千の目標と一つの目標

ツァラトゥストラはこう言った(上)』ニーチェ 岩波文庫

 ツァラトゥストラは、多くの国と多くの民族を見た。そして、多くの民族の善と悪とを発見した。ツァラトゥストラは、地上において、善悪ほどに大きな力を持つものを見なかった。
 まず善悪の評価が必要である。それによって民族は生きてゆくことができる。しかし、およそ存続するためには、その民族は隣りの民族が評価するとおりに、評価してはならない。
 ある民族に善と思われた多くのことが、他の民族には嘲笑に値いし、恥辱とされた。それをわたしは見た。ここで悪と呼ばれた多くのものが、あちらでは真紅の光栄に飾られているのを、わたしは見た。
 隣国どうしが理解したためしはなかった。かれらはおたがいに隣国の妄想と悪意とを、いぶかしく思っていた。
 どの民族の頭上にも、善のかずかずを刻んだ石の板がかかげられている。見よ、それはその民族が克服してきたものの目録である。見よ、それはその民族の力への意志が発した声である。
 その民族が困難だと考えるもの、それは、その民族にとって讃えらるべきものである。不可欠であるが、手にいれるのに困難だというもの、それが善と呼ばれるものである。そして危急存亡のせとぎわから救ってくれるもの、稀有なもの、このうえなく困難なもの――それが、その民族によって聖なるものとして讃えられるものである。
 民族を支配と勝利と光栄にみちびき、隣国にとっての恐怖と嫉妬の的にさせるもの、それがその民族にとっての高いもの、第一のもの、すべての尺度であり、意味なのだ。
 まことにわが兄弟よ、あなたがまず、ある民族の持つ困難と、土地と、天候と、隣国を知ることができたら、あなたはおそらくその民族の克己の法則を推測することができるだろう。また、なぜその民族が、この梯子によって自分の希望するところにのぼってゆくかをも推測できるだろう。……
 まことに、人間はそれをはたから受け取ったのではなく、どこかで拾ってきたのでもない。それは天の声として、かれらに降ってきたのでもない。
 自己を維持する必要上、人間が事物のなかに、はじめて価値をさしいれたのだ。――人間が事物に意味を、人間的な意味をはじめて与えたのだ! だから、かれは「人間」と呼ばれるのである。すなわち「評価する者」と。
 評価することが、創造することなのである。よく聞きなさい、あなたがた創造する者よ! 評価そのものこそ、この世で高く評価され珍重される宝にもまさる宝である。
 評価によってはじめて価値が生じる。評価がなければ、存在の胡桃はうつろであろう。よく聞きなさい、あなたがた創造する者よ!
 もろもろの価値の変化、――それは創造者が変化するからである。創造者になる運命を持った者は、つねに破壊せずにはやまない。
 はじめはもろもろの民族が創造者であったが、のちになってようやくもろもろの個人が創造者となった。まことに、個人そのものは、きわめて最近の産物である。
 かつてはもろもろの民族が、善を刻んだ石の板を、みずからの頭上にかかげた。支配しようとする愛情と、従おうとする愛情、それが結びついて、そのような石の板をつくりだしたのだ。……
 善と悪とを創造した者は、つねにかの愛情によって創造した者であった。愛情の火と怒りの火が、あらゆる徳の名において、燃えているのだ。
 ツァラトゥストラは、多くの国と多くの民族を見た。しかしツァラトゥストラは、かの愛情ある者の創作物よりも大きな力を持つものを、この地上に見いださなかった。創作物の名は、「善」と「悪」である。
 まことに、この善の賞讃の力、悪の非難の力は怪物である。さあ、言ってごらん、わが兄弟よ、誰がこの怪物を制圧してくれるだろうか? 誰がこの怪物の千の頸にくびきをかけるだろうか?
 千の目標が、従来あったわけだ。千の民族があったから。ただその千の頸を結びつけるくびきだけが、いまだにない。ひとつの目標がない。人類はまだ目標を持っていない。
 だが、どうだろう、わが兄弟よ、人類にまだ目標がないのなら――人類そのものもまだなりたっていないというものではなかろうか?
 ツァラトゥストラはこう言った。(p95)