伝聞②

ニュルンベルク・インタビュー 上』レオン・ゴールデンソーン ロバート・ジェラトリー 編

 ヴィルヘルム・カイテル(陸軍元帥、国防軍最高司令部長官)

 私は、カイテルが将校になった理由をたずねた。
 「プロイセンではふつう、実業家やその他の職業よりも将校のほうが格上だと考えられていたからだ。
 軍が残虐行為に関わったことは、まったく知らなかった。なぜそんなことになったのか、いまではわかっている。党の各組織との接点が多すぎたのだ」(p44)


 エルンスト・カルテンブルンナー(国家保安本部長官)

 「だが、きみは病院でもここでも病気の治療にあたってくれたのだから、もうおわかりだと思う。私は、ヒムラーの命による残虐行為から人びとが連想するような、粗野で扱いにくい人間ではない。しかも、私はそれらの行為とは一切無関係だ」(p60)


 ヘルマン・ゲーリング(空軍総司令官、帝国議会議長、プロイセン州首相)

 アウシュヴィッツ収容所長ヘースの印象を、ゲーリングにたずねた。性別、年齢を問わず、あらゆる人間を殲滅したと法廷で証言した男だ。
 「その件については、なにも知らなかった。ヘースが法廷で言ったように、秘密事項だった。ほとんど信じがたい。死者の数が膨大だ。理解できない。ヒトラーがそれを知っていたとは信じられない。もちろん、実際に起こった出来事を知るだけでも充分だ。それにしても、あれほどの数とは、想像を絶している。言うまでもなく、当時から噂はあったが、私は信じなかった。その命令を実行したヘースやヒムラーやSSのもっと小物たちは知っていたにちがいないが、それでも、私には理解できない。どんなやり方をしたのか、見当もつかない。
 特定のグループを絶滅させるという命令について、話し合ったことはない。話し合いがあれば、そんな考えは大変な抵抗を受けただろう。……
 一度、数千人が殺されたという噂を耳にしたことがあるが、敵のプロパガンダだと思っていた。それについてたずねたら、敵のプロパガンダにすぎないと言われたのだ。強制収容所では即決裁判により死刑が宣告されているということは、われわれ全員が知っていたが、罪のない人びとが殺されているとは知らなかった。アイヒマンという名前はここに来て初めて聞いた。ユダヤ人がドイツから一掃されるべきであるのは明白だった。ユダヤ人がポーランド総督領に行くべきであることも明らかだった。しかしそれは、彼らが根絶されるべきだということではない。戦後、ユダヤ人はパレスチナかどこかに連れてゆかれることになっていた。戦前から、ユダヤ人を立ち退かせる計画は存在した。それは一〇ヵ年計画の一部であり、ほかにも、外国為替相場の操作に関する計画などがあった。私は国家社会主義党政権下のドイツで起こったことには全責任をとるが、強制収容所とか残虐行為とか、まったく関知しなかったことについては、そのかぎりではない」(p103)


 フリッツ・ザウケル(労働力配置総監)

 強制収容所内外での残虐行為や大量虐殺は、自分のような善人の関知しないことであり、善人らしからぬヒムラーの責任である。(p136)


 ユリウス・シュトライヒャー(『デア・シュテュルマー』の創刊者兼編集主幹)

 私は彼に、ユダヤ人絶滅計画について罪の意識があるかと訊いた。彼は、笑いそうになりながら答えた。
 「待ってくれ、私は関係ない! 一九四〇年以降、私はフュルトの農場主として暮らしていた。私がなにも知らないからには、ヒトラーはきっと一九四一年にユダヤ人の絶滅を決意したのだろう。(p191)


 バルドゥア・フォン・シーラッハ(ヒトラー・ユーゲント指導者)

 私はこう言った。ポールの態度に変わったところはない。つまり、ポールは、強制収容所での大量虐殺や残虐行為を知らないとは言っていないが、それらの事柄を、あくまでもヒムラーの命令に従って行なったこととして説明し、自分は絶滅計画に直接関与しておらず、手を下したのは部下のリヒャルト・グリュックスだと言って弁解している、と。シーラッハは顔をしかめて「恐ろしいことだ」と言った。
 シーラッハはその一言でポールを切って捨てたようだった。彼はおそらく、ポールやカルテンブルンナーをはじめとするヒムラーの手先を支持していないという事実を、私に印象づけたかったのだろう。(p210)


 カール・デーニッツ(海軍大将、海軍総司令官)

 デーニッツによれば、アメリカ人には理解しがたいだろうが、ヒトラーのモットーは「人のことなど気にかけず、自分の仕事に専念しろ」というものだった。そのため、デーニッツ侵略戦争の計画についてはなにも知らなかったし、ユダヤ人の根絶や、三〇〇〇万人のスラヴ人の絶滅計画や、ロシアとポーランドにおける残虐行為についても、まったく知らなかった。(p223)


 オットー・オーレンドルフ(国家保安本部保安諜報部長)

 あなたは中将として特別行動隊を指揮したのか。「違う。当時、私はまだ少将にすぎなかった。一九四一年から四二年のことだ」。あなたの特別行動隊は、何をしたのか。「ユダヤ人を包囲して軍隊式に射殺した。銃殺隊は一五人で構成された。銃弾はユダヤ人一人につき一発だった。つまり、一五人からなる銃殺隊が一度に一五人のユダヤ人を処刑した」。あなたは監督するか、立ち会うかしたのか。「短時間だが、二度立ち会った」。(p258)


 エヴァルト・フォン・クライスト(陸軍元帥)

 ユダヤ人の大虐殺が一九四一年から終戦まで行なわれたことを知っていたのだろうか。
 「知らなかった。宣誓して述べたとおり、私はそれについて、なにも知らなかった。一九四一年から四二年にかけての冬に前線にいたとき、ユダヤ人が強制移送されてどこかに集められているという噂を聞いた。それから、私のいる前線から八〇〇キロメートル後方にあるレンベルクで大虐殺があったことを耳にした。そのときは、ポーランド人かソ連人の仕業だと聞かされていた。その後、ベッサラビアで多数のユダヤ人が射殺されたと聞いた。ベッサラビアは一〇〇〇キロメートル離れたところにあり、私は一度も行ったことがなかった。ルーマニア人が犯人だと聞かされ、私はここに来るまでそう信じていた。(p292)


 アルベルト・ケッセルリング(空軍元帥)

 「軍法では、兵士は犯罪を犯してはならないとされている」と、ケッセルリングは続けた。「それでも、血みどろの戦いのなかでは、兵士が犯罪を犯すこともある。しかし、もし上官がまちがっていると知りながらそれを黙認するなら、その上官は過ちを犯したことになる。兵士が犯罪に走らないようにするために、厳命が必要なときもある。大量虐殺は論外である」。大量虐殺についてどう考えているか、あるいは考えたことがあるか。「それについてはわからない。もちろん、誤った行為だ。しかし、人権を侵害して悪い結果を招いたことが、すべて犯罪とは言えない。戦争は兵士が戦うべきものだ」。あなたの述べたふたつの主張の関連がよくわからないのだが。つまり、人権侵害の問題と、戦争は兵士が戦うべきものだという主張のことだ。犯罪は一般市民の行為だったという意味だろうか。「そうだ。私の指揮下の兵士は、一人も犯罪を犯さなかった」。(p303)


 ヴァルター・シェレンベルク(諜報機関の長官)

 ユダヤ人を根絶したあとで?「私はいつも、ユダヤ人の大部分がまだ生存していると思っていた」。いつまで?「一九四五年四月二十日までだ」。そのときまでに、五〇〇万人のユダヤ人が死んでいた。「私はそれには関与していない」。それは不思議な話だ。「私はユダヤ人が強制収容所で生きていると思っていた」(p323)


 パウル・O・シュミット(ドイツ外務省に入省、通訳官)

 リッベントロープは残虐行為や絶滅収容所について、なにも知らなかったと主張しているが、シュミットはそのとおりだと思っているのだろうか。「ある程度まではそのとおりかもしれない。かりに知っていたとしたら、国際関係を損なうという理由で異議を唱えていただろう。それでも、彼が大虐殺や残虐行為に関する噂を耳にしていたのはたしかだ。実際のところ、リッベントロープはそのような事柄には関心がなかった。(p357)


 クルト・ダリューゲ(SS上級大将、治安警察長官)

 ドイツ各地でユダヤ人襲撃が起こったとき、警察はユダヤ人とその財産を守ったのかとたずねると、彼は、そのような襲撃があったことは知らないし、誰からも聞いていないと答えた。そして、そういえば一度だけ、ミュンヘンシナゴーグが燃えているのを見たことがあるが、あっという間の出来事だったので、なにもできなかったと言った。……
 なにか罪の意識を感じるようなことはあっただろうかと訊くと、彼は「ない」と言った。彼はドイツ警察長官だったが、彼の知るかぎりではすべてがうまくいっていたという。(p364)


 ゼップ・ディートリヒ(ヒトラー身辺護衛隊指揮官、SS大将、第六機甲軍司令官)

 ヒトラー反ユダヤ主義だった。
 「彼はそのことについて、めったに語らなかった。一九四三年に〔ギリシアにいた〕妻からの手紙で、ユダヤ人が駆り集められていると知った。ヒムラーのところに行って訊くと、真実ではないと言われた。ユダヤ人はあまりよく働かないから、集めて働かせるのだということだった。
 しかし、そのときにはもう、ユダヤ人は生きていなかったのだ。私はこの刑務所に来るまで、そうしたことを知らなかった。きみはヴィルヘルム・ヘットルやシェレンベルクに話を訊くべきだ。二人ともヒムラーの部下だったのだから」(p375)


伝聞
http://nihonnokoe.hatenablog.com/entry/2018/12/07/214143