戦争を煽っていたのは左翼

近衛文麿 野望と挫折』林千勝

 尾崎秀実が果たした"歴史的な役割"は、実は、これまで記してきた「諜報者」としての役割よりも「扇動者」としての役割のほうがより重要です。
 尾崎は、日本、支那ソ連のどの国の共産党員にもなっていません。終始ひとりの自由で独立した共産主義者として策を練り発信する扇動者であったのです。
 尾崎は昭和九年から朝日新聞社の東亜問題調査会に籍をおきながら、『改造』・『中央公論』などの雑誌に華々しく支那問題について寄稿し数多くの論文を発表します。
 盧溝橋事件が勃発してからは、蔣介石政権を激しく罵倒し、日本人の国民党政府への侮蔑感を形成することに全力を注ぎました。
 スメドレーからの情報が役立っています。
 「国民党政府は、半植民地的・半封建的の支配層、国民ブルジョア政権」「国民党政府は、官僚階級、地主階級、および新興資本家階級、軍閥の代表者を主として構成されている」「南京政府の支配は一種の軍閥政治と見ることができる」など。
 そして日本国民と軍、そして政府を支那事変完遂にむけて煽りにあおっていったのです。同時に支那側には日本に対する巨大な敵愾心を燃やさせたのです。
 尾崎の論文は月平均三本というハイペースでした。近衛内閣嘱託という肩書きがついてからは影響力は数倍になりました。論壇の第一人者として支那事変の全面的拡大と永続化を使命としたのです。
 尾崎の狙いは、中国の共産化、日本の共産化への環境整備、そしてソ連防衛でした。支那事変を利用して、蔣介石と日本を疲弊させ、さらに日本を敗戦必至の対米戦に追いこみ、それにより共産中国および共産日本を建設しようとしたのです。
 革命戦士として尾崎は風見と志をひとつにしていました。
 近衛は尾崎の志と才能に着目し利用したのです。
 『改造』昭和十三年五月号に掲載された尾崎の論文「長期抗戦の行方」を抜粋で見ていきます。
 「日支戦争が始まって以来既に八ヶ月が流れてしまった」
 「戦いに感傷は禁物である。目前日本国民が与えられている唯一の道は戦に勝つということだけである。その他に絶対に行く道はないということは間違いの無いことである。『前進! 前進!』その声は絶えず叫び続けなければなるまい」
 そして後半で「憂国の老先輩」に託して次のように絶叫します。
 「日本が支那と始めたこの民族戦の結末を附けるためには、軍事的能力をあく迄発揮して敵の指導部の中枢を殲滅する以外にない」
 「支那を征服した二つの民族戦の場合、元が南宋を亡ぼすのに四十五年、清が明を亡ぼすのに四十六年かかっている」
 支那事変は「民族戦争」であり、「敵の王を殺すまで四十年以上を覚悟して聖戦を完遂せよ」というとんでもない扇動です。
 同じ年『中央公論』六月号に尾崎が寄稿した「長期戦下の諸問題」と題する論文では、和平へのうごきを激しく批判します。
 尾崎は昭和研究会の「支那問題研究会」を「民族部会」と改称したうえで風見から責任者の地位を引きついでいました。……
 尾崎は昭和十六年十月十五日に検挙されますが、その数日後に「大戦を戦ひ抜くために」と題する尾崎の論文が掲載された雑誌『改造』十一月号が発売されました。(p100)


 さらに昭和十七年三月から四月にかけて、数百人の関係者の参考人取り調べと広範な検挙が行われました。十一名が逮捕、そのうち三名が起訴されます。
 尾崎の親友でやはり近衛内閣の嘱託であった西園寺公一衆議院議員にして汪兆銘南京国民政府の財政顧問の犬養健のほか、尾崎と同期入社で朝日新聞政治経済部長の田中慎次郎陸軍省詰め記者の磯野清も尾崎の情報源として検挙されています。
 西園寺は朝飯会や内閣嘱託の立場を利用して得た国家機密を尾崎に流していたので検挙されたのです。
 元内大臣牧野伸顕は、尾崎や西園寺が検挙されたのを見て、近衛に「明治始まって以来今日まで、赤が内閣の門内にまで入っていたということは絶対にない…」と伝えています。
 これに対して近衛は一流のおとぼけで逃げています。風見に比べれば尾崎や西園寺などの存在はたいしたことはありません。(p113)