流しを宣告して新大陸に送りこんだという。
 女が行き渡ると市場の主商品は黒人になった。
 こちらも当初は開墾だとかの力仕事に耐えられる男の奴隷が主だったが、やがて女の奴隷も入れるようになった。
 輸入に頼らず、国内で繁殖させればコストは安上がりになる。
 ちなみに独立宣言を起草したトーマス・ジェファーソンは黒人女性サリー・ヘミングスを隠し妻にしたことで知られるが、彼女は正確には八分の一の黒人混血児だった。
 つまり繁殖用に輸入された曾祖母がまずブリーダーの白人に犯され、生まれた娘がまた白人に犯され、孫も犯されてサリーが生まれたということだ。
 彼女がずっと隠し妻だったのは当時、黒人女性など有色人種と白人が性交すること自体が罪とされていたからだ。
 それでもジェファーソンは「人は等しく創造され、生命と自由と幸福追求の権利を持つ」と書いて恥じるところがなかった。
 こうした裏切りや悖徳が山と積まれたころ、リンカーンが登場する。
 彼は確かに黒人奴隷制の廃止を宣言した。
 いかにも人道的な人のように見えるが、この宣言に前後して彼はダコタ族の討伐命令を下し、その処刑まで命じている。
 発端は白人側の裏切りで、土地を取り上げた代償の食糧品などが粗悪を極めた。怒ったダコタ族が決起すると、待ってましたと騎兵隊が殺到して全滅させた。いつもの手口だ。
 このときは法に則って裁判を開いたというが、たった五分で結審して三百人のダコタ族に死刑判決が下された。ミネソタ版の東京裁判といっていい。
 リンカーンはそれを支持した。人道的というにはほど遠くないか。
 奴隷廃止も額面通りではない。米国は国際世論がうるさい黒人奴隷に替わる格安の中国人苦力をとっくに見つけていた。実際、ペリー来日前に米の奴隷船から苦力が石垣島に逃げ込み、ペリー艦隊の戦艦サラトガが砲撃、上陸して逃亡した苦力をみな殺しにしている。
 コラムはリンカーンの性格は筆跡からきっと「正直に違いない」と見る。そして日本に書簡を認めるとき「どんな日本を思い浮かべたのだろう」と結ぶ。
 同じモンゴロイドのダコタ族を虐殺し、苦力を代替奴隷に使う白人大統領が日本人をどう思っていたか、コラム筆者は想像がつかないのだろうか。(p83)


アメリカはどれほどひどい国か』日下公人 高山正之

 高山 興味深いのは、アメリカ人は、黒人に対しては奴隷扱いして接する一方、インディアンに対しては即、殺戮を始めたことです。
 この違いは何なのか。ピルグリム・ファーザーズ(アメリカに渡った英国のピューリタンたち)はメイフラワー号でアメリカに着いたのち、ワンパノアグ族のマサソイト酋長らに命を救われて冬を越し、感謝祭を祝いました。
 ところが、マサソイトの子供の代になると、跡を継いだ長男がニュー・プリマスという白人の町に呼びだされ、殺されてしまう。
 さらに、ピルグリム・ファーザーズは次男も殺して、その首を自分たちの町に二十年間、晒しつづけ、彼の妻や子、部族のすべてをカリブの奴隷商人に売っ払っています。
 以来、アメリカ人はモンゴル系のインディアンを見るなり殺していきます。やがて誰もいなくなったので、黒人奴隷を入れることにした。黒人は奴隷として使い、インディアンは存在すら許さない。アメリカのこの人種観を忘れてはいけません。(p58)


リンカーン大統領は人種差別主義者だった!?:岩田温の備忘録
http://blog.livedoor.jp/leostrauss/archives/42691240.html

 確かに、彼は「奴隷解放宣言」をした大統領であり、その事実を否定することは出来ない。
 しかし、彼は人種差別を否定していたわけではない。奴隷制度には反対していたが、リンカーンは人種差別主義者、レイシストだった。私は、『人種差別から読み解く大東亜戦争』を執筆するために、リンカーンに関する幾つかの書籍を読んでみたが、彼は驚くような発言をしている。


「私は、白人種と黒人種の社会的、政治的平等を実現させようとしていないし、これまでしてきたこともない。黒人を有権者陪審員にしたり、公務に就かせたり、白人と結婚させたりするつもりはないし、これまでもそうしてこなかった。…(略)…私の意見では、両人種が手を携えて社会的、政治的平等を享受することはできない。だからこそ、両人種が共に暮らす限り、上位と下位という二つの立場が生まれ、皆と等しく、私も白人が上位を占めることを支持している」


 これはどこかの極端に偏屈な人物の発言なのではない。奴隷解放の父と言われるリンカーンの発言なのだ。彼は、明らかに肌の色で政治的、社会的差別をすることを肯定している。
 奴隷制度に反対する人であっても、人種差別を当然のこととして捉える。人種差別の問題は、実に根深いのだ。
 我々は人種差別を異常なことだと感じるし、理不尽だと思う。これは真っ当な感覚だ。しかし、我々の父祖が大東亜戦争を闘っていた当時、未だに人種差別は横行していた。  人種差別に対する日本人の憤り。
 この問題を無視して大東亜戦争を語ることは不可能だ。
 詳しくは、『人種差別から読み解く大東亜戦争』を参照して欲しい。


アメリカ史』紀平英作 編

 リンカーンはまた一八五七年六月にイリノイ州スプリングフィールドでおこなった演説では、奴隷制反対と黒人反対という二つの主張を無媒介にならべるのではなく、意味的に関連づけるかたちで論じている。この演説のなかでリンカーンは混血の問題をとりあげて、「白人と黒人のあいだの見境のない混血にかんしては、ほとんどすべての白人の心のなかに生まれながらの嫌悪感がやどっています」と述べている。そして国勢調査の数字をもちだして、北部白人と自由黒人のあいだで混血が生じるのはむしろ珍しいことであり、混血はもっぱら白人・黒人両者のあいだに明確な身分上の区別が存在する南部奴隷制下の主人と奴隷のあいだの現象であることを指摘して、奴隷制反対の立場と、混血反対(黒人反対)の立場とを意味的にリンクしてみせた。また同じこの演説のなかでリンカーンは、人種の分離こそが混血をふせぐ唯一の完璧な方法であり、この人種分離を効率的におこなうには、黒人植民しかないと結論づけたのであった。(p170)


 内戦の結果、奴隷がすべて解放されたこと(一八六五年一二月、合衆国憲法修正第一三条で確定)から、北部にとっての南北戦争の戦争目的が、はじめから奴隷解放におかれていたように思われるかもしれないが、これは誤解である。先のリンカーンの就任演説は、奴隷州の奴隷制度には介入しないことを公言していたし、開戦後開かれた連邦議会の特別会期でも、ジョン・J・クリッテンデンの提出した決議によって、「離脱諸州の奴隷制は軍事行動の対象にならない」ことが確認された。
 南北戦争前の北部においては、奴隷制は道徳的に悪であるとする考え方は強かったが、それをどのようにしてなくすのかについては、多くの人々ははっきりとした見通しをもっていなかった。また、奴隷制というより、それに依拠して連邦政治を壟断する「奴隷主権力」への警戒や、自由な労働者でない奴隷そのものへの嫌悪感も強かった。さらには、当時、北部にはごく一握りの自由黒人が存在していたが、彼らは選挙権をはじめ市民生活にかかわるさまざまな分野で、厳しい差別を受けていた。つまり奴隷や黒人への蔑視と嫌悪は、一部の例外を除けば、北部でもごく一般的な感情であった。
 したがって北部の大方にとって、黒人奴隷を解放するために自らが血を流して戦うことなど、およそ考えられないことであった。(p177)


 では、リンカーンはそもそも、奴隷制奴隷解放そのものについてはどのように考えていたのか。彼は、奴隷制は道徳的に悪であり、奴隷はいずれは解放されるべきと考えていた。解放の方法については、漸進的な有償解放を進め、解放された奴隷たちを中央アメリカのどこか適当な場所に入植させる構想をいだいていた。
 一八六二年にはいってなによりリンカーンの脳裏を去来したのは、いかに軍事情勢を好転させるかということだった。そのまま戦局が推移すればイギリスやフランスの干渉を招き、南部連合の独立の承認というたえがたい条件をのまされることになる。こうして彼にとっての至上命令である「連邦の維持」はもろくくずされることになる。戦局を好転させるためにありうる唯一の戦略は、じつは奴隷の解放であった。
 これをすれば、奴隷解放を求める内外の声に応え、「南北戦争=人道のための戦争」として世界の世論を味方につけることができる。とりわけ、ヨーロッパでは世論の力によって、イギリスやフランスの干渉の手を縛ることができるであろう。しかし、おそらくそのことと同様に重要であったのは、南部の黒人奴隷の動向であった。解放宣言をだせば、奴隷たちは奔流となってプランテーションを脱出し、北軍のもとに押しよせるであろう。奴隷の大脱出は南部社会・経済の根幹を破壊し、南軍の戦争遂行能力に決定的打撃を与える。それだけではない、これら脱走奴隷を北軍の兵士や労働者として使役すれば、戦力は飛躍的に高まる。いずれにせよ、奴隷解放は連邦を守るための、自他ともに認める「軍事的措置」であった。(p182)


『この一冊でアメリカの歴史がわかる』猿谷要

 後に世界の先進国といわれるような国のなかで、この時まで奴隷制度を国内に、しかもこれほど大規模に維持してきた国は、他に一つもない。これもまた、アメリカという国の大きな性格といわなければならないだろう。(p100)


 南北戦争後、黒人は本当に解放されたのか?
 奴隷解放の理想と現実――そして何も変わらなかった?

 南北戦争が一八六五年四月に終ってすぐ、目に見える大きな変化は、黒人が奴隷という身分から解放されたことだった。
 南部各州に北部の軍隊が進駐して軍政を実施している間に、解放された黒人たちの地位を保証する法令が次つぎに出された。
 まず六五年末に憲法修正第十三条によって自由を確認され、六八年の修正第十四条では黒人の市民権が、七〇年の修正第十五条では黒人の選挙権がそれぞれ承認された。
 これだけみると、解放された奴隷たちがいまや奴隷ではなくなり、数年の間に白人とまったく同じ権利をもつようになったと思われるかもしれない。事実、七〇年前後には南部の州議会のなかに、何人もの黒人議員が誕生している。
 しかし解放されたばかりの黒人には、財産というものがまったくなかった。ずっと後の小説『風と共に去りぬ』で描かれているように、北軍のシャーマン将軍はアトランタを占領して火を放ち、ジョージア州で略奪を続けて南部人を震え上らせたが、この将軍は奴隷たちが自立のための土地を欲しがっていることを知り、一人四〇エーカーの土地を与えるという戦時特別命令を出して黒人たちに大きな期待を抱かせた。
 しかし戦争が終ってみると、その約束はわずかな間だけの虹のように消え去ってしまった。南部の黒人たちはまた元のプランターたちの綿花畑に戻り、シェアクロッパー(小作人)として働く以外に道はなかった。土地と小屋、それに農機具、燃料、家畜、飼料、種子などを主人から借りて、収穫の半分を提出するという制度だった。
 白人の農園主もまた労働力を必要としていたから、奴隷時代より少しはまし、という程度の生活が始まり、黒人たちは「奴隷制だって自由だってほとんど同じ」と歌いながら、綿花畑で仕事をしていたという。…
 それから黒人たちの”失望時代”が始まるのである。つまり、南部の”ホーム・ルール”が復活したのだ。ちなみにこの一八七七年というのは、日本で明治新政府が不満勢力を一掃した西南戦争の年である。

 なぜ「黒人差別」が広まったのか?

 この頃から南部各州では、黒人への差別を合法化する動きが目立った。
 たとえば「ホテルやレストランの経営者は他の客に不快な気持を与えるような者は客として取り扱わなくてもよい」というような法律は、表面上黒人差別を表現しないで、実際には差別を行う巧妙な手段として利用された。
 こういう手段が堂々と認められたのは、一八八三年の最高裁判決である。その内容は、黒人に市民権を与えた憲法修正第十四条より、各州の権限の方を優先させるというもので、最高裁がこういう判決を下すようでは、黒人に対する差別が南部で是認されたというしかない。
 この結果、南部では生活のあらゆる面にわたって、「ホワイト・オンリー」と「カラード」という分離が一般化した。「ホワイト」に対して「ブラック」といわず「カラード」と表現しているのは、一滴でも黒人の血が混った混血は、すべて黒人として扱われたからである。
 そして、黒人と白人の結婚は禁止され、学校も交通機関も教会もホテルもレストランも、みな白人用と黒人用に分離された。公園の水のみ場やトイレまでも、である。
 最高裁はさらに追い打ちをかけた。一八九六年の「分離はしても平等に」という判決である。現実の問題として、白人用と黒人用に分離すれば、平等ではありえない。白人の学校は立派だし、黒人の学校はいかにもみすぼらしい。しかし矛盾に満ちたこの判決は、ずっと後の一九五四年に最高裁によって否定されるまで続き、南部の生活様式として定着したのだった。
 このように差別が合法化される一方で、黒人に対するいわれのない暴力もまた凄まじいものがあった。
 戦争が終った年の暮れに、敗軍の元将校たちがテネシーで結成した秘密結社のクー・クラックス・クラン(Ku Klux Klam)をはじめ、各種の結社が次つぎに生まれ、黒人や北部人などを脅かした。
 黒人がリンチにあって殺された数は、一九世紀末から二十世紀初めにかけての約三十年間がとくに多く、一年間に百人以上が殺されているし、仕返しを受けて白人もまた殺されている。…
 十九世紀末から一九三〇年頃にかけて、全米には黒人が劣等人種であることを正当化する説が広まった。学者、ジャーナリスト、科学者などでこの説に同調した者も少なくない。
 いわば白人優越の人種主義(racism)が当然のように横行した時代であり、一九〇六年にサンフランシスコで起ったアジア系学童の分離問題も、こういう時代背景と決して無縁ではなかったのである。(p106)


 西部への進出――追い詰められた先住民の運命は?
 一八七一年、先住民迫害の法律が……

 こういう人種差別の態度が、先住民インディアンに対しても十分に発揮されたのはいうまでもない。
 南北戦争が終ると、人びとの関心は再び西部へ向けられた。私たちがかつて見てきたハリウッド製作の西部劇映画は、大部分が南北戦争以後の時代を取り扱ったものだった。そして私たちは長い間、先住民は白人の西部開拓を妨害する野蛮な未開人というイメージを、ハリウッド映画を通じて与えられてきた。
 その映画が劇的な変化をみせるようになるのは、一九七〇年の「ソルジャー・ブルー」からである。なぜ一九七〇年に、という問題は第五章で触れることにするが、この映画の内容は、南北戦争中の一八六四年、コロラド準州民兵たちが、休戦の約束を破って先住民を襲撃し、子供の首をはね、女を犯して殺し、残虐の限りを尽して引き上げた実際の事件を再現してみせたものである。
 南北戦争の最中でもそうだったのだから、戦争が終って開拓農民が西へ向かうフロンティアの他に、カリフォルニアから逆に東へ広がる鉱夫や山師たちのフロンティア、それにテキサス南部から牛の大群を北へ運ぶカウボーイたちのフロンティア、つまり農場、鉱山、牧場という三種類の進出が、たちまち先住民たちを追い詰めることになったのだ。(p110)


『物語 アメリカの歴史』猿谷要

 南部各州はこういう判決に守られて、レストラン、ホテル、学校、列車、裁判所など、市民生活のあらゆる面で黒人差別を合法的に行うようになった。
 そればかりか、黒人への暴力は年を追って増加する。KKK(クー・クラックス・クラン)のような暴力団体は南北戦争直後から組織されているが、両人種間のリンチによる死者の数は九二年に二五五人と最高を記録し、一八八五-一九三〇年間の州別リンチ数はジョージアの四五七人を筆頭に、ミシシッピ四四九人、テキサス三四五人、ルイジアナ三四〇人と続いている。記録に残らない負傷者の数は、優にこの一〇倍を越えるだろう。
 信じ難いことだが、黒人に対するリンチがあらかじめ予告され、女性や子供まで見て楽しむために集まり、木に吊された奇妙な果実の死体から、心臓や肝臓の薄切りをみやげに持ち帰ったという。
 黒人女性アイダ・バーネットの『暴徒の支配』はこういう記事で満ちている。彼女は終りに次のように書いているのだ。
 「アメリカのみなさん、あなた方の沈黙は、自分たちはこれを誇りにしているのだといっているように思えます。あなた方の沈黙は、恐ろしいこの種のことがつづいて起るのを奨励しているのです」(p118)