自由貿易帝国主義

『図説 イギリスの歴史』指昭博

 帝国を背景に、大西洋を挟み、西インド諸島―西アフリカ―イギリスを結んで展開した貿易を「三角貿易」という。イギリスから西アフリカへは、布や日用雑貨、武器などが輸出され、黒人奴隷と交換された。さらに、奴隷を西インドやアメリカ大陸の奴隷制プランテーションなどに売り、代わりにそのプランテーションで栽培された砂糖やタバコ、綿花などを仕入れて、イギリスにもたらした。ロンドンをはじめとして、リヴァプールブリストルがこういった貿易の港町としてその繁栄を謳歌した。この貿易構造が、この時期から本格化し始めるイギリスの産業革命を支え、促進することになり、海外からもたらされた品物は、人々の生活の在り方をも変えていくのである。(p91)


 第二次英仏百年戦争の過程で植民地を拡大していったイギリスであるが、ナポレオン戦争でも海外領土を得るなど、その後も植民地獲得の動きは止まらなかった。一九世紀の半ばまでには、ニュージーランド、オーストラリア、カナダで新たな植民地を築き上げてその領域を拡大し、インドでも、その周辺地域にまで支配を広げていった。……
 さらに、直接的な植民地支配ではなく、自由貿易の名の下に、経済的に弱体な地域を実質的な支配下に収める「自由貿易帝国主義」が、この時期のイギリスの植民地政策の基調にあったことも広く認められている。中南米の旧スペイン植民地への影響力はすでに触れたが、こうした自由貿易の押しつけのもっとも露骨な現れが、中国でのアヘン戦争であった。(p112)


 イギリスにおける喫茶習慣の定着により中国からの茶葉の輸入は増え続け、対清朝貿易赤字は膨らむ一方であった。中国との自由貿易はかねてよりの懸案であったが、幾度かの交渉にもかかわらず、その門戸は閉ざされたままであった。そこで、インドで生産させた麻薬のアヘンを密輸することで、貿易収支の改善を図ったのである。これに対し、清朝が禁制品であるアヘンを摘発し、焼却処分にすると、それを口実に一八四〇年にイギリスは清に宣戦布告した。その海軍力で沿岸の諸都市を攻撃して中国を圧倒し、一八四二年の南京条約で五つの港を貿易港として開かせた上、香港を割譲させた。(p112)