日韓合邦には朝鮮人も各国も賛成していた

『日本を呪縛する「反日歴史認識の大嘘』黄文雄

 前述のように、日清戦争の結果、日本は清に朝鮮の独立を認めさせた。それにより、朝鮮国内において、近代化をめざす改革派の勢いが増した。だが自らの権限確保を目論む朝鮮国内の王室をはじめとする守旧派は、日本が三国干渉に屈する様を見るや、今度はロシアに事大するようになった。一八九六年には高宗をロシア公館に移し、政権を奪取するというクーデターが起こった。これが「露館播遷」である。高宗は日本の影響力排除を目論み、改革派を弾圧した。
 一方、ロシアは一九〇〇年の義和団の乱を口実に満洲へ侵攻、これを占領した。ロシアの南下が現実になったことで、日本では脅威論が高まった。英米日はロシアに抗議し、ロシアも撤兵を約束したが、逆に増兵するなどの背信行為を行い、さまざまな交渉も決裂、日露戦争へと進展した。
 このような情勢下でも、高宗はロシアに密書を送るという密使外交を続けていた。そこで日本は、一九〇五年に第二次日韓協約を結んで韓国統監府を設置、高宗から外交権を奪った。日本は日露戦争に勝利し、ロシアの朝鮮半島への介入を阻止した。だが、一九〇七年、高宗は第二次日韓協約の無効を訴え第二回万国平和会議に密使を派遣するという、ハーグ密使事件を起こす。だが、そもそも高宗の態度は、外国の威を借りて日本を排除しようという「夷をもって夷を制する」であり、それまでも無節操な事大を繰り返したため各国の信頼を失い、この訴えは退けられる。
 日本は高宗の行動に激怒、朝鮮内の改革派ももはや李朝朝鮮での自主改革は無理と諦め、日韓合邦を望むようになっていった。そして、高宗を退位させ、流れは日韓合邦へ大きく傾いていったのである。
 だが、日韓合邦は日本が一方的に望み、押しつけたものではなかった。日韓合邦については、当時、日本と韓国の双方とも、政府、民間を問わず、賛否両論の論議が交わされていた。日本国内では、最後の朝鮮統監にして後に初代朝鮮総督となる寺内正毅などが合邦の推進派であったが、同じく統監経験者の伊藤博文、曾禰荒助は反対していた。
 また、日本の世論の多くは、日韓合邦が百害あって一利なし、とまで極論していた。
 一方、韓国では儒林・両班の多くが合法に反対したものの、一〇〇万人の会員を有すると称する朝鮮最大の政治団体一進会をはじめとする合邦推進諸団体が、韓国の混乱と衰微を食い止める手段として合邦に希望を抱いていた。
 一進会は、韓国の凋落の原因が自分たちの反省と自覚の欠如にあるとし、欧州で覇を唱えているドイツ合邦国家のごとく、同文同種の韓日も合邦しアジアの雄邦たらんと主張した。
 さらに、李完用(大韓帝国政府首相)ら、現在では「七賊」と罵倒される閣僚たちも合邦に賛成した。李完用は、元親米派で、のちに親露派となり、やがて親日派となった。韓民族が列強時代に生き残るために列強諸国と渡り合うことの必要性を痛感し、苦悩した人物であった。そしてそのために日韓合邦を支持したのである。
 日韓双方の賛否両論の中で、伊藤博文の暗殺事件が起こり、これにより合邦論が高揚、日韓合邦のきっかけとなったことは周知のことである。
 それだけではない。当時国際的に利害関係の深かった列強――英、米、独、仏なども、そろって日韓合邦に賛成していたのだ。
 アメリカの外交史研究家タイラー・アンネットはルーズベルト大統領が、「長い間海上に遺棄され、航海に脅威を与える船にも似た韓国が、今や綱をつけて港に引き入れられ、しっかりと固定され」たとして、肯定していたことを書いている。大統領自身、小村寿太郎外相に、「将来の禍根を絶滅させるには保護化あるのみだ。それが韓国の安寧と東洋平和にとって最良の策である」と語っている。
 英国は一九〇〇年の北清事変(義和団の乱)後に締結した日英同盟のよしみがあったことで、合邦支持に回った。イギリスの外相ランズダウンも、独り立ちできない韓国が日本の保護下に置かれることは当然だ、と語っていた。イギリスはすでにポーツマス条約締結前の第二次日英同盟の第三条で、「グレートブリテンは日本が該利益を増進するため、正当かつ必要と認める指導、監理及び保護の措置を韓国において執る権利を承認する」と記している。
 そしてこの英国の支持が前述の米国の支持へとつながった。米国は日露戦争の講和斡旋も行っており、その後の日英米三国の友好関係から考えれば、日韓合邦の米英の支持は納得できるであろう。
 しかし独仏まで日韓合邦に理解を示したのは、なぜだろうか。日清戦争後の三国干渉は、独仏露によるものであった。日本とはかなり利害関係が対立していた国々だ。それでも日韓合邦に同意した背景としては、日露戦争後、西欧諸勢力がアジアから大きく後退したが、日本をアジアに欠かせない安定勢力と捉え、東北アジアの永久安定、ひいては「東洋の永久平和」を期待して日韓合邦を支持したのだろう。
 じっさい、日韓合邦後になって日米新通商航海条例が調印され、日本の関税自主権が完全に確立した。第三回日英同盟協約も改定され、やっと日本は列強から「自主の国」と認められたのだ。
 さらに、日韓合邦にはロシアまでが同意している。日露戦争に敗北した以上、もはや日韓合邦の大勢に抗することができなかったからである。
 一方、伝統的に一〇〇〇年以上の宗主国であった中華帝国にとって日韓合邦とはとんでもない造反であり、もっとも反対するはずの清国も、異議を唱えなかった。それは、もはや口を出す力もなかったからだ。それは日韓合邦の翌年に辛亥革命が起こったことからも、一目瞭然だ。
 もちろん、日本もいきなり日韓合邦に踏み切った訳ではない。「東洋の永久平和」のために、半島に対して「不干渉条約」「開化政策」「自治育成政策」「統制政策」さらにタイのような緩衝国としての「中立国政策」も試みたが、これらはことごとく失敗した。万策が尽きて最後に残っていたのは、「同君合邦国家」しかなかった。
 こうして二〇世紀初頭の潮流と国際情勢下で、日韓双方の官民が賛否両論に別れながらも、日本政府が各国(列強)へ合邦を打診し、列強を主とする万国が賛成することで、日韓合邦は成立したのである。
 日韓合邦は当時において最適な選択だったといえよう。ことに日清・日露戦争後になると、ポスト日露戦争の東アジア世界には、日本以外の安定勢力はなかった。列強が「東洋の永久平和」を日本に期待し、万国が日韓合邦を支持した理由は、まさしくそこにあった。
 日韓合邦は、この時代の流れから見なければならない。(p83)