飢饉が生んだ大改革

『徳川がつくった先進国日本』磯田道史

 幕府中興の祖、吉宗の行った改革

 江戸時代の社会は、二百六十年にわたって平和を維持することができた、世界史上まれにみる安定社会でした。第1章では、ロシアとの対外危機を回避した徳川幕府が、民の生命・財産を尊重するという価値観を再認識し、結果として、江戸時代の後半期にいたるまで社会の繁栄を持続させていった過程に目を向けました。
 では、そうした民を守る政治という意識は、いつ、どのようにして生まれたのか。この章では、それを探るために、天明年間(一七八一~八九年)に時代をさかのぼってみます。時代のターニングポイントと位置付けるのは、天明三年(一七八三年)に起きた浅間山噴火と、その後の大飢饉、いわゆる天明の飢饉です。江戸時代は農業社会でしたから、自然環境が今とは比べ物にならないほど、人びとに大きく影響しました。この視点から江戸時代を考え直す必要があります。
 まず、政治史的な流れについて押さえておきたいと思います。八代将軍徳川吉宗は、享保の改革を推進して弛緩した幕府財政・政治の引き締めをはかったことで、歴代将軍のなかでも徳川中興の祖とされます。(p49)


 吉宗が将軍に就任した当時、すでに幕府財政は非常に逼迫していました。吉宗は財政再建のため、享保の改革を主導します。改革の柱となったのは、緊縮財政と農業生産の向上でした。支出を削り、生産向上によって収入を増やすのが、何といっても改革の王道です。紀元前から現代にいたるまで、財政立て直しの方法は変わっていません。
 吉宗は、緊縮財政を推し進めるために倹約の徹底を図ります。しかし、いくら財政支出を抑えても、税収を増やさないことには赤字財政を根本的に解決することはできません。そこで税収を増やすため、吉宗は二つの政策を断行しました。一つは新田開発であり、もう一つは年貢の増徴です。…
 こうした努力により、幕領の年貢総額は、享保元年(一七一六年)から十一年までは年平均で百四十万石だったのが、享保十二年から元文元年(一七三六年)までは百五十六万石となりました。年平均で、十六万石も増加していることがわかります。幕領の統治にあたる者たちが「ごまの油と百姓は絞れば絞るほど出る」と述べたと噂されたように、徹底した年貢増収に邁進したのです。…
 しかし、一方では吉宗政権が行った強引な年貢増徴は庶民の不満を増大させ、代官の罷免を求める訴えや、百姓一揆が頻発するという事態を招いてしまいます。こうした動きは、幕府統治を不安定化させるマイナス要因ともなりました。(p51)


 田沼政治の功罪

 吉宗政権の後に幕府財政の改革を担ったのは、老中田沼意次(おきつぐ)でした。意次の父田沼意行(もとゆき)はもともと紀州藩士でしたが、藩主の吉宗が将軍となった際に江戸に随行し、そのまま新参の旗本となった人物です。…
 田沼は、一般的には賄賂政治を行った人物と認識されていますが、実際には商品経済、貨幣経済の進展を見据えて、それまで年貢収入だけに依拠していた幕府の財政基盤を見直そうと試みた、先進的な一面をもつ政治家でした。田沼は商業や流通の面から、幕府が収入を得られないか、と工夫をこらし、米依存の幕府に新たな財源を求めようとしたわけです。その政策は、今日では重商主義的な積極政策と評価されています。
 なかでも代表的な政策は、株仲間の積極的な公認でしょう。株仲間はそれ以前からも存在しましたが、田沼は米以外の特産品や商品生産とその流通に携わる商人層に、積極的に株仲間を結成するよう働きかけたのです。(p54)


 しかし社会や経済は生き物で、どんどん変化します。税制が古いままでは、体形が変化するのに服を変えないのと同じでおかしなことになります。社会経済の変化にあわせて税制を変えていける国家は生きのびますが、新税制を作るのは既得権がからんでむずかしいものです。しかし、田沼はこれに手を出しました。
 この田沼の財政策により、幕府財政は好転へと向かうかにみえました。しかし、やがて天明年間に入ると、天候不順が続き、各地で凶作が続くようになります。商業に興味がむき、農村への救済策が不十分な田沼の政策は裏目に出て、疲弊した農村を捨てて都市へ流れこむ人口が急増。その結果、農村は荒廃の一途を辿るという深刻な事態を招いてしまうのです。(p55)


 翻って考えてみますと、将軍吉宗にしても田沼にしても、その施策の根本は、幕府の財政難をいかに解決するかということでした。極論すれば、幕府の金蔵を満たすことが、彼らの目標だったといっても差し支えないでしょう。新田開発も商業・流通への注目も、その目的はあくまでも幕府財政を好転させることであり、領民福祉の実現が最終目的ではありませんでした。方法こそ違えども、幕府財政の増収を目的にする点では、吉宗も田沼も同じでした。
 現代政治においても、財政再建、財政の健全化は往々にして大きな政治課題・目標に位置付けられます。しかし、それが自己目的化してしまうと、本末転倒になります。現代の国家における政治や税制の目的は長い目でみた国民福祉の実現にあります。現代国家は税金で食べている人たちのものではありません。社会経済の変化にあわせて税制を変えながら、持続可能な福祉を国民全体に提供しつづけるのが現代国家の仕事です。…
 では、持続可能な国民福祉という思想の芽生えは、江戸時代にあったのでしょうか。実は、ようやく、このころ不完全ながら世を経綸し、人民を救うという「経世済民」の思想にもとづいた行政が生まれようとしていました。財政を健全化することは大事だけれども、領民を生かす政策をとって初めて統治はうまくいくという思想が生まれてきていました。それまでの幕藩体制下における幕府のあり方は、まさに「財政あって福祉なし」。現代のように、税をとる代わりに対価として行政サービスを施すという考えは、当時の幕府にはありませんでした。(p56)