現代的と自称する人間

『政治思想論集』カール・シュミット ちくま学芸文庫

 現代人たることだけを後生大事に守っているにすぎない人びとに、このような命題を押しつけたらどんな顔をするかを、見通すことはたやすい。現代人のなかであちこちで見受けられるよくあるタイプの人は、以下のような見解を抱いている。すなわち、近・現代が「自由」で、懐疑的で、権威に対して敵意をもち、極度に個人主義的な時代であり、近・現代は個人を初めて真に発見し、名誉ある地位につけ、きわめて古くからある伝統と権威とを克服したのである、という見解がそれである。こういった近・現代の成果を前にしては、上記のあの「結論」などは、名状し難い先祖返りを、すなわち、野蛮で反文化性をもつ生の敵視への逆もどりを、意味することになるわけなのだ。実際がそうであれば、現代人の批判が意味することは、私の教説に対してある異論を唱える、ということなのであろう。法・国家並びに個人と関わる諸問題に真剣に取り組む論者なら、誰しも、時代精神と称されうるにふさわしいものを、軽々しく不問に付してはならない。(p14)


 つまり、私の教説が時代に適合しないという異論を規定している現代人の印象というものは、現代の固有の性格についての、誤った――少なくとも無批判的な――前提に立っているものである、と。懐疑と厳密さとをふりまわす時代は、同時にその時代が個人主義的な時代なりと自称することなどできない相談である。なぜなら、懐疑論も自然科学に特有な厳密さも、人格を基礎づけることはできないからである。両者は、それ以上説明できないか疑い得ないかする究極的な事実としての個々人という地点に止まることはできないのであるが、そのことは人格神についても同様に妥当する。(p16)