十八世紀の秘密外交史

『十八世紀の秘密外交史』マルクス

 解説  石堂清倫

 ここに紹介するマルクスのロシア史研究は、数多い彼の著作のなかでも、もっとも不運なものといわなければならない。ロシア革命いらい、「社会主義の祖国」ソ連では、マルクスエンゲルスの著作は大小となく刊行され、その著作集第一版は一九二八年から、いちじるしく内容が豊富になった第二版は、スターリン死後の一九五五年から、刊行されている。アカデミックな全集(MEGA)も未完に終ったが戦前に発行された。このほか『マルクスエンゲルス-アルヒーフ』といった資料集も存在する。ところがマルクスのこの歴史研究は、それらのどれ一つにものっていない。単行本としても発行されたことがない。つまりソヴェト共産党とソヴェトのマルクス主義者は、戦前といわず戦後といわず、この一篇は完全に黙殺してきたのが実情である。
 ソ連マルクスエンゲルス著作集の編集者が不注意のためこれに限っておとしたわけではない。現に彼らの編集した著作集(日本訳は大月書店版『全集』)第一四巻に次のような記事がある。

 「……私は大英博物館にある外交問題の手稿を調査研究していたさい、一連のイギリスの公文書を発見した。それは十八世紀末からピョートル大帝の時期にまで及ぶもので、ロンドンの内閣とペテルブルグの内閣とのあいだの不断の秘密の協力を暴露しており、それを読むとピョートル大帝の時代が両者のこの関係が生まれたときであるのがわかる。この問題を扱った私の詳細な論文は、これまでにその序論だけを『十八世紀外交史の内幕』という表題で印刷させたにすぎない。それははじめシェフィールドの『フリー・プレス』に、のちにロンドンの『フリー・プレス』に公表された。これは両方ともアーカートの機関紙であった……」(邦訳、四六一ページ)

 だから編集者は知っていて没書にしたのである。マルクス主義者によって否定されるマルクス! いったいマルクスにどんな誤りがあるのか。それだけでもわれわれはこの論文を熟読してみなければならない。これまで発表されているマルクスエンゲルスの著書や論文にも、誤りがあり、歴史の進展にともなって重要性を減じたものもある。彼らは十九世紀の終り近くに、こんど恐慌がおこれば革命になると考えたことさえある。しかし、全集にはそうしたものもすべて収めてある。だからマルクスのこの論文が没書になった理由は誤りを含むといったことではなさそうである。(p03)


 一九三四年の「ソ連邦学校における歴史教育にかんする法令」によって、ポクロフスキー史観(「ポクロフシチーナ」)はロシア民族の進歩的伝統を否定し、抽象的社会主義、経済的形式主義、図式主義、コスモポリタニズムに堕するものと断罪された。ポクロフスキーの罪は理論上誤りをおかしたことにあるよりも、ナショナリズムを積極的にとなえないところにあったものと思われる。
 ソ連では史学におけるスラヴ・ナショナリズムへの転換がおこり、ことに「大祖国戦争期」には、スターリンが国民に訴えたのは「社会主義」よりも「祖国」であり、ピョートル大帝や、クトゥーゾフ、スヴォーロフのような帝政時代の将軍が民族的理想としてほめたたえられる勢いになった。
 このような傾向のつよい環境ではツァーリズム絶対主義をモンゴルのマキアヴェリズムと成吉思汗の世界征服と結びつけるマルクスは、許されない存在ともなったであろう。さすがにスターリンマルクスの名をあげて非難することはなかったが、エンゲルスにたいしては容赦しなかった。(p05)


 エンゲルスは「ロシア・ツァーリズムの対外政策」(一八九〇年)のなかで、ツァーリズムを「全ヨーロッパの反動勢力の最後の要塞」とみなし、ツァーリ絶対主義の顚覆がヨーロッパ革命の序曲になるものと予想している。この論文を、マルクスエンゲルスレーニン研究所長アドラツキー(リャザーノフ粛清のあと、その後任となったもの)が、一九三四年に、第一次世界戦争二十周年記念に党機関誌『ボリシェヴィク』(現在の『コムニスト』の前身)にのせようと提議した。たちまちスターリンが干渉して、イギリス帝国主義の役割を見落し、ロシアを侵略の決定的要因とみなすような欠陥論文を党機関誌にのせてならないと主張した。このスターリン論文は、どうしてか一九四一年五月まで発表されなかっただけでなく、ちょうどこれが入るはずのスターリン全集もこの第一四巻で刊行中止になっている。その経緯とスターリン論文の全文はべつに紹介したことがあるので、興味のある方はそれを参照されたい(雑誌『現状分析』第三九号)。(p06)