中国共産党との関係

日本共産党中韓筆坂秀世

 私が日本共産党に入党した頃、中国共産党との関係はといえば、ひとことで言って最悪であった。毛沢東主導の「文化大革命」をめぐって、日本共産党中国共産党は大喧嘩の最中だったのだ。
 中国共産党は、毛沢東の思い通りにならない日本共産党に対して「宮本修正主義集団」と当時の宮本顕治書記長を批判し、日本人民の前には「四つの敵」(アメリカ帝国主義、日本の反動勢力=佐藤栄作内閣、現代修正主義=ソ連修正主義、そして日共・宮本修正主義)がいるとして、この打倒を呼びかけていたのである。日本共産党の打倒を目指すというのだから、穏やかではなかった。
 きっかけになったのは、昭和四一年(一九六六年)三月に訪中した宮本顕治書記長(当時)らと、劉少奇、鄧小平との会談である。中国側が、革命運動の唯一の道として武装闘争を絶対化する態度を取ったことに対し、日本共産党がそれを否定したことだった。
 その後、宮本書記長は毛沢東との会談でも、当時、中国共産党が修正主義として強く批判していたソ連共産党を、日中両党共同声明において名指しで批判するかどうかをめぐって決裂した。後述するが、ちょうどこの時期、毛沢東文化大革命を開始する。
 日本共産党毛沢東主席との関係が最悪になっていた昭和四二年(一九六七年)、私が入党してすぐ読まされたのが、毛沢東毛沢東路線を批判する長大論文の数々だった。
 毛沢東とその路線に関連して同年に発表された主な論文だけでも、次のようなものがあった。日付はいずれも「赤旗」に掲載された日である。
 「在日華僑学生らの襲撃事件について、北京放送などのわが党と日中友好運動にたいする攻撃に反論する」(三月一五日)
 「評論員論文 極左日和見主義者の中傷と挑発」(四月二九日)
 「攪乱者への断固とした回答――毛沢東一派の極左日和見主義集団とかれらに盲従する反党裏切り分子の党破壊活動を粉砕しよう」(八月二一日)
 「今日の毛沢東路線と国際共産主義運動」(一〇月一〇日)
 当時、中国では毛沢東の個人崇拝が強要され、「現代のもっとも偉大なマルクス・レーニン主義者」、
「沈まない太陽」と礼賛され、その名前の前には必ず「偉大な教師、偉大な指導者、偉大な統帥者、偉大な舵手」と四つの崇拝句が付けられていた。また、紅衛兵と呼ばれた若者が『毛沢東語録』を掲げ、反革命分子と見做した党幹部を後ろ手にして引き回すなど、好き放題に暴れていた時期でもある。
 その光景は、日本のテレビでも連日放映され、日本の国民の間にも、それまでにまして「暴力革命の共産党」「議会政治破壊の共産党」というイメージを拡大し、共産主義共産党への嫌悪感が強まっていた。前掲のいくつかの論文も、要するに日本共産党中国共産党とは違って「暴力革命の政党ではありません」、「議会制民主主義を大切にする政党です」ということを必死に説明するものであった。
 したがって、われわれ世代の日本共産党員は、毛沢東に対して良い印象を持つことはまったくなかった。それどころか、とてつもなく迷惑な存在でしかなかったのである。
 中国共産党毛沢東が暴力革命唯一論、人民戦争万能論を、日本共産党や日本の革命運動へ押し付けようとしたのは、文化大革命が行われた昭和四〇年代が初めてではなかった。実はこの路線に従ったために、大きな打撃を受けた歴史が日本共産党にはあったのである。(p56)