啓蒙の世紀の舞台裏

『啓蒙の世紀と文明観』弓削尚子

 十五世紀から十七世紀初頭までに約五〇万人のアフリカ人がヨーロッパの奴隷商によってアメリカへ運ばれたといわれるが、十八世紀にはその十数倍の約七〇〇万人というおびただしい数の黒人奴隷がアフリカから駆り立てられた。輝かしい「啓蒙の世紀」の舞台裏には、狭苦しい船倉に押し込められ大西洋の荒波にもまれた黒人の悲痛なうめきが聞こえていた。(p22)
 

 人権思想、平等思想を説いた啓蒙主義者にとって、黒人奴隷の解放は焦眉の問題であった。ヨーロッパでも当のアメリカでも、反奴隷制協会が設立され、コーヒーハウスや読書クラブでもこの話題が聞かれた。しかしそこに集う啓蒙知識人たちが、コーヒーに砂糖をいれて飲み、タバコをくゆらせながら奴隷貿易反対論を唱えるとき、彼らもまた植民地製品の消費者として奴隷貿易を潤わせていたのである。ヨーロッパの快適な社交の空間から、奴隷貿易に直接従事しているプランター(農園主)や貿易商に、啓蒙の理念を掲げて厳しい批判の言葉を投げかけるのはたやすい。イギリスでは、一七七六年に奴隷貿易廃止法案が議会にかけられたものの、現地のプランターや奴隷商の反対にあって先送りとなった。フランスでは、革命期の一七九四年に奴隷制が廃止されたが、ナポレオンにより復活された。奴隷解放をめぐっては、十九世紀に議論が持ち越された。(p22)


 ユダヤ教徒、女性、黒人奴隷に、その社会的・法的な解放が実現されるのは、ずっと先のことであった。解放の理念が示されても、それを打ち消すための「客観的」論拠もまたさかんに捻出された。それは、彼らをヨーロッパ人男性と対等な立場につくことのできない「他者」として位置づける「科学」であった。(p23)