僭称者

『悪霊(下)』ドストエフスキー 江川卓

 ところで、こうして新たに書きはじめられた長編のテーマは、題銘(エピグラフ)にかかげられたルカ福音書の記述に尽されていた。つまり、西欧から移入された無神論革命思想を、聖書に言われている「悪霊」に見たて、それに憑かれたネチャーエフその他は湖に溺れ死に、悪霊がはなれて病癒えた男、すなわちロシアは、イエスの足もとに坐しているというのである。これはドストエフスキーが親友アポロン・マイコフにあてた手紙で明言しているところであり、作家がすくなくとも主観的にはこのテーマを実現したい抱負をもち、新しい主人公スタヴローギンをその「病癒えた男」に擬そうとしていたことは疑いがない。
 しかし、創作を進めるにつれて、この構想のいわば観念性はしだいに明らかになっていった。まず、ネチャーエフを頭目とするいわゆる「悪霊」を、たんに豚にはいって溺れ死ぬだけの存在と見ることへの疑問がきざした。ドストエフスキーは、ルカ福音書の言葉と並んで、プーシキンの同名の詩を同じく題銘として掲げたが、ここに歌われた悪霊たちは、古代ロシアの異教の神々が外来のキリスト教に圧迫されて落ちぶれた姿であり、悪の権化というより、むしろ土着ロシアの怨念の化身であった。ということは、作中の悪霊たちについても、ドストエフスキーがロシア・フォークロアに根ざしたある種の市民権を認めたことを意味する。そして、このことを裏書きするように、作家はピョートルの口を通して、主人公スタヴローギンをロシア・フォークロア生えぬきの人物、いわばロシアの桃太郎ともいうべきイワン皇子になぞらえるのである。
 もっとも、『悪霊』の真の悲劇性は、このイワン皇子がついに出現しない点にあった。ロシアに伝わる聖母信仰を象徴するような人物マリヤ・チモフェーヴナは、スタヴローギンが真の救世主イワン皇子ではなく、実はたんなる《僭称者》でしかないことを見破ってしまう。なるほど、二年前、ペテルブルグの裏街でのスタヴローギンは、けっして分裂した存在ではなく、国民が神であるというシャートフと、人が神になるというキリーロフの双方を同時に生み出しうるほどの強烈な個性であり、善悪美醜の基準を「喪失」したのではなく、むしろそれを超越した生命力そのものであったかもしれない。しかし現実のスタヴローギンは、リーザとの一夜をさえ不毛に終らねばならない「贋物」であり、そのことを洞察するマリヤに殺意(ナイフ)をいだく僭称者にしかすぎないのである。こうして彼は、チホン僧正のいう「退屈と無為」の刑を運命づけられ、最後には明晰な意識をもって自殺の道を選ばなければならない。(p749)