ゾルゲ事件とコミンテルンの関係

日本共産党中韓筆坂秀世

 ゾルゲ事件コミンテルンの関係

 当時のソ連は、日本がドイツと結びついて対ソ戦に踏み切ることを非常に警戒していた。「二七年テーゼ」や「三二年テーゼ」からも、そのことがうかがえる。…
 当時コミンテルンが最も知りたかったのは、日本軍が北方のソ連に向かうのか、資源獲得のために南方のイギリス領マラヤやオランダ領東インドに向かうのかであった。
 その時に活躍したのが、すでに日本にスパイとして送り込まれていたリヒャルト・ゾルゲである。昭和八年(一九三三年)九月にドイツ紙の新聞記者かつナチス党員として日本に赴任したゾルゲは、駐日ドイツ大使に接近して主にドイツの情報を収集し、ソ連に報告していた。
 ゾルゲは昭和一六年(一九四一年)一〇月一八日にスパイ容疑で逮捕されるが、その直前、後述する尾崎秀実を介して日本軍はソ連と戦う意思がないという情報を掴み、ソ連へ打電した。その結果、ソ連は対日本軍に備えて満州やシベリアに配備していた精鋭部隊を対独戦に投入することができ、最終的には二〇年五月、独ソ戦に勝利する。
 検察側の調査によれば、ゾルゲの秘密諜報機関は、ソ連擁護のためにコミンテルンの手により日本国内に設置された。その主要な任務は、日本の対ソ攻撃からのソ連の防衛ないし日本の対ソ攻撃の阻止に役立つ諜報の探知収集であった。ゾルゲ自身はソ連共産党中央委員会および赤軍参謀本部第四局に所属して、日本の政治、外交、軍事、経済等の機密を探知し、ソ連共産党最高指導部、すなわちソ連政府最高指導部に通報していた。
 ゾルゲは、検事の尋問に対して、「私をはじめ私のグループは決して日本の敵として日本に渡来したのではありませぬ。また私たちは一般のいわゆるスパイとは全くその趣を異にしているのであります。英米諸国のいわゆるスパイなるものは日本の政治上、経済上、軍事上の弱点を探り出し、これに向って攻撃を加えんとするものでありますが、私たちはかような意図から日本における情報を蒐集したのではありませぬ。私たちはソ連と日本との間の戦争が回避される様に力を尽してもらいたいという指令を与えられたのであります」と答えている。つまり、ゾルゲの主任務は、日本軍が北方ではなく、南方に向かうように工作することだったのである。

 尾崎秀実とゾルゲの出会い

 「ゾルゲ事件」で、ゾルゲとともに死刑になった尾崎秀実は、朝日新聞の記者であると同時に、近衛文麿政権のブレーンも務めていた。そのため、政府の最上層部、中枢部と接触でき、政策に大きな影響を与えていたと言われている。
 昭和三年(一九二八年)、尾崎は大阪朝日新聞上海支局に赴任し、アメリカ人ジャーナリストであり、すでにコミンテルンのもとで活動していたアグネス・スメドレーと出会い、情交関係を結んでいた。その後、上海滞在中にスメドレーの紹介でゾルゲと知り合う。
 昭和七年(一九三二年)に大阪朝日新聞本社に戻り、来日していたゾルゲの要請で、尾崎は諜報組織に加わったとされている。尾崎は、逮捕後の取調べで、「我々のグループの目的・任務は、狭義には世界共産主義革命遂行上の最も重要な支柱であるソ連日本帝国主義から守ること」であったと供述しているように、完全な共産主義者であった。彼は、同僚はもちろん、妻にまで正体を隠していたという。…
 コミンテルンは、一方では日本共産党を使い、他方ではスパイ諜報機関を使い、日本軍の北進を抑えようとした。結果論としては、それは成功したと言える。(p35)