朝鮮戦争

北朝鮮現代史』和田春樹

 北朝鮮の指導者は国共内戦の進展に強い刺激を受けていた。一九四八年一一月には満州全域が中共軍の支配下に入った。満州での戦争にサンクチュアリーを提供し、これを直接たすけていた北朝鮮は大いに鼓舞された。満州朝鮮族のメディアも朝鮮民主主義人民共和国の建国と満州の解放とを結びつけ、蔣介石とともに李承晩を打倒せよという声を挙げはじめていた。(p49)


 韓国の李承晩は中国の事態から逆の危機感を強め、「北伐統一」を一九四九年の初めから公然と打ち出した。この構想は、国民党政府が北方の軍閥に対して進めた、かつての中国の内戦をモデルとしていた。一月末から二月はじめにかけて、南の警察と軍は三八度線を越えて、攻撃をおこなった。李承晩はそのころ訪韓した米陸軍長官ロイヤルに北進の希望を伝え、軍隊の増強、装備と武器の提供を求めている。しかし、アメリカ政府は支持を拒否した。(p49)


 三月からは韓国側の侵入攻撃事件がふたたび起こり、四月には韓国の北進攻撃が六月にあるとの秘密情報が伝わって、ソ連指導部はおびえた。他方で四月二三日、中国人民解放軍揚子江を越えて、南京を陥落させた。北朝鮮の士気はますます上がり、ソ連は中国革命を認知することを迫られた。(p50)


 韓国の李承晩も、九月三〇日にアメリカ人の元秘書ロバート・オリヴァーに「私は、われわれが攻撃的方策をとり、われわれに忠実な北の共産軍と合流し、平壌にいるそれ以外の共産軍を一掃するのに、今が心理的な絶好機だということを痛切に感じます」と書き送っている。しかし、オリヴァーは一〇月一〇日、「そのような攻撃、あるいは攻撃を語ることですら、米国の官と公の支持を失うことになる」、侵略に似た行為をさけ、「起こることへの非難がロシア人にふりかかる」ようにすべきだと回答した。李承晩も待つことをよぎなくされたのである。(p52)


 北人民軍への攻撃命令は、六月二三日と二四日に出された。そして軍事行動は二五日未明に三八度線の全線ではじまった。シトゥイコフ大使は二六日にモスクワに報告している。

 部隊は六月二四日二四時までに出発位置についた。軍事行動は現地時間(二五日)午前四時四〇分にはじまった。

 六月二五日は日曜日であり、北人民軍部隊の攻撃は韓国軍にとって完全に不意討ちだった。韓国軍は必死で防戦したが、圧倒的な攻撃を前に後退を余儀なくされた。(p56)


『韓国現代史』木村幹

 しかし、金大中はこの時点では本当の状況の深刻さを理解していなかった。

 いまでも耳に残っているのは申性模国防部長官の話です。長官は「もし大統領の命令が下れば、韓国軍は三日で平壌まで、一週間で中国と北朝鮮の国境の鴨緑江まで行き、鴨緑江の水を汲んで大統領に捧げることができる」と言っていました。ですから戦争になれば韓国が勝つと思っていたのです。あれほど韓国の軍隊が弱いとは思ってもいなかったのです。
                    (『わたしの自叙伝』七九頁)(p45)


 北朝鮮軍侵攻の情報が、李承晩大統領に伝えられたのは午前八時とも一〇時とも言われている。ある説によれば、この情報に接したとき、李承晩大統領は、日曜日の日課である昌慶苑[現在の昌慶宮]での魚釣りを楽しんでおり、この情報を聞いてもそれをただちにやめなかったと言われている。(p46)


 しかし状況は開戦二日目を過ぎると劇的に変わった。なぜなら、前日朝九時半に三八度線に近い開城が北朝鮮の手に落ちたのに続き、北朝鮮の主攻撃線上に位置する要衝、議政府も陥落することになったからである。これを受けて、三日目の二七日午前一時には、韓国軍首脳部は、「(組織的軍隊としての)韓国軍は崩壊した」との認識に到達し、「米軍の援助」を待ち、政府と軍本部を南方に後退させるための作戦に転換する。韓国軍は防御線を、ソウル市の北東方、さらには市内にまで後退させ、そのための時間稼ぎに徹することになる。
 こうして韓国政府のソウル脱出作戦が開始される。(p47)


 朝鮮戦争の緒戦で惨敗を喫し、自らの軍隊の指揮権を米軍に譲り渡さざるを得なかったことは、李承晩のプライドを著しく傷つけた。以後、李承晩は、アメリカの決定に再三にわたって反対するようになった。北朝鮮軍捕虜の送還をめぐる「反共捕虜」釈放問題や、朝鮮戦争の休戦など、李承晩はアメリカの決定にことごとく反対し、手を焼いたアメリカは、やがて李承晩を政権から排除することさえ考えるようになる。(p66)