ホッブズにおける個人と国家

『法をめぐる人と思想』八木鉄男 深田三徳 編著

 ホッブズにおける個人と国家  有馬忠

 シュトラウスは、また、ホッブズの政治哲学体系において、「理性は本質的に無能力である」という。というのは、「自然によってすべての人間は平等に理性的である」からであり、またホッブズがいうように「同じ時間と勤勉さをもって研究し観察する人びとの間で、理由と結論は一致しないし、一致しないままであらざるをえない」からである。こうしてシュトラウスは、このような情念的人間によって設立される主権者について、次のように述べている。

 すべての人間が平等に「理性的」であるがゆえに、一人あるいは多数の人びとの自然的理性の卓越性の欠如の人工的代替物として、一人あるいは多数の任意の個人の理性が、恣意的に基準を与える理性とさせられなければならないのである。……理性を主権的権力によって代替させるのを必要とする、その同じ理由から――すなわち、理性が無能力であるという理由から――しかしながら、いまや理性的な「自然法」もまたその尊厳を喪失し、その場所に、たしかに理性に合致しはするが、もともと理性によってではなく、むしろ死の恐怖によって導かれた「自然権」が取って代わる。理性主義との断絶は、こうして、主権概念の決定的な前提であるとともに、「法」を「権利」によって置き換えること、すなわち、義務の優位を要求の優位によって置き換えることの決定的な前提でもあるのである。

 こうして、ホッブズは「主権権力を、理性としてではなく、意志として把握することになった」と、シュトラウスは述べる。
 以上、われわれはレオ・シュトラウスホッブズ解釈を見てきたが、要するに彼は、ホッブズの自然人をブルジョワジーとみなし、彼らは自らの身体と生命の安全を守る理由から、主権の設立を行なうものとみているわけである。それゆえ主権者は「所有権に対してすら無制限の処分権」を有しているのだ、とされる。
 レオ・シュトラウスホッブズ解釈の中でとくに注目されるのは、「もともと理性によってではなく、むしろ死の恐怖によって導かれた自然権」という表現である。…すなわち、情念的人間は、自然状態において自然権を行使する場合、その行為を制約するものは死の恐怖であって、理性ではないというのがシュトラウスの解釈の立場なのである。したがって、情念的人間を主権設立へと向わしめるのは、死の恐怖の情念であって、理性ではないという主張にもつながるのである。
 そして、たしかにホッブズも「人々に平和を志向させる情念には、死の恐怖、快適な生活に必要なものを求める意欲、勤労によってそれらを獲得しようとする希望がある」と言っており、「死の恐怖」が平和状態をもたらす主権設立のさいに大きな役割を果す点は疑いない。けれども、ホッブズ自身は、右の引用に続けて、「また人間は理性の示唆によって、たがいに同意できるようなつごうのよい平和のための諸条項を考えだす。そのような諸条項は自然法とも呼ばれる」とも述べている。(p21)