インドのカースト制

『世界史の実験』柄谷行人

 近年、私は柳田が述べたことをあらためて考える機会があった。それは、インドの小説家モハッシェタ・デビの『ドラウパディー』(現代企画室)を読んだからである。臼田雅之は「解説」でこう書いている。

 部族は主に山地に住み、伝統的には焼畑農業を営み、ヒンドゥー化もムスリム化もせず独自の宗教体系をもっていた人々である。インドは十九世紀まではフロンティアのある世界であり、平地のヒンドゥー社会が徐々に拡大し、山地の部族を取り込んでいった。中世以降は部族の首長層はクシャトリアとして編入され、それ以外の部族民は不可触民として、ヒンドゥー社会の最下層に繰り込まれた。部族は固有の文化をもってヒンドゥー社会に繰り込まれたから、結果的にヒンドゥー社会を豊かにすることになった。またベンガルでは主要な農業カーストは不可触民であり、生産を担う重要な役割をはたしていた。しかしそれにしては、その社会経済的な地位は劣悪であった。(中略)その結果、部族の土地は狡猾なディックゥ(平地から来たよそ者)の手に落ちていった。植民地時代に部族民が何度も激烈な反乱をおこしている理由は、ここにあった。弓矢を手に果敢に闘い鎮圧された部族反乱の典型が、一八五五年のサンタル族の反乱であった。

 一般に、バラモン、クシャトリア、ヴァイシャ(平民)、シュードラ、不可触賤民というインドのカースト制は古代に形成されたものだと考えられている。むろん、それを一概に否定することはできないが、次の事実を見落としてはならない。近年にいたるまで、今日的な意味でのカースト制は平地の国家的社会を中心に機能をしていただけで、インドの大半を占める山岳地域では存在しなかったのである。私が特に興味をもったのは、一九世紀になって、それまでの山地民の中で、首長層がクシャトリア(武士)となり、残りが不可触賤民となったという指摘である。柳田国男がいう「兵農分離」とはそのようなものだ。彼がそれを《後にも先にも比類を見ないほどの悲惨なる大革命》と見なしたことは、インドの文脈に置いて見ると、誇張でないことがわかる。
 平地インドのカースト制は、イスラム教のムガール帝国の時代に流動化の傾向をみせたのだが、イギリスが東インド会社を通して入り込んできて以後、強固に再編されたのである。東インド会社は、インド社会をヒンドゥームスリムに二分し、さらにヒンドゥーカーストによって細分化して把握した。この考えは、その後にインドを支配したイギリスによって"現実化"された。つまり、インド人自身もそう信じるようになったのである。臼田雅之はいう。

 こうしてイギリス支配に先立つ地方国家の時代に進行していた宗教やカーストを横断する統合の動きは、ブレーキがかけられることになった。これは宗教・カーストにかかわらない社会形成を阻害するものであったから、近世的反動と呼んでもおかしくはない措置であった。以降、イギリスはみずからその固定化を図った宗教やカーストによって、インド社会は分断化されていると決めつけ、前近代的な段階にあると規定した。さらには翻って、そうした「野蛮」なインドを文明化することが自分たちの使命であると、植民地支配を正当化する言説を作りあげていったのである。(中略)対立する宗教、カースト制度によって社会が分断されているから、その調整役として「他者」であるイギリス政府が必要とされる――こうした植民地政府の存在理由のために、ヒンドゥームスリムの分断とカースト制度は、近代になっても維持・温存されたといえよう。(『近代ベンガルにおけるナショナリズムと聖性』東海大学文学部叢書、二〇一三年)

 インドでは、古い伝統的制度だと思われているものの多くが、近世以後に、しかも、イギリスの統治とともに始まったことに注意すべきである。例えば、寡婦の再婚が許されない慣習がある。しかし、これは本来、バラモンに限定された慣習であった。《寡婦再婚禁止は寡婦を遊ばせておく余裕を示すことで、上位カーストにとってはステイタス・シンボルでもあったのである》。(p136)