リヴァイアサン――コモンウェルス(国家)について

『世界の名著23 ホッブズ

コモンウェルスの目的は、人間の安全の保障にある

 人間〔元来、自由を愛し、他人を支配することを好むもの〕が、あのような拘束〔そのなかで生きているのをコモンウェルスのなかで私たちは見ている〕を持ちこみ、それをみずからのうえに課しているその究極の理由、目的、そして意図は何であるのか。それは自己保存と、それがもたらす満足のゆく生活への洞察に発している。
 いいかえれば、人間は惨めな戦争状態から脱けだしたいと考えるからである。戦争は〔すでに示したように〕、人間生来の諸情念から必然的にひき起こされるものであり、実際、何か恐ろしい力が目に見えて存在し、人間がその力を畏れ、懲罰にたいする恐怖から諸契約を履行し、第十四章と第十五章に述べた種々の自然法を遵守しないかぎり、避けられないものなのである。(p192)


安全保障は、自然法によっては得られない

 自然法〔「正義」「公平」「謙虚」「慈悲」など、〔要するに〕「おのれの欲するところを人にもなせ」〕が、何かの力にたいする恐怖なしに、ひとりでに遵守されることは、私たちの自然の情に反している。情念はむしろ私たちを不公平、自負心、復讐などに導く。また、剣を伴わぬ契約は、たんなることばにすぎず、人間の生命を保障する力をまったく持たない。(p192)


多数であっても、同一判断によって統御されていないかぎり、安全保障は得られない

 また、たとえ人数が多くとも、ばらばらの多くの判断や欲求によって動かされるならば、共通の敵にたいしても、また相互の権利の侵害にたいしても、なんらの防衛あるいは保護も期待することはできない。
 持てる力を最高に発揮し運用するにはどうすればよいのか。それについて意見がまちまちであっては、助けあうどころか、たがいに妨害し、いたずらに内部対立を深めることによってまったく無力化する。その結果、協力しあうほんのわずかの者にも容易に制圧されるばかりでなく、共通の敵がないときには、個々の利害のためにたがいに戦争をしかけあう。もしも、おおぜいの人間が、彼らに畏怖の念をいだかせる共通の権力がなくても、正義を守り、自然法を遵守することに同意するであろうと仮定できるとすれば、人類全体についても同様であると仮定してもよく、そうだとすれば、服従がなくても平和であることになるから、いかなる市民政府もコモンウェルスも存在しないことになり、その必要もなくなるであろう。(p194)


一致した判断が継続しないかぎり安全保障はない

 また人はその安全が生涯続くことを願っているのだから、一つの戦闘とか、一つの戦争というような、かぎられた期間だけ、一つの判断によって統治され、動かされたとしても、安全保障を確保することはできない。というのは、一致協力、外敵を打ち破り、勝利を占めたとしても、そののち、共通の敵がいなかったり、一部の人々からは敵と思われている者が他の人々によっては味方と見られたりするようなときには、彼ら自身、利害の相違から分裂せざるをえなくなり、戦争をはじめることとなるからである。(p194)


理性もことばも持たぬある種の動物が、強制力なしに社会生活を営むことができるのはなぜか

 最後に、これらの動物の和合は自然のものであるが、人間のそれは契約のうえにだけ成りたっており、人為のものである。したがって、その和合を恒常的・永続的にするためには、当然、〔この契約のほかに〕何かを必要とする。それこそが、人々を恐れさせ、また、人々を共通の利益を求めるように導きもする公共的な権力(コモン・パウワー)なのである。(p195)


コモンウェルスの生成

 人々が外敵の侵入から、あるいは相互の権利侵害から身を守り、そしてみずからの労働と大地から得る収穫によって、自分自身を養い、快適な生活を送ってゆくことを可能にするのは、この公共的な権力である。この権力を確立する唯一の道は、すべての人の意志を多数決によって一つの意志に結集できるよう、一個人あるいは合議体に、かれらの持つあらゆる力と強さとを譲り渡してしまうことである。
 ということは、自分たちすべての人格を担う一個人、あるいは合議体を任命し、この担い手が公共の平和と安全のために、何を行ない、何を行なわせようとも、各人がその行為をみずからのものとし、行為の本人は自分たち自身であることを、各人が責任を持って認めることである。そして、自分たち個々の意志を彼の意志に従わせ、自分たちの数多くの判断を彼の一つの判断に委ねる。
 これは同意もしくは和合以上のものであり、それぞれの人間がたがいに契約を結ぶことによって、すべての人間が一個の同じ人格に真に結合されることである。その方法は、あたかも各人が各人に向かってつぎのように宣言するようなものである。「私はみずからを統治する権利を、この人間または人間の合議体に完全に譲渡することを、つぎの条件のもとに認める。その条件とは、きみもきみの権利を譲渡し、彼のすべての活動を承認することだ」
 これが達成され、多数の人々が一個の人格に結合統一されたとき、それは《コモンウェルス》――ラテン語では《キウィタス》と呼ばれる。かくてかの偉大なる《大怪物》(リヴァイアサン)が誕生する。否、むしろ「永遠不滅の神」のもとにあって、平和と防衛とを人間に保障する地上の神が生まれるのだと〔畏敬の念をもって〕いうべきだろう。
 それが「地上の神」と呼ばれるのは、コモンウェルスに住むすべての個人によって与えられたこの権限を持って、彼は自分に付与された強大な権力と強さを生かし、国内の平和を維持し、そして、団結して外敵に対抗するために、人々を威嚇することによって多くの異なった意志を一つに結集させることができるからである。そして、このような力を持つ彼のなかにこそコモンウェルスの本質がある。(p195)


コモンウェルスの定義

 「コモンウェルス」は〔定義すれば〕、つぎのとおりである。「それは一個の人格であり、その行為は、多くの人々の相互契約により、彼らの平和と共同防衛のためにすべての人の強さと手段を彼が適当に用いることができるように、彼ら各人をその(行為の)本人とすることである」(p196)


主権者および国民とは何か

 そして、この人格を担う者が《主権者》と呼ばれ、「主権」を持つといわれる。そして彼以外のすべての者は、彼の《国民》である。
 主権を獲得するには二つの方法がある。一つは、自然の力によるものである。たとえば人が子どもや孫たちを彼の支配に服従させ、もしも服従を拒否するならば、これを破滅せしめるというばあい、あるいは戦争によって敵みずからの意志に従わせ、服従を条件にその生命を与えるばあいである。
 他の方法は、人々が、他のすべての人々から自分を守ってくれることを信じて、ひとりの人間または合議体に、自発的に服従することに同意したばあいである。このばあいをわれわれは、政治的なコモンウェルスあるいは「設立された」コモンウェルスと呼び、前者を「獲得された」コモンウェルスと呼ぶことができよう。(p197)


四、主権者の行為を国民が非難することは正当ではない

 第四に、すべての国民は主権を設立することによって、主権者のあらゆる行為、あらゆる判断をつくりだした本人であるから、主権者がどのように行動するにせよ、それは国民のだれかを侵害したことにはなりえない。また国民は、いかなる行為をも不正であるとして非難すべきでない。
 なぜかといえば、他から権限を受けて行為する者が、これを与えてくれた当人にたいして権利侵害をはたらくことはありえないからである。コモンウェルスの設立によって、それぞれの人が主権者のあらゆる行為の本人となったのである。だから、主権者から侵害されたと不平をいう者は、自分自身が本人であることがらについて不平をいう者である。したがって、彼は自分以外のだれをも責めるべきではない。否、権利の侵害について自分自身をも責めるべきではない。自分の権利を侵害することは不可能だからである。
 主権者に不公平な行ないがあることは確かである。しかし、それは本来の意味での不正でも、権利侵害でもない。(p200)


五、国民は主権者のどのような行為も処罰することはできない

 第五に、いままで述べたことの結果として、主権者が殺されたり、方法のいかんを問わず、国民によって処罰されたりすることは不当である。すべての国民に主権者の行なう行為をつくりだした本人であるから、それは自分の行為にたいして他を処罰することになるからである。(p201)


専制政治、寡頭政治は、君主政、貴族政の別名にすぎない

 しかし、歴史あるいは政治にかんする著述には「専制政治」(ティラニィ)、「寡頭政治」(オリガキィ)など、これらとは異なる政治形体の名称がみられる。だが、それらは異なった政治形体ではなくて、同一の政治形体が嫌われたばあいの名称である。
 「君主政」のもとにあってそれに不満な者は、これを「専制政治」と呼び、「貴族政」を嫌う人々は、これを「寡頭政治」と呼んだ。同様に、「民主政」のもとで苦しんでいる人々は、これを「無政府」(アナキィ)〔統治の欠如の意〕と呼ぶ。しかしこの統治の欠如を、何か新しい種類の政治形体と信ずる者はあるまい。同じ理由から、人々がある統治を好むときと、好まなかったり、統治者に抑圧されているときとによって、政治形体の種類が異なるように考えるべきではない。(p208)