イギリスなんて、なんにもしてないじゃない!

アンネの日記アンネ・フランク 文春文庫

 おばさんはべつの話題を探します。「ねえプティ、どうしてこのところ英軍の空襲がないのかしら」
悪天候だからだよ、ケルリ」
「でも、きのうはいいお天気だったわ。なのに、やっぱりこなかったじゃない」
「その話はよそうや」
「あら、話ぐらいしたっていいでしょ? でなきゃ意見ぐらい述べたって」
「だめだ!」
「なぜだめなの?」
「うるさいなあ、おかあちゃん!」
「でもフランクさんなんか、いつだってちゃんと奥さんに返事するじゃない」
 ファン・ダーンのおじさんは、ぐっと腹の虫をおさえます。これがおじさんのヨワいところで、それを言われると耳が痛いんです。おばさんは嵩にかかって言いつのります。
「上陸作戦なんて、いつになったって始まりそうもないみたい!」
 おじさんの顔が怒りで青ざめます。これを見ると、おばさんのほうは顔を真っ赤にしますが、それでも頑固につづけます。
「イギリスなんて、なんにもしてないじゃない!」
 ここで爆弾が破裂します。「うるさい、黙れ、このくそったれ!」
 とうとうママがこらえきれずに笑いだします。わたしは聞こえぬふりをしています。
 こういうことが毎日のように起こります。起こらないのは、すくなくとも、とくべつひどい口喧嘩をした直後だけ。そういうときには、おたがい口をききませんから。(p223)


 朝から晩まで、聞かされるのはこういう話ばかりです。話題は上陸作戦、もっぱら上陸作戦。それに、飢餓の苦しみとか、死ぬこととか、爆弾とか、消火器とか、寝袋とか、ユダヤ人証明書とか、毒ガスとか、その他もろもろについてのはてしない議論。どれを聞いても、必ずしも楽しい話題とは言えません。(p314)


 J――「ですが、なにもはっきりしたことがわかってるわけじゃないでしょう? それはたんなる憶測ですよ」

 A――「いいかね、わたしたちは実際にそのすべてを体験してきてるんだよ。最初はドイツで、いまはここで。それに、ソ連でだって、いまなにが起こってると思う?」

 J――「ユダヤ人問題をこれに含めないでください。ソ連でなにが起きてるか、はっきり知ってるものはいないはずですよ。イギリスだって、ソ連だって、プロパガンダのためには、ぜったい事実を誇張してるにちがいないんだ。ドイツと同様にね」

 A――「とんでもない。イギリスのラジオはいつだって真実を伝えてるさ。かりに一割ぐらいは誇張があるとしても、とにかく事実そのものが悲惨きわまりないんだ。きみだって否定はできまい――ポーランドソ連で、平和を愛する何百万という民衆が、問答無用で殺されたり、ガス死させられたりしてるという事実は」

 まあこのへんにしておきましょう、こういうやりとりの実例をお聞かせするのは。わたし自身は、こうした周囲の騒ぎや議論とはいっさい無縁に、終始沈黙を守っています。(p315)


 そのあとペーターは、こうも言いました。「ユダヤ人はつねに選ばれたる民だったし、これからもずっとそうだろう」って。
 ですからわたし、こう言いかえしました。「わたしはね、いつもこう思ってるわ――一度でいいから、"いい意味で"選ばれるといいんだけど、って」
 それでも、それからあとは、ふたりともとても楽しくおしゃべりをつづけ、うちのおとうさんのことや、ひとの性格判断のこと、その他いろんなことを話して過ごしました。どんな内容だったか、詳しいことは覚えていません。(p330)