山奥に逃げ込んだ国民党持久戦の実情

『「日中戦争」は侵略ではなかった』黄文雄 ワック文庫

 蔣介石はなぜ山奥に引きこもったか
 日中戦争の最初の一年半で、中国の六大都市――北京、天津、南京、上海、広州、漢口――のすべて、大港湾のほとんどすべて、鉄道網の八割から九割、工場の大部分が日本軍の手中に落ちた。これがもし欧州の先進国なら、国家の全機能が喪われたとしてふつう降伏するだろう。従来の中華帝国でも同じ道を選んだはずだ。女真人(金)、モンゴル人(元)、満州人(清)は大都市を制圧することで、中国を自分たちのものにした。
 ではなぜ国民党軍は奥地・重慶まで逃げ込んででも抵抗を止めなかったのだろうか。
 その要因はもちろん一つだけではない。歴史学者がよく挙げるのは人口の多さ、民族主義の目覚めなどだが、私は、彼らが逃げ込んだ先が "山奥" である点に注目したい。
 二十世紀の軍閥内戦を見ると、どの軍閥も形勢が不利になると、みな山奥(あるいは租界か外国の大使館)へ逃げている。中国の山奥は交通が発達していないので、討伐軍が追撃してくることがない。軍隊も私兵的性格で結束が強く、「兵匪」であるだけに逞しい。このため李宗仁、馮玉祥、閻錫山、そして共産党も、蔣介石との戦いで負けるたびに都市を放棄し、あるいは下野(引退)を声明して再起を繰り返した。
 そのうえ中国は九〇パーセントが農村であるように、昔から自給自足の社会である。いざというときは原始社会に戻ればよいだけの話だ。山奥とはいえ、彼らには再起をはかる社会的基盤は十分に備わっていたのである。
 中国軍が降伏しなかった要因として、蔣介石が日本との和解の好機を逃したことも挙げられる。そもそも日本との和平交渉など、国内の反日的空気が許さなかった。ひとたび「漢奸」扱いされれば、彼の失脚を願うライバルたちから足をすくわれかねなかった。
 しかし最大の要因は米英ソによる支援だった。重慶に退いた蔣介石政府に、これらの国々はインドシナビルマ、華南、外蒙の陸上ルート(援蔣ルート)を使い、軍事経済援助を行った。もし大東亜戦争が勃発せず、ことにアメリカの巨額の支援がなかったら、重慶政府はいずれ自然消滅していたはずだ。

 交替で蔣介石を支えたソ連アメリ
 ソ連は盧溝橋事件の翌月である一九三七年八月二十一日、国民党政府と不可侵条約を結んだ。そして三八年三月と七月にはいち早く二つの通商条約を締結し、総額一億ドルの対中借款を提供し、軍事物資の購入を支えた。三九年六月には新たに一億五千万ドルの借款条約と一千四百六十万ドルの軍需物資供給契約を結んだ。
 このようにしてソ連は、三七年十月から三九年九月までの間に、飛行機九百八十五、戦車八十二、大砲または榴弾砲一千三百以上、機関銃一万四千以上などを中国軍に提供している。
 また三七年末から三九年二月半ばまでの間、ソ連の軍事専門家三千六百六十五人が対日戦に参加し、このうち二百名以上が戦死した。また航空義勇兵も送り込み、三八年二月には、ソ連義勇兵の操縦する航空機が台北方面の爆撃に成功している。
 その他、ソ連共産党への内面指導や国民党内部での扇動だけでなく、学生や藍衣社(蔣介石直系の特務組織)など反動的団体をも共産主義陣営に取り込み、抗日をバックアップした。しかし一九四二年、中国の国共対立とアメリカ勢力の蔣介石政府浸透により、ソ連の援助は停止する。
 アメリカは、一九四〇年十二月にフランクリン・ルーズベルト大統領が、「独裁国」(独、日ら)と戦う「あらゆる民主主義国」の「平気廠となる」と宣言した。直接派兵はしないが、金とモノならいくらでも供与する、というわけだ。満州事変以降、日本の中国大陸進出にも態度を硬化させ、対中援助を増大させた。だからアメリカは、四一年十二月八日の大東亜戦争が始まった段階で、すでに大量の兵器・物資を重慶政府に貸与しており、軍事顧問団も重慶に駐在させていたのである。この年の夏には中国に三十個師団と小規模な空軍の装備に必要な軍需物資を貸与する計画も立てられていた。
 また優秀な陸海空軍のパイロットや技術者が除隊して編成した「第一アメリ義勇軍」も、この頃訓練を終えつつあった。彼らは後にカーチスP-40戦闘機に乗って日本の隼や零戦と戦うことになる。

 蔣介石の"変心"を憂慮していた米英
 ルーズベルト大統領をはじめ、当時のアメリカ国民の間には中国に対し、宣教師、ハリウッド映画やパール・バックの小説『大地』などを通じて形成された、一種のロマンチックな幻想が広く持たれていた。ジャーナリストも、蔣介石や中国農民たちの英雄的な抗戦ぶりを競って書き立てていた。
 米英両国は対日開戦後、蔣介石の面子を立てて、連合軍中国戦線最高司令長官への就任を要請している。アメリカは一九四五年九月二日(日本の降伏文書調印の日)までに、累計十四億六千九百四十万ドルの物資援助を行った。武器貸与は総額で約八億七千万ドルにのぼったとされている。
 一方、イギリスも一九三九年、一千万ポンドの法幣借款などで中国を援助した。米英は対日開戦後、中国との共同作戦も実施している。
 さて重慶では、アメリカの参戦が報じられると、政府首脳をはじめ群衆は狂喜し、早くも戦勝気分に包まれた。しかし重慶政府には肝心の "戦意" がなかったのである。現地を視察したアメリカのジョセフ・スティルウェル将軍や軍事顧問団、国会議員らは、中国は「自分たちは十分に戦った。今度はアメリカの番だ」とばかりに高見の見物を決め込み、共産軍や他の軍閥との戦いに備えて兵力の温存に努める、腐敗・無気力な政府の姿を報告している。
 ルーズベルト米大統領チャーチル英首相、そして蔣介石中国国民政府主席による一九四三年十一月のカイロ会談は、もともと米英二国の首脳会談になる予定だった。しかしこの国際的な晴れ舞台には、中国の山奥に引き籠る敗軍の将・蔣介石も招かれることとなった。これも、米英が彼の面子に配慮したからである。なぜならアメリカには、「(蔣介石が)日本と何らかの和解をし、あるいは中立を宣言したなら、米国の対日海上作戦は停止することになる」(米海軍司令官ウィリアム・D・レイシー『I was There』)という切実な危機意識があったからだ。
 ルーズベルトの最高軍事幕僚たちは、 "やる気" のない蔣介石が日本と講和してその「傀儡政権」になるか、または対日休戦を宣言して貯蔵してきた武器を内戦で用いるといった危険性を指摘していた。そこで蔣介石を連合軍側に引き止めるため会談に参加させ、満州や台湾という "戦利品" を中国に引き渡す問題まで話し合ったのだ。(p164)