インディオに対する征服戦争

『第二のデモクラテス 戦争の正当原因についての対話』セプールベダ 岩波文庫

 インディオに対する征服戦争は正当である――。ラス・カサス最大の論敵が披瀝する、征服戦争是認論の精髄。布教への途を掃ききよめ、〈文明〉を持ちこむための戦争は正当であるとする彼の主張を支えたのは、インディオを憎悪・蔑視する同時代の新世界植民者の眼差しであり、先天的奴隷の存在を認めるアリストテレスの理論であった。果たして、征服戦争は是か非か?(表紙)


 キリスト教徒がその野蛮人たちを服従させ、支配するのはきわめて正当である。
 これは以下に挙げる理由で立証される。
 まず第一に、インディオたちが例外なく、現在、いや、少なくともキリスト教徒の支配下に入る以前、野蛮な慣習に耽り、大部分が生まれながらにして文字を欠き、思慮分別を弁えず、また、数多くの残忍な悪習に染まっていたからである。…
 ところで、自然法に従えば、理性を欠いた人々は彼ら以上に人間的で思慮分別を弁えた立派な人たちに服従しなければならない。そうすれば、彼らは優れた慣習や制度のもとで治められることになる。もし、予め勧告が行われたにもかかわらず、彼らがその権威を認めない場合、武力を用いて強制的に認めさせることができる。その結果生じる戦争は、アリストテレス〔紀元前三八四~三二二年 プラトンの弟子で、彼とともに、古代最大の哲学者。『政治学』『ニコマコス倫理学』など、数多くの作品を著す〕や聖トマスの教えによれば、自然法に照らして正当なものになる。(p19)


 第二に、それらの野蛮人が自然法に反する大罪に陥っているからである。
 人は誰も、自然法に背く大罪についての不知を弁解できない。神が約束の地に住んでいた罪深い民を壊滅したのは、彼らが大罪を犯していたからに他ならない。すなわち、彼らは全員、偶像を崇拝し、大部分の人が人身犠牲を行なっていたのである。また、「神があなたの前で彼らを滅ぼされるとき、あなたは〈私が正しいので、主はわたしを導いてこの土地を得させてくださった〉と言ってはならない。これらの国々の民が滅ぼされたのは、彼らが神に背いたからである」(『申命記』第九章四)という聖書の句は、神が密かな裁きを下したのではなく、他でもない偶像崇拝を理由に、それらの民を滅ぼされたことを明示している。同じ聖書に、次のような句もある。「彼らは主がいとわれるあらゆることを神々に行い、その息子、娘さえも火に投じて神々にささげたのである」(『申命記』第一二章三一)。また、その聖書では、それらの民が滅ぼされる原因になった不敬な行為について、次のように説明されている。「あなたが、あなたの神、主の与えられる土地に入ったならば、そこに住む人々のいとうべき事柄を見習ってはならない。あなたの間に、自分の息子もしくは娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。これらのことを行う者をすべて、神はいとわれる。これらのいとうべき行いのゆえに、神はあなたがその土地に入るとき、彼らを滅ぼされるであろう」(『申命記』第一八章九~一二)。
 以上の証言から、先記の民が偶像を崇拝したために滅ぼされたのは明白である。(p21)


 解説  染田秀藤

 セプールベダは、戦争は自然法によって認められているという立場から、キリスト教世界の護持もしくは拡大を目的とする戦争は一定の条件を満たせば、すべて正当であると主張し、異端者や異教徒との戦争の正当性を説いた。それは、イタリアという、ヨーロッパの他のどこよりも宗教問題が直接重大な意味をもつ土地で長年過ごし、さらに教皇庁に仕えたセプールベダが、オスマン帝国の脅威やルター派、すなわち異端者たちの動きにキリスト教世界の危機を読み取った結果であったと言えるだろう。したがって、セプールベダにとり、インディアス問題、とくに征服戦争の正当性をめぐる論争はキリスト教世界の拡大という意味で座視するわけにはいかなかった。しかも、その任務を担ったのがほかでもない祖国スペインであったのは大きな意味をもっていた。宗教改革の嵐が吹きまくる中、キリスト教諸国の中でもとくにスペインがローマ教会の守り手として闘う姿を、長年異教の地で見つづけたセプールベダにとり、征服戦争はインディオの改宗化(キリスト教世界の拡大)を容易にするために、スペイン人が莫大な費用と犠牲を払って遂行している「聖戦」であり、それに異を唱えるのは異端的行為に等しかった。したがって、セプールベダが、ほかでもないスペイン人の中に征服戦争の正当性に疑義を挟み、その中止を求めている人たちが存在することに憤りを感じ、長年研鑽を積んだアリストテレス哲学を武器に、理論的に征服戦争の正当性を明らかにし、論争に終止符を打とうと考えたのも自然な成り行きであった。彼がそうした思いで書き綴ったのが『第二のデモクラテス』(一五四四年か四五年ころ)である。(p294)