朝鮮を中華帝国の千年属国から解放した日本

『日本を呪縛する「反日歴史認識の大嘘』黄文雄

 清朝がすべての朝貢国のなかで、朝鮮をいかに下国の中の下国として支配していたかということについては、ヘンドリック・ハメル著『朝鮮幽囚記』(生田滋訳・平凡社)に詳しい。
 また、朝鮮を統治・管理するのは本来、礼部(文部省)の管轄だったが、後には北洋大臣兼直隷総督・李鴻章の部下である袁世凱などの軍人が実質統治するようになっていた。袁世凱は清国内では単なる一介の武弁(武官)にすぎなかったが、朝鮮では国王も服従するような強大な権限を持っていた。
 厳然たる朝鮮総督として権勢をふるう袁世凱支配下にあった漢城(ソウル)は、じつに悲惨であった。清兵三〇〇〇人が市民に対し、略奪、暴行の限りを尽くし、両班の家にも侵入し、女性を凌辱する。女性たちは強引に酒席で妓生にされ、乱暴狼藉を受ける。李朝の高官でさえ、清国の領事や軍人から殴る蹴るの暴行を受けても、ただ泣き寝入りするだけだった。
 閔妃は国王の妃というよりも袁世凱の愛人であり、閔妃の妹も袁の妾であった。
 いちばん象徴的なのは、国王の父・大院君が清軍により、天津まで強制連行されたことだった。
 つまり、李朝朝鮮の国王、国家元首の地位は、モンゴル、回部、チベットの将軍や大臣以下であり、さらに各省の地方軍政の長官にあたる総督や巡撫の比でさえなかった。
 朝鮮外交をめぐる交渉も李朝朝廷ではなく清国を通して行われていた。朝鮮の国事人事までも、清政府が決めるのである。たとえば、清国の指導の下、外務協弁(外交補佐官)には馬建堂(元神戸大阪領事)とメルレンドルフ(元天津上海駐在ドイツ副領事)が迎え入れられた。また、李朝政府がメルレンドルフを解任するときには、清末の最高実力者であった李鴻章の承認を得て行った。その後任に海関総税務司を兼任していたアメリカ人ヘンリー・メリルを送ったのも李鴻章である。
 一八八五(明治一八)年、イギリスが朝鮮半島の巨文島を占領したときも、李朝にではなく、イギリス駐在清国大使の曾紀沢(曾国藩の嗣子)に通告を行った。そして曾は、李朝政府に連絡することもなく占領を了承している。国土の変更ですら清国大使の裁量次第だったのである。
 このように、日清戦争までの朝鮮における政治・外交・経済は、完全に清国に掌握されていたのだ。属国というより、むしろ植民地以上の統治である。
 日本はそのような朝鮮に、明治維新のような政治改革によって自主独立の近代国民国家になることを強く期待していた。一八七五(明治八)年、日本軍が演習中に朝鮮軍に砲撃された「江華島事件」の結果、朝鮮が開国すると、列強も朝鮮を中国の属邦とは認めたがらなくなった。そして直接朝鮮と密約や条約などを結び、外交関係を持つ国が出てきたため、清国は朝鮮管理をさらに強化することになった。たとえば清国は朝鮮の第三国への公使派遣は認めるが、「全権」の二文字は使用禁止とした。そして次の「另約三論」なるものの順守を強要した。
 一、朝鮮公使は駐在国に赴任したら、必ず清国公使館に先報し、清国公使を経て相手国と折衝すること。
 二、公使外務の席上、韓国公使は必ず清国公使の次席に座ること。
 三、重要交渉がある時には清国に事前報告し、相手国に関係なく属邦体制を守ること。

 日清戦争前、日本と清国との間では、朝鮮の指導と管理について多くの経営策が議論された。なかでも有名なのは、張謇の「朝鮮善後六策」である。そこでは、「朝鮮国王を廃し、清の一省とする」とも謳われ、清国朝廷内では高く評価された。
 さらに、一八八二年一〇月、清は李朝と「清国朝鮮商民水陸貿易章程」を結び、李朝は清国の属国として宗属関係を明記している。
 そのような中国属国支配から朝鮮を解き放ち、その独立を達成させたのが、一八九五年の日清戦争における日本の勝利だったのである。たとえ日本の国益のためであれ、「朝鮮独立」を目指したこの戦争が、朝鮮人にとって「解放戦争」だったことは疑いない。
 少なくとも清国のくびきから解き放たれ、暴虐なる清国兵が追放されただけでも、朝鮮人には大きな救いだったはずである。(p80)