所謂 "南京事件" と東京裁判

大東亜戦争への道』中村粲

 所謂 "南京虐殺" は我軍の南京占領直後に開始されたと、戦後になつて俄かに喧伝され出した。日本人が "南京虐殺" なるものについて聞かされたのは東京裁判と、また東京裁判と併行してNHKがラジオの電波に乗せて全国家庭の茶の間に流した番組「真相はかうだ」を通じてであつた。「真相はかうだ」は進駐軍の要請に従つて作られたものである。(p430)


 検察側は "南京虐殺" を立証するため多数の証人(中国人及び外国人)を立てたが、それらの証言は虚偽や矛盾だらけであつた。殊に中国人の証言の中には、殆ど作り話としか思へないものが少なくなく、それらの言に信を置くことは頗る困難であつた。(p433)


  "数十万の虐殺" 見た者なし

 所謂 "南京暴虐事件" に関する多数の東京裁判弁護側証人の証言を列挙する紙幅はないので、彼等の宣誓口供書及び証言の一致共通する部分のみを総合すると、凡そ次の如くになる。

 (一) 陥落後の南京市内には、光華門など一部の激戦地に日支両軍の戦死体が残つてゐる他は殆ど屍体は見られなかつた。まして数十万の虐殺など見た者も居ないし、また信じられぬことである。
 (二) 下関など南京郊外に若干の戦死体が見られたが、下関では死体を見なかつたと言ふ証人もあり、必ずしも証言は一致しない。
 (三) 市内の路上には敗走する中国兵の脱ぎ捨てた軍服・兵器などが夥しく散乱して居り、彼等が敗退に際して便衣に着換へたことは明瞭であつた。しかも市内には我軍の占領直後、市民の影を見ず、これらの便衣兵は難民区に遁入したとしか考へられなかつた。
 (四) 難民区(安全区)は日本軍憲兵の哨戒が厳重で、特別の許可なき者は将校といへども立入ることは出来なかつた。一般に軍紀・風紀違反や不法行為に対する我が憲兵の取締りは峻厳を極めた。
 (五) 中国兵は退却時に掠奪・放火を行なふのを常習としたが、我軍に於ては失火・放火は厳禁されてゐた。南京郊外の家屋・建物は中国軍の清野戦術で焼き払はれてゐる所が多く、我軍の宿営に困難を来した。南京城内の火災は陥落以前のことで、日本軍占領以後は火災は殆んどなかつた。
 (六) 松井軍司令官が軍紀・風紀の維持に関して厳令を発したにも拘らず、占領前後、若干の軍紀違反・不法行為が発生した。松井軍司令官はこれについて再び軍紀の粛清を厳達した。
 (七) 南京占領後、我軍は約四千の俘虜を収容し、半数を上海へ送り、半数を南京で収容した。我軍は彼等を労役に使用し、のち放免した。しかし武器を携へて安全区に潜伏してゐた敗残兵は軍法会議にかけて処断したことはあり得る。それが無辜の市民の虐殺として誇大に喧伝された。
 (八) 徴発は正当な対価を支払ひ、軍司令部の責任を明確に表示して実施した。
 (九) 中国側は外国権益の不可侵性を悪用し、外国旗を僭用してその下に潜伏したり、日本軍の作戦を妨害しようとしたことが少なくなかつた。
 (十) 南京市民は日本軍を恐れることなく、報酬を受けて労務に従事し、あるいは、自治会の結成に協力した。昭和十三年初頭の治安維持会発会式には数万の市民が集つて歓呼した。要するに我軍占領後、南京の市民生活は速やかに平生に復帰したのであつた。

 右が弁護側証人による陳述の概括であるが、宣伝に終始した検察側証人とは著しく対照的に、その証言は冷静にして理路整然、しかも各人の証言内容は一致し、相互の矛盾が見られなかつた。(p438)


 「便衣兵は市民である」といふ詭弁

 ところが東京裁判では「便衣」に関して日支双方に重大な解釈の相違のあることが分かつた。伊藤清弁護人が検察側の許伝音証人(中国人)に対して、便衣隊員が難民区に潜入したのではないかと反対訊問したのに対し、許伝音は、武装を解いて難民区に入つてくる者は普通の市民とみなすのであり、便衣隊員とは見られてゐない。武器を一度捨てた者は軍人としては見られない、と答へるのみであつた。伊藤弁護人も竟に「この証人から私の能力では真実を訊き出すことはできません」と述べて訊問を打切る他なかつた。
 許の陳述は、彼に正常な証言能力のあることを疑はせる底のものであるが、それとも彼は故意に不明確な答弁をしたのであらうか。だがいづれにせよ、支那側も――そして国際安全委員会も――便衣に着替へて安全区に潜入した支那兵は、もはや兵ではなく市民であるとみなしてゐたことを許の証言は明らかにしたのである。
 昭和七年、第一次上海事変の際、一月下旬から二月上旬にかけての六日間に我軍が逮捕した便衣隊は四百九十七名に上り、そのうち護送あるいは訊問調査の際に隠し持つた拳銃で反抗攻撃を仕掛けてきたため我軍が已むを得ず射殺した便衣は六十六名も居たのであり、これを以てすれば、不備不完全きはまる南京安全区に無数の便衣が反抗の機会を窺つて潜伏してゐたことは容易に考へ得ることであつた。
 それ故、我軍が安全区に潜伏する便衣を狩り出して処刑したとしても、戦時国際法から見て正当な行為なのであるが、支那側が軍服を脱げば兵士も市民であるといふ恐るべき欺瞞の言を弄して、これを "無辜の市民" の虐殺であると主張した。軍服を脱いだ兵は兵にあらず――子供騙しに均しいこのやうな詭弁の上に、 "南京大虐殺" の神話がいつかしら作り上げられて行つた。(p441)


 一枚もない虐殺の「全景写真」

 (二) 前項とも関連するが、三十万の "累々たる死体" の写真が一枚としてないことである。多くの内外の新聞記者やカメラマンが居りながら、南京の街路や町並みを背景にした "累々たる死体" の「全景写真」が今日に至るも一枚も存在しないとは、何とも奇怪ではないか。数名あるいは十数名の "虐殺死体" の写真を見せられても、果してそれが南京で撮影されたものか、断定しようがないのである。かつて朝日新聞南京虐殺の写真として掲載した虐殺死体の写真が、昭和六年頃、朝鮮で販売されてゐた写真で、死体は中国軍に虐殺された馬賊の死体であることが判明した事件がある。これに留らず "南京虐殺" の "動かぬ証拠" と称する偽写真は頗る多い。その中には中国軍による反対派虐殺の写真が、日本軍による中国人虐殺の写真として吹聴され、まかり通つてゐる例も少なくない筈である。 "虐殺シーン" の部分写真では、いつ、だれが、どこで行なつた虐殺なのか特定できないし、また反日宣伝を目的とした演出写真でないとも云へない。なぜ "虐殺" の部分写真は数多くあるのに、南京街路を含む「全景写真」が一枚も存在しないのか。報道写真家ならば、場所が南京であることを示すために、必ず町並みを入れて撮影するのが常識である。それが一枚もないといふのは、やはり "大虐殺" それ自体がなかつたためとしか考へられない。(p446)


 日本人に仮託された中国人の嗜虐性

 日本軍の "残虐行為" についての中国人の荒唐無稽な "証言" は、戦後の東京裁判に始り、それらの "証言" といふよりは "偽証" が累積し、遂には "被殺者三十万以上" といつた途方もない数字が作り上げられたことは既に述べた。
 東京裁判以後、 "虐殺証言" を日本人として補強し、再生産するのに与つたのは朝日新聞本多勝一記者のルポルタージュ『中国の旅』である。これは昭和四十六年秋、同紙に連載された。当時、国連では中国代表権問題が激しく論議されてゐたが、これについて朝日新聞は「国民政府(台湾)切捨て」「中共承認」こそ「世界の潮流」であると盛んに書き立て、"日中国交回復" 世論を盛り上げるのに躍起になつてゐた。その朝日が、日本人に中共に対する罪悪意識を改めて自覚せしめ、中共の前に懺悔、平伏せしめんとの意図から、様々な中共礼賛、日本非難の記事による親中共的な紙面作りに熱を上げてゐたのであるが、本多記者の『中国の旅』も、このやうな朝日の政治的努力の中に位置づけられるべきものであつた。当然、『中国の旅』は極めて政治性の強い、又中国に対して迎合的な姿勢のルポルタージュとなつてゐる。
 筆者が『中国の旅』に敢へて言及するのは、その中に於ける中国側の "虐殺証言" の中に、中国人自らの嗜虐性を日本軍に仮託したものの多いことを指摘せんがためである。本多記者が伝へる "虐殺証言" の一部は次の如くである。(中略)
 これでは日本兵は悪鬼である。いや、悪鬼ですらこの蛮行には目を掩ふであらう。これは人間の所業ではない。さすがは「白髪三千丈」の中国民族。自らの歴史的嗜虐性に持ち前のサディスト的空想力を駆使して、思ひつく限りの猟奇的で残忍な地獄絵を日本兵の行為として描写してみせたものであらう。
 ここでもまた、腸を引きずり出す話が出てくるが、中国人は内臓や腸を引きずり出すことが余程好きらしい。これは「開胸堂」あるいは「拖腸戦」(腹を割き腸をひき出し、その長さを競争する)と云はれる中国特有の虐殺方法である。
 沢山の子供を押し込めて火をかけたり銃撃するのは、「蜀碧」に謂ふ「貫戯」と称される子供虐殺方法に近い(既述)。
 要するに『中国の旅』の中の "虐殺証言" とは、中国人が自らを語つたものと解釈すべきものである。これら "証言" の欺瞞性を指摘することは容易だが、空しい労かも知れない。といふのは、日本軍がこれらの "虐殺" をやらなかつた事実を立証することが極めて困難だからである。ここに登場する姜や潘は、中国政府お抱への "語り部" であらう。
 彼等は、日本側からの反証が出ないのをいいことに、このやうな虚構の "虐殺証明" を語り続け、また拡大再生産してゆくことだらう。そしてそれは『中国の旅』と同じく、無批判に受け入れられ、大量に印刷され、我が日本民族の名誉を汚し、我国の青少年の意識の深層に癒し難い罪悪意識を沈澱させてゆくに違ひない。(p452)