伝聞④

ゲッベルスと私 ナチ宣伝相秘書の独白』ブルンヒルデ・ポムゼル トーレ・D・ハンゼン

 強制収容所が存在することは、前から知っていたけれど、まさか人を毒ガスで殺して焼いていたなんて、思いもしなかった。私自身もブーヘンヴァルトの特別収容所でシャワーを浴びるとき、同じような場所に立った。(p150)


 ゲッベルスの秘書の語りは現代の私たちに何を教えるか  トーレ・D・ハンゼン

 ヒトラーの秘書トラウデル・ユンゲも、かつてホロコーストについて何も知らなかったと主張した。総統護衛隊の電話交換手ローフス・ミシュも、ヒトラーの近くにいても「最終解決」についてはまったく聞かなかったと繰り返し述べている。(p188)


ヒトラーの娘たち ホロコーストに加担したドイツ女性』ウェンディ・ロワー

 親衛隊員の妻たちは、アウシュヴィッツ所長の妻を含め、戦後、収容所を取り囲む壁や鉄条網の向こうで何が起きているのか、自分は知らなかったと主張している。(p172)


私はヒトラーの秘書だったトラウデル・ユンゲ

 ある贖罪の年代記  メリッサ・ミュラー

 自分はおそらく知ろうとしなかったから、あれほど大規模なユダヤ人迫害のことを何も知らなかったのだと認める。にもかかわらず、ナチスの殺人行為を後になってから知性で理解し、自分自身と関連づけてみようという彼女の努力の中にも、ヒトラーの傍で直接体験した当時の印象が(それは彼女の原稿からも読みとれるようにもっぱら肯定的なのだが)常に割り込んでくる。それは驚くには当たらない。トラウデル・ユンゲの今日まで続いている自己との戦いも詰まるところここに起因するのだ。その戦いとは、この男が彼女の無事息災を気にかけてくれているのだという感じを彼女に与えたと同時に、止まるところを知らぬ破壊意志をもって、何百万人もの人間に危害を加えたのだ、ということを受け入れることなのである。(p300)


ホロコーストを知らなかったという嘘』フランク・バヨール ディータァ・ポール

 職業生活のすべてをイルゼ・Fは権力者の秘書執務室で過ごし、一九六七年に年金生活に入るまで第一秘書として、自由ハンザ都市ハンブルクの五人の市長――戦後初めて民主的に選出された市長マクス・ブラオァ(社民党)からその党の同志ヘルベルト・ヴァイヒマンまで――のために働いた。…
 それにもかかわらず彼女は、一九九五年に行われたハンブルクの歴史家ベアーテ・マイアとのインタビューの中で、まさに正反対の印象を与えようとした。彼女は職務上権力の中枢で働いていたのだが、該当する出来事に関しては何も知らなかったと主張した。(p11)


ホロコーストの科学』ベンノ・ミュラーヒル

 ゲルトルート・フィッシャー(オイゲン・フィッシャー教授の娘、七八歳)

 「戦争中や戦後、お父様とユダヤ人の迫害と絶滅について話し合ったことがありましたか。お父様は自分が関係していることについて疑問を持っていませんでしたか」。
 「いいえ、話し合ったことはありません。戦争中は私はなにも知りませんでした。フォン・フェルシュアーと父はユダヤ人の迫害と絶滅について知っていたに違いありませんが、その話をしたことは一度もありません。最近世間で噂されていることは私にはまったく初耳です。戦後もホロコーストを扱ったテレビ・フィルムのようなものはまったくありませんでしたから。当時私たちは皆国家を再建することしか考えていませんでした。とにかく、なぜ父を特別に問題にするのですか。みな罪があるのです。父は何も特別なことをしていません」。(p136)


『封印されたホロコースト』リチャード・ブライトマン

 この報告書によれば、カルスキは、ナチスユダヤ人を家畜用貨車に詰め込み、途中で死者が出てもそのまま放置し、ベウジェツ近郊に運んで、そこで毒ガスや電流で殺す状況の叙述をつづけた。彼は実際にガス室を見たわけではないが、その処理過程についての話を聞いたという。(p162)


アウシュヴィッツと知識人』E・トラヴェルソ

 歴史家ウォルター・ラカーは、戦時中、西欧世界の世論をしてユダヤ人絶滅の事実を"知って"いながら"見ない"ようにさせた心理的な抑圧のメカニズムを見事に捉えている。一九四二年、ポーランドの百万のユダヤ人除去のニュースは『ニューヨーク・タイムズ』の一面記事にはならなかった。この日刊紙は、それがあまり信頼すべきではない三面記事であるかのように、内側のページに載せた。そのような心理的態度は、戦後、ジェノサイドの現実に関して、もはやいかなる疑いも許されなくなっても、続いた。出来事を認識し、判断する力は、長期間、数世代にわたって形成され、定着した心性によって条件づけられる。万事が、まるでヨーロッパと西欧世界が自らの生み出した極悪非道の出来事に目を向けるのを拒むかのように、生起する。誰かが示唆するように、その罪状を引き受けることは不可能なのか? いづれにせよ、現実を直視することができない。ニュルンベルクでもまた、ジェノサイドの罪は裁判の中心には置かれなかったのである。
 このアウシュヴィッツが見えないことは、レイモン・アロンの歩み――大革命以来、フランスのユダヤ人像を形作ってきた「同化政策」の純粋な産物――によって例証されている。彼は戦争の時代をロンドンのド・ゴール将軍の傍で過ごし、『自由フランス』紙を編集していた。回想録のなかで、彼は、この雑誌がジェノサイドに関して何も触れなかった理由を明確に説明している。
 「ロンドンで我々に何が分かったというのか? イギリスの新聞がそれを報じたのか? たとえ報じたとしても、仮説だったのかそれとも断言だったのか? 意識を明瞭に働かせても、私の理解はおよそこうだった。強制収容所は残酷だが、政治犯ではなく、普通法の罪人の中から募られた看守によって支配されていた。死亡率も高かった。だがガス室、人間の工業的な殺人は、いや、これは認めるが、私には想像できなかった。想像できなかったのだから、私は知らなかったのだ」。確信できるのは、いつか彼がジェノサイドのことが分かったとしても、この完璧に「同化していて」少しも「恥じる」ところのないユダヤ人は、リュシアン・ヴィダル=ナケにならって、ユダヤ人としての彼になされた侮辱をフランス人として感じたであろう。このアロンのようなユダヤ性は、戦争勃発までは無関心と沈黙、次いで沈黙と苦悩の混淆として特徴づけられるが、そのような態度はフランスのユダヤ人の多くに共通するものだったことを付け加えねばならない。(p16)