法の支配=異端審問との連続性

『異端審問』渡邊昌美

 中世、薪(たきぎ)の煙や硫黄の燃える匂いは、不吉な連想を誘うのが常だったという。いうまでもない。地獄の劫火は硫黄が燃えているのだし、薪は異端者を焼き殺す火刑台、いわばこの世の劫火を思わせたからである。
 異端審問の極刑が火焙りだったことは誰でも知っているが、その実況を伝える史料は意外に少ない。ただ、一四一五年七月六日、宗教改革の先駆者ボヘミアのフスを処刑した時の様子はよく知られている。(p08)


 むろん、異端審問が魔術や呪術の類に関心を示さなかったのではないが、それは多くの場合、教会の秘蹟に対する冒瀆の面からである。彼らはあくまでも内面の信仰を問題にしたのであって、悪魔という不可思議な外力にはほとんど関心を示していない。猛威をふるったスペイン異端審問にしても、魔女には不思議なくらい冷淡だった。中世末、むしろ近世初め、いわゆる魔女狩りの季節が到来して国によっては異端審問が大きな役割を演じるが、これは今我々が問題にしているのとは一応別の時代相である。(p49)


 法学と神学
 異端審問の外側、あるいは周辺で異端審問の理論化が進展したのも、十三世紀、とくに十三世紀後半期の特徴である。時あたかもローマ法学、教会法学、それにスコラ神学の展開期に当たっている。そこで異端とはなにかの問題もさることながら、異端審問の正当性、端的にいえば信仰の問題を理由に人を処刑してよいかの問題の解決が模索される。(p132)


 調書と手続き主義
 調書の書式は煩雑、しかも厳格をきわめる。ブランシュ・ロードの供述記録の末尾では、これが完全な自発意志による供述であることを執拗に確認させている。前述のように拷問によらないことはもちろん、いかなる示唆も威迫も誘導も受けなかったこと、第三者の利益や不利をはかる意図にも動かされなかったこと、供述にあたっては欺瞞や韜晦を用いていないことを、繰り返し述べさせている。(p192)


 異端審問が普通に思われているほどには恣意的専断的な処断をしたのでないことは見てきた通りだが、判決は「刑罰」という言葉を使っている。審問官たちが刑罰として認識していたことは明らかだが、本来の精神からいえば、火刑は棄てたのだから、そもそも教会とは無関係である。その他は悔悛と贖罪なので刑罰ではないはずなのだ。だから、理屈をいえば、異端審問には贖罪と敬虔のわざしかあり得ないのだが、等級つきの刑罰を宣告する整備された裁判になった。当時としては手続きの点でも記録の点でもおそらくもっとも完備した裁判になった。しかも、一方では本来の精神は捨ててはいないので、同時に霊魂の管理者として手続きを越え得る特権を行使した。(p196)


 異端審問が社会の隅々までを監視下に置いたことは、異端審問が住民の身元証明を発行したことからも推察できる。国家あるいは教会の役職に就任するにあたっては、血統の純潔、つまり先祖代々忠良なカトリック信者であることが必要とされた。その証明を異端審問が発行し、手数料を収入源としたのだ。(p209)


『魔女とキリスト教』上山安敏 講談社学術文庫

 異端審問官は、当時の教会組織の中で信仰と知の両面において最高の知識人であった。彼らは異端裁判のためのマニュアルも書いた。密告をもとに、弁護人の同席のないままに、被告の罪状を事前に決めてしまう異端審問のやり方は魔女裁判に引き継がれるが、魔女裁判にくらべると異端審問の方が審問官と被告とのやりとりが緻密である。合法性の枠の中で被告の自白をひき出し、そうすることで判決の正当性を獲得するプロセスは、現在の法廷技術と共通するものがある。徹底した論理的手続で、被告をキリストの敵という立場に追い込む様子を審議録で読むと、神と悪魔の実在を疑わない審問官の、信仰者としての誠実すら感じられる。と同時に、異端審問は、自白と拷問を導入した近代的訴訟の一環として位置づけられ、ヨーロッパ近代の人間がもつ非人間性を露呈している。
 こうして、社会的恥辱、火炙りの刑、密告、拷問等々、前の時代に知られなかった陰惨な制度が、近代的訴訟の誕生とともに生まれたのである。
 一三世紀に始まる異端審問が、一五世紀から一七世紀にかけて荒れ狂った魔女迫害の水先案内の役割を果たしたことは間違いない。(p177)