リヴァイアサン――自然状態について

『世界の名著23 ホッブズ

人間は本来平等である

 《自然》は人間を身心の諸能力において平等につくった。したがって、ときには他の人間よりも明らかに肉体的に強く精神的に機敏な人が見いだされはするが、しかしすべての能力を総合して考えれば、個人差はわずかであり、ある人が要求できない利益を他の人が要求できるほど大きなものではない。たとえば肉体的な強さについていえば、もっとも弱い者でもひそかに陰謀をたくらんだり、自分と同様の危険にさらされている者と共謀することによって、もっとも強い者をも倒すだけの強さを持っている。
 また精神的諸能力にかんしては、〔ことばにもとづく諸技術、とくに学問と呼ばれるところの一般的で誤りのない規則にもとづいてことをすすめる抜術──これは少数者が少数のことについて持っているにすぎない。なぜならそれは生得の能力ではなくまた〔深慮のように〕他のものを求めているあいだに修得されるといったものでもない──を除くとすれば〕肉体的な強さのばあい以上の平等を見いだす。
 たとえば深慮にしても、それは経験にほかならず、等しい時間ある仕事に等しく専念したことについてはすべての人に等しく与えられる。この平等性を信じがたいものとするのは、おそらくは人が自己の知恵についていだく自惚れである。大部分の人間は、自分を自分以外のほんの少数の、名声があるとか自分と意見が一致するとかによって是認している人々を除く他の一般大衆に比べて、自分ははるかに知恵をいだいていると考えている。
 つまり多くの人が自分より知力に富み、雄弁で知識があることを認めながらも、しかもなお、自分と同じ程度に賢明な人間がおおぜいいると信じようとしないのが人間の本性である。自分の知力は手近に、しかし他人のそれは遠くに見る。しかし、これは人間がその点において不平等であるよりは平等であることをむしろ証明している。すべての人がその分け前に満足しているということほど、平等な配分を示す大きなしるしはふつうはない。(p154)


平等から他にたいする不信が生じる

 この能力の平等から、目的達成にさいしての希望の平等が生じる。それゆえ、もしもふたりの者が同一の物を欲求し、それが同時に享受できないものであれば、彼らは敵となり、その目的〔主として自己保存であるがときには快楽のみ〕にいたる途上において、たがいに相手をほろぼすか、屈服させようと努める。すなわちつぎのようなことがいえる。侵入者にとって相手の単独の力以外に恐れるもののないところでは、ある人が植え、種子をまき、快適な屋敷をつくりあるいは所有すると、他の人々が力を結合してやってきて、彼の労働の成果だけではなく彼の生命あるいは自由までも奪おうとすることが、おそらく予期されるであろう。そしてその侵略者自身がまた他からの同様な危険にさらされる。(p155)


不信から戦争が起こる

 このような相互不信から自己を守るには、機先を制するほど適切な方法はない。すなわち力や策によってできるだけすべての人間の身体を、自分をおびやかすほど大きな力がなくなるまで支配することである。それは自己保存に必要な程度のことであり、一般に許される。
 また人によっては、自己の安全のための必要を越えて征服を追求し、征服行為における自己の力を眺めて楽しむ者がある。したがって、もしそのようなことがなけれぱ謙虚に限界のなかで安楽を楽しむであろう他の人々も、侵略によって自己の力を増大させないかぎり、守勢にたつだけでは、長く自己を存続させることができなくなる。であるから、他にたいする支配の増加は自己保存のために必要であり、許されるのが当然である。
 また、すべての人間を畏怖させうる権力のないところでは、人間は仲間をつくることになんの喜びも感じない〔どころか、逆にひじょうな悲哀を覚える〕。というのは人間はだれしも自己評価と同じ高さの評価を仲間に期待する。そして軽蔑とか過小評価とかのどのようなしるしに出あっても、彼らには害を与え、また他の者にはこれを見せしめにすることによって、彼らからより大きな評価を引きだそうと努力する。〔そしてそれは、双方をしずめる共通の権力がないばあいには、たがいに相手を滅亡させるに十分なのである〕
 すなわち、人間の本性には、争いについての主要な原因が三つある。第一は競争、第二は不信、第三は自負である。
 第一の競争は、人々が獲物を得るために、第二の不信は安全を、第三の自負は名声を求めて、いずれも侵略を行なわせる。第一は、他人の人格、妻、子ども、家畜の主人となるために、第二は自分を防衛するために、いずれも暴力を用いさせる。第三は一語、一笑、意見の相違、その他過小評価のしるしになる瑣末事にかんして、それらが直接自己の人格に向けられたか、間接に自己の親戚、友人、国民、職業あるいは名称に向けられたかを問わず、やはり暴力を用いさせる。(p155)


社会状態の外では、各人の各人に対する戦争状態は常に存在する

 以上によって明らかなことは、自分たちすべてを畏怖させるような共通の権力がないあいだは、人間は戦争と呼ばれる状態、各人の各人にたいする戦争状態にある。なぜなら《戦争》とは、闘争つまり戦闘行為だけではない。闘争によって争おうとする意志が十分に示されていさえすれば、そのあいだは戦争である。戦争の本質を考察するにはしたがって、天候の本質を考察するばあいと同じく「時間」の概念を考慮しなければならない。悪天候とは一度や二度のにわか雨ではなく、雨の降りそうな日が何日も続くことであるように、戦争の本質は実際の戦闘行為にあるのではない。その反対へ向かおうとする保証のまったく見られないあいだのそれへの明らかな志向がすなわち戦争である。その他の期間はすべて《平和》である。(p156)


『市民論』トマス・ホッブズ

社会のない人間の状態は戦争であること。戦争と平和の定義

 諸々の感情から派生するが、しかしとりわけ空しい自己重視から派生する、互いに挑発しあおうとする人間の自然な傾向性に、今や万物に対する万人の権利という、人々が一方では攻撃、他方では抵抗を権利上正当に行なうための拠り所であり、また万人の万人に対する絶え間ない疑惑や偏愛の生じてくる源でもある権利を付け加え、かつまた、私たちを不意に襲って制圧しようとする意図をもって襲撃してくる敵たちを、乏しい人数と装備によって防ぐことがいかに困難かということを付け加えるならば、集合して社会をなす以前の人間の自然状態は戦争であったこと、それも単に戦争というだけでなく、万人に対する万人の戦争であったということは、否定することができない。なぜなら戦争とは、力ずくで争う意志が言葉もしくは行動によって十分に明示されている期間以外の何物でもないからである。そのような期間以外の期間は「平和」と呼ばれる。(p44)


戦争は人間の保存に逆行するものであること

 しかしながら、恒久的な戦争が人類の保存にも各個人の保存にもいかに適さないものであるかは、容易に判断がつく。しかし、戦争はその本性上恒久的であって、その理由は、争いあう人々が平等であるために、いかなる勝利にも終ることが決してできないということにある。なぜなら、戦争においては勝利者その人にも危険は常にさし迫っていて、たとえ非常に強い者であっても、年を経て老年にまで至る人が誰かいれば奇跡的とみなされなければならないほどだからである。現在の時代においては、このことの例はアメリカの人々に見られるが、他の諸民族も、今でこそたしかに文明化されて繁栄しているが、しかし古い時代には人口も少なく、野蛮で、短命で、貧しく、醜く、平和と社会的結合によって提供されるのが常である生活上の慰安と装飾をことごとく欠いていたのである。(p44)


自然は平和を求めなければならないと命じていること

 しかしながら、自然状態すなわち戦争の状態にある人間たちは、諸々の力やその他の人間的諸能力の既述の平等性のせいで、永続的な自己保存を期待することができない。それゆえ、平和を得る何らかの希望が仄見えているかぎりは、平和を求めなければならず、平和を得ることが不可能な場合にかぎり、戦争の助けを求めるべきである、ということが、正しい理の命じるところである。正しい理の命じるところとは、すなわち自然の法であって、このことはこの後すぐに示すとおりである。(p46)


自然の法は自然状態においては沈黙すること

 「戦争中に法は沈黙する」とはよく言われることである。そしてこのことは、市民法〔国法〕についてだけでなく、自然法についてもまた真であるが、ただしそれには次の二つの条件がつく。すなわち、第三章第二七節により、自然法の適用される対象が心の中の思いではなく行為であること、そして戦争とは万人に対する万人の戦争であると解されること、これである。国と国との戦争にあっては何らかの制限が守られるのが常であるのに対して、純然たる自然状態とはそういう無法な戦争状態である。それゆえ古い時代には、「盗賊稼業」(ληστρική)すなわち「略奪によって生活すること」と呼ばれる、生計の立て方であってほとんど何か家政術のようなものが存在していたのであり、そしてそれは、物事がそういう状態にあるさいには自然の法に反することではなかったし、それを果敢に、かつまた残忍ではないやり方で実行していた者たちにとっては、体裁の悪いことでもなかった。彼らにとっては、他のものは奪い取るが、人の命はとらず、また犁牛や一切の農具には手を出さない、というのがならわしであった。しかしこのことは、そうするように彼らが自然の法によって束縛されていた、というふうに受けとられてはならないのであって、そうではなくて彼らが自分たちの面目に意を用いたからであり、また度を越した残忍さによって恐怖を巻き起こしているという非難を受けないためであった。(p117)