元寇は高麗寇だった

『こうして捏造された韓国「千年の恨み」』松木國俊

 一二七四年の文永の役、一二八一年の弘安の役の二回にわたり、元軍は日本に大挙して侵攻しました。実はその時、多くの日本人をむごたらしい方法で虐殺したのは大部分が高麗兵だったのです。記録に基づいて、その実態を確認してみましょう。

 「文永の役」の虐殺

 文永十一年十月五日、蒙古人と漢人からなる混合軍二万人と、金方慶が率いる八千人の高麗軍を乗せた九百隻の元軍船団が、最初に対馬を襲いました。手勢八十騎で立ち向かった宗助国は奮戦空しく多勢に無勢で討ち死にし、日本軍を打ち負かした元軍は島内に侵攻して老人や子供まで悉く斬り殺し、地獄のような有り様となりました。女性は生け捕りにされたうえ、掌に穴を開けられ、そこに綱を通して船べりに結び付けられたといいます。この時の様子が、蒙古来襲関連資料集『伏敵編』(山田安栄編)のなかの『高祖遺文録』(日蓮の遺文を集めたもの)に次のように記されています。
 「去文永十一年太蔵甲戌十月ニ蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有リシニ、対馬ノ者カタメテ有シ、総馬尉等逃ケレバ、百姓等ハ男ヲハ或ハ殺シ、或ハ生捕ニシ、女ヲハ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付、或ハ生捕ニス、一人モ助カル者ナシ。壱岐ニヨセテモ又如是」
 百姓とは一般人のことであり、この記録にもはっきりと一般人の男は殺されたり生け捕られ、女性は手に紐を通されて船に結わえ付けられたり、生け捕りにされて一人も助かるものはなく、壱岐でも同じだったと書かれています。さらに編者の山田安栄氏はこの部分に、次のような解説を加えています。
 「索ヲ以テ手頭ト手頭トヲ連結シタルニ非ズシテ、女虜ノ手掌ヲ穿傷シ索ヲ貫キ舷端ニ結著シタルヲ謂フナリ。日本書紀天智帝二年紀ニ、(百済王豊璋嫌福信有謀叛心以革穿掌面縛)トアリ以テ證スベシ」
 つまり編者は、「百済王豊璋が福信に謀叛の心があるのを嫌って、革をもって掌を穿ち縛る」という記述が日本書記にあることから、古来より朝鮮半島には手に穴を開けて革や縄を通すやり方があり、捕えられた女性たちは縄で手を縛られたのではなく、手に穴を開けてそこに縄を通されたと断じています。それが朝鮮半島の伝統的行為である以上、壱岐対馬での残虐行為は当然、高麗兵の仕業だったのです。
 その後、博多湾に上陸した元軍は日本軍の激しい抵抗に遭って僅か一日で退却し、博多湾を出た途端に暴風雨(神風)にあって大半の船が沈没しました。それでも逃げ延びた元軍は帰途、再び壱岐対馬に上陸して童男、童女二百人あまりを捉えてフビライ王に差し出しました。せめてもの戦功としたかったのでしょう。

 高麗王がフビライをけしかけた「弘安の役

 弘安四年五月、元軍は再び日本を襲いました。今回は東路軍四万人、軍船九百隻、江南軍十万人、軍船三千五百隻で、前回より遥かに大軍でした。実は、この第二回目の日本侵攻をフビライに勧めたのが高麗の忠烈王でした。彼は一二七八年にフビライに対して、次のように訴えています。
 「日本はただの野蛮な島でありながら、交通の難しいのをいいことに元朝に来貢せず、あえて皇帝の軍隊に抵抗しています、わたしが思いまするに、(あの国は)元朝の徳に報いることはありません。この際船を造り食料をためて、罪を強調して討伐しようと思います」(『高麗史日本伝』)
 そして、忠烈王は自ら第二の長官として東路軍の統轄者となり、出発地の合浦で軍馬を閲兵して東路軍を送り出したのです。"元寇"はまさに"高麗寇"ともいえるものでした。

 「千年の恨み」高麗兵の残虐行為

 「弘安の役」では、合浦を出た東路軍はまず独自で壱岐対馬を攻めました。対馬へは高麗軍のみが上陸して文永の役を上回る残虐な殺戮を行い、対馬は再び阿鼻叫喚の地獄絵の世界となりました。その時の高麗兵の残虐行為について、『日本思想体系20』所収の『八幡愚童記下』は次のように記述しています。
 「ソノ中ニ高麗ノ兵船五〇〇艘ハ壱岐対馬ヨリ上リ、見ル者ヲバ打殺ス。人民堪難テ、妻子ヲ引具シ深山ヘ逃入処ニ、赤子ノ泣声ヲ聞付テモ押寄ケレバ、片時ノ命モ惜ケレバニヤ、サシモ愛スル緑子ヲ我ト泣々害シツツ、世ノ中ニ最惜キ物ハ子也ケリ 其ニ増ルハ我身也ケリ」
 高麗の兵は山奥まで掃討しており、赤子が泣けばこれを聞きつけて高麗の兵がやってくるので、泣く泣くわが子を殺すという凄惨な状況が繰り広げられていたのです。
 この折、壱岐に攻め入った元軍は島民を捕え、妊婦の腹を裂いては胎児を摑みだし、乳呑み児は股を引き裂き、捕えた男女は耳や鼻を削り、その苦しむ様を見て楽しんだといわれています。また、ここでも女は犯されて手に穴を開けられて船べりに吊るされたそうです。
 高麗の兵船が特に"残虐的"だったという分析もあり、実際に七百年後に高麗兵の子孫である韓国軍が同じような残虐行為をベトナムでやっています。当時の島民が高麗兵の手にかかるのを恐れ、自分の愛する赤子を殺すという切羽詰まった気持ちになったのも当然かもしれません。元軍は再び暴風雨(神風)によって壊滅しましたが、高麗兵が犯した残虐行為は日本人に大きな傷跡を残しました。
 読者の皆さんは、「むくりこくりの鬼がくる」という言葉をご存知でしょうか。"むくり"は"蒙古"、"こくり"は"高麗"の意味で、子供を脅していうことを聞かせるための言葉です。「むごい」という言葉の語源とも言われています。蒙古人と高麗人の恐ろしさが日本人の心にしっかり刻まれ、それがこのような言葉として現在でも残っているのです。
 文永の役からまだ七百数十年しか経ていません。朴槿恵大統領が「千年の恨み」を言うのなら、まず壱岐対馬に「高麗軍蛮行の碑」を立て、教科書にもしっかりと高麗兵の残虐行為を書き、"高麗寇"被害者遺族に心からの謝罪と補償をするのが先決でしょう。(p179)


『韓国の大量虐殺事件を告発する』北岡俊明 北岡正敏

 元寇高麗兵(朝鮮兵)の再来である
 韓国兵の民間人の殺し方は、残虐きわまりない。異常を通り越し、狂気である。この世のものとは思えない殺戮をしている。
 強姦し、放火し、妊婦の腹を裂き、首を斬り落とし、手足を切り裂いた。しかも、女、子供、老人、老女、ゼロ歳児もいる。とりわけ、女性が圧倒的に多い。今回の調査で確認した。虐殺場所によっては、ほとんど全部が女性だった。ゼロ歳児、一歳、二歳、三歳…と一〇歳未満の幼児を平気で殺戮している。これは鬼畜か悪鬼の仕業だと思った。
 食べものを与えるとウソを言って村人を集めて、手榴弾を投げ込み、銃撃し、殺戮した。あまりの残虐性に、調査しながら嘔吐を催すほどであった。これ以上の残虐行為は、この世に存在しないだろうと思った。
 筆者たちは歴史を思い出した。これは八〇〇年前の元寇の時、対馬壱岐を襲った高麗兵(朝鮮人)の残虐行為とまったく同じである。これは二八頁の絵1・2をみると、殺戮のやり方が八〇〇年後の韓国兵とまったく同じである。……
 ベトナム政府は「過去にフタをしよう」という政策を出している。韓国政府はその善意に悪のりをしている。しかし、我々が調査した村々の、素朴な農民は、みんなしっかりと韓国軍の残虐行為を記憶している。今もなお韓国に対して恨みをもち、復讐したいと言う人が数多くいる。この事実を、韓国人はしっかりと胸に刻んでおいたほうがいい。今、ベトナムに大量進出し、大きな顔をしているが、自分たちの先祖が行った「人道に対する罪」という戦争犯罪が明るみでる時がきたのである。「天網恢恢疎にして漏らさず」である。

 壱岐にある少弐の千人塚
 壱岐元寇七百二十年記念実行委員会が編集し、白石一郎氏が監修した「元寇」には、千人塚についてつぎのような説明がある。
 「壱岐に上陸した高麗軍は島の人々を見つけ次第殺しました。男女子供の区別なく極めて残酷な方法であったと伝えています。乳のみ子の股を引きさいたり、壮年の男を捕えると耳や鼻を刃物でそぎ落とし、その痛さに苦しみもがくようすを楽しんだともいいます。また、女性を捕えて一ヶ所にあつめ、掌に穴をあけ網を通して引きずりまわし、ついに軍船の船べりに結びつけ瀕死させたといいます」。

 元寇・高麗兵(朝鮮兵)の残虐ぶり(『元寇反撃護国美談』より)
 絵は壱岐における残虐行為を描いたものである。絵1は戦死した日本軍の肝を食べ、血をすする高麗兵である。絵2は槍で女性を刺殺し赤子を踏み殺している高麗兵が描かれている(柴山居士『元寇反撃護国美談』護国堂)。(p25)