特派員たちの報告

『改訂版 大東亜解放戦争 下巻』岩間弘

 「ニューヨーク・タイムズ」のティルマン・ダーディン記者は次の記事を書き送ったのである。
 「日本軍の下関門(挹江門)の占領は、防衛軍兵士の集団殺戮を伴った。彼らの死骸は砂嚢に混じって積み上げられ、高さ六フィートの小山を築いていた」(註筆者)(後に挹江門から城外に出たスティールも同じく次のように書いた)
 「下関門から城外に出る時、記者の車は、厚さ五フィートに積まれた死骸の上を通過しなければならなかった。日本軍のトラックや大砲も同様に通過した。路上には民間人の遺体、中国軍の装備や兵服が散乱していた」
 厚さ五フィートと言えば、一・五メートルである。そのような死骸の山を日本軍が作ったのかのように仄かされていた。何故そのような死骸の山ができたのか、誰もが知りたいところであるが、一読する限り、挹江門を占領する日本軍が支那軍兵士を集団殺戮したかのようであった。しかし挹江門で日支両軍は交戦していなかったのである。日本軍の挹江門占領以前に、支那軍兵士が「友軍を掃射」し、「多数の死傷者」を出していたのである。
 ダーディンはようやく昭和六十二年(一九八七年)に挹江門で戦闘はなかったと語った。「南京事件資料集①アメリカ関係資料編」によれば、脱出せんとする支那兵が挹江門で衝突し合った。そして「踏みつけ」あって、死骸の山ができた。それが戦後、彼の明かした真相であった。
 同じくスティールも大勢の兵士が挹江門から脱出しようとして「圧死」したと、昭和六十一年に初めて真相を語った。
 従って、右の記事は、支那軍の同士討ちを日本軍の行為に摩り替えていたことになる。事実無根の悪質な虚報であった。(p111)