ニャー太郎のブログ

休止中。2020年11月13日。

法の支配=魔女狩りとの連続性

『魔女とキリスト教』上山安敏 講談社学術文庫

 ヨーロッパの魔女裁判がなぜ異端審問を媒介にして起ったのか、なぜヨーロッパが資本主義に向けて離陸しようとした一七世紀に魔女裁判が猖獗をきわめたのか、なぜ魔女裁判が、市民階層の誕生に先駆的役割を果した北西ヨーロッパで集中的に起ったのか。その理由として、ペストによる大量死、男女数のひずみ、資本主義への適応のさいの社会生活の変化などさまざまな要因が取り上げられてきた。しかし、とくに女性がターゲットにされ、サディズム的風景が繰り広げられたのはなぜか。この疑問は今日のフェミニズムの運動とも重なる問題である。
 グローバルな視野から見て、キリスト教ほど女性解放や人権の擁護に牽引車的役割を果した宗教はないだろう。ところが信仰が高まった時期に女性への攻撃が激化するのである。この矛盾をどう解くか。(p14)


 キリスト教地中海世界の人びとの心をとらえていた太母神信仰をマリア崇拝に変容させ、そうすることによって母性宗教を裏口から受け入れた。太母神から恐怖とエロスを抜きとり、慈愛と清純の母性像をつくりあげた。マリアの非原罪(処女懐胎)の教えはそのために必要であった。それにもかかわらず、キリスト教にしみついている女性嫌悪の性格は拭い切れなかった。キリスト教は女性祭司を認可するかどうかという問題をつねにかかえている。キリスト教が女性宗教との闘争から布教を始めなければならなかったという歴史の運命は大きい意味をもっている。ここから出発しなければ、魔女の問題もフェミニズムの問題も解かれないのではないか。私は以下において、従来あまり論じられてこなかったこのような問題にできるだけ光をあててみたい。(p15)


 前章で、原始キリスト教が初発の段階で克服すべき敵対者として現れたのが、小アジア地方に由来するディアナ=アルテミス信仰、キュベレ信仰という一連の太母神・地母神宗教であったことを述べた。これらは豊饒神信仰である。空飛ぶ魔女軍団神話の起源になっているヘレニズムの太母神=豊饒神信仰との闘いが、キリスト教にとって重要な布教活動であった。豊饒神信仰に代って啓示宗教として出発したキリスト教が、その神義論においてユダヤ教から受肉していることは、旧約聖書新約聖書キリスト教の正典とされていることからも明らかである。だから、たとえユダヤ教ヤハウェ絶対神からキリスト教の神と父と子の三位一体論への変遷が見られるとしても、ユダヤ教キリスト教は、父権的一神教でくくれることはいうまでもない。(p39)


 魔女は民話、伝承、神話、説話の中で生きてきた。魔女は民衆に恐れを与えるとともに、憧れと喜びをも与えてきた。それは民衆の中の魔女信仰といってよいだろう。そこには善と悪のバランスのとれた信仰がある。魔女信仰は古今を問わずどの民族にも見られる。しかしヨーロッパの魔女信仰は、キリスト教という、悪の体系を厳しく排撃した信仰と出会うことによって歪められ、民衆が魔女に対して抱く観念も徐々に変質していったのである。(p18)


 賢い女性=産婆
 中世では、魔女は「賢い女性」とも呼ばれた。植物の知識と健康法に詳しく、近代科学以前の時代の治療法である呪術を駆使していたのである。
 民間の治療は女性に委ねられており、産婆の任にあたるのはおもに農家の主婦であった。近所の農家の主婦同士が、経験を口で伝えながら、地域ごとの産婆術が形成されていった。産婆術は家事の延長だったのであり、「魔女の厨」という語の由来である。そこには決して悪い魔女というイメージはなく、魔女は病気や出産を含めて家事全体をとりしきる処方箋をもっているとされ、「賢い女性」「名誉ある女性」というイメージがもたれていた。
 「賢い女性」と呼ばれた時代の産婆は、薬草に通じ、出産補助、避妊、堕胎、鎮痛、炎症どめにすぐれ、多くの子供を無事にとりだすことが産婆の腕であった。一六〇〇年頃までヨーロッパでは、お産のさいの女性の姿勢は未開社会のそれと似ていて、立ったままの姿勢、座った姿勢、膝を屈した姿勢だった。この出産の姿態が変わっていくのと、産婆が魔女視されていく過程とが重なる。近世に出産革命が起り、出産は病気の一種であって、出産のさいは床に伏すという観念が、近代医学の影響の下に一般化した。
 出産という、人間にとって極めて重要な行事に、キリスト教が入り込むというのは、もともと難しいことだった。自然宗教と調和した農民の生活にとって、「賢い女性」は生活の貴重なアドバイザーであった。キリスト教会の方は、聖物崇拝やマリア崇拝によって、豊饒神と結びついた異教の慣行にたよった。出産も、大地の豊饒と同じように女性の胎内からの稔りであり、呪術性を帯びていた。産婆の魔術(マギー)は当時の医学とは違い、経験の科学の側面をもっていた。彼らは経験家であり、西洋医学の理論や概念とは無縁であった。それだけに、医者集団にとってある意味で恐るべき存在であった。同時に、近代医学を大学を通じて自己の傘下に収めていったキリスト教会にとっても危険な存在であった。
 農民の生活感覚に根づき、経験の知をもった賢い女性や産婆に対抗するために、キリスト教の側は、自らの自然観を整序しなければならなかった。中世後期のスコラ学は、人間が自然を征服する姿勢を初めて教義の中に体系化した。こうして自然は、人間の労働によって征服されるべき対象になり、自然を畏怖する自然観は遠ざけられた。(p198)


 後述(十五章)するように、神学部では聖書は「書かれた信仰」とされ、法学部では、『ローマ法大全』が「書かれた理性」とされた。そのようにいわれるわけは、いずれもアリストテレスの論理学を使って神学と法学の解釈学を構築していたからである。医学部でも、ラテン語の書物にもとづくスコラ学的体系が重視された。アリストテレスの身体論は、出産、性を蔑視し、女性の劣った体質というような視点で書かれている。(p205)


 カロリーナ法典と刑事訴訟手続
 ドイツの魔女裁判が、都市エリート層まで巻き込む混乱と無秩序をもたらした原因は、裁判の手続と、それを担う裁判官・執行吏に求めることができる。…
 ドイツでは、帝国の統一法典であるカロリーナ法典が施行されたさい、権力構造が分権化していたので、その効果は不徹底なものであった。そのため、近代的な権利擁護の一面をもつこの刑事法典も、魔女裁判には適用されなかった。…
 たとえば、カロリーナ法典では、確かに魔女に対しては火刑に処すると規定しているが、それでも、火刑は現実に損害が生じた場合に限るという制限規定が付されていた。そこで専門の法律家たちは、この条文は魔女に寛容すぎるとして、一五七〇年代からの裁判ではザクセン選帝侯国の法律に依拠することにした。この法律では、魔女はたとえ現実に損害をひき起していなくとも火刑に処すことができた。二〇世紀にヴァルター・ベンヤミンが、「魔女裁判にあたってもっとも悪質だったのは法律家だ」と指摘したのも、そうした歴史的事情があってのことである。この時代、法運用の指導権は、異端審問にあたった教会裁判所の手から世俗の専門法律家の手に移っていたのである。
 カロリーナ法典では、拷問のさいに共犯者の名を告白させることへの制限があった。また、魔女発見の専門家に対し、やりすぎを予防する策も講じられていた。法典は、「魔術あるいは他の術によって透視することができると自白した者が他人の名前をあげたからといって、何人をも逮捕あるいは拷問を行ってはならない」としていた。しかしこれらの制限規定はのちになくなった。
 一六〇〇年頃には、魔女の容疑者に対する尋問法が決っていて、裁判官は形式通りの尋問をするのが通例になっていた。この尋問方法は、異端審問からと、『魔女への鉄槌』からとの両方からきたものである。魔女事件は通常の刑事犯でなく、異端=例外犯だという社会通念が固定し、法的保護は無力になっていた。(p222)


 「魔女は生かすべからず」への回帰
 ヨーロッパの知性と理性を代表する当代随一の経世学者ボダンは、秩序重視の人であった。彼が魔女裁判のさいに法の濫用を禁じたのも、秩序を重んじたからだった。彼は『魔女論』の第四章、「魔女の審問」について語っている。「その(魔女の)ような恐るべき犯罪の場合には、他の犯罪と違って判決が異常であってもやむをえない。……さし迫った危険こそ異常な裁判手続を正当化するものだ」。一世紀前、『魔女への鉄槌』が、通常の法手続の逸脱を「神への冒瀆」であるとして戒めたのに対して、ボダンの『魔女論』では「社会秩序の危機」に代えた。
 このように、ボダンの『魔女論』は『国家論』や宗教的寛容論と一見矛盾しているように見えながら、彼の思想の根底では連結していることが分る。『魔女論』を読まなければ『国家論』が理解できないほど、両者の構成要素は入り組んでいる。『魔女論』は『国家論』の著述の最初から構想が準備されていたのである。
 彼の思想がヨーロッパのあらゆる悪魔学の根拠になり得たのは、その著がユダヤ旧約聖書に拠っているからである。つまり、神自らが「魔女を生かしておいてはならない」という神法(『出エジプト記』二二・一八、『レビ記』二〇・六、『申命記』一八・一〇―一四)を残しているのである。彼のカバラ人文主義への関心は、この旧約の原点に帰ることにあった。その点で従来の教会悪魔学者より迫力をもっていたし、対ヴァイアー論争でも十分威力を発揮した。彼はすでにパリの高等法院の弁護士時代から魔女裁判の記録を調べ上げ、魔女事件を収集していたのである。…
 ボダンが魔女の断罪のために「悪行」を列挙したとき、彼は、近代法に見られるように、悪魔と契約をした魔女の自由意思と責任能力を前提にした。こうして近代法原理の中に魔女をも包摂する形をとって、社会秩序を脅かす魔女を死刑に追いやることができたのである。(p282)


 魔女狩りの推移
 魔女は世俗権力とキリスト教会によって徹底的に適発され追放されたのに、民衆とくに農民の間で生き残った。古来、魔術、妖術、魔女と呼ばれてきたものが、民衆の間では魔女信仰として生きていた。…
 確かに宗教改革は魔女迫害に拍車をかけた。脱魔術化を徹底させ、そのために聖書に戻って悪魔の存在の重要さを民衆に認識させた。ところが宗教改革の押し進めた宗教の世俗化は信仰を稀薄にし、魔女狩りが衰退する種をまいた。
 裁判による魔女狩りは啓蒙期には終息した。そして魔女信仰は表面には現れない秘教になったのである。古くから伝承された様々の秘術は、大抵家族を通じて継承されている。一六、一七世紀の魔女狩りの渦中で魔女の家系が狙われたのも、魔女の術が女系を通じて伝達されるとみられていたことを示している。
 一八世紀に迫害がやんだとき、キリスト教自体の信仰も薄れていった。と同時に古い魔女信仰への記憶も消えた。ステロ化された魔女の定型は迷信として侮蔑の対象になった。魔女たちのつながりは消滅し、いまやその知識を互いに伝えたり、呪術や儀式を交換するために祭を催すこともできなくなった。伝承は各地で失われ、忘れ去られていった。
 しかしヨーロッパでは、完全に伝承が断ち切られたわけではない。魔女の伝承は閉ざされた密室で秘かに伝えられていた。メルヘンや民謡の形で一般の人びとにうたわれ、無意識の記憶の中に沈澱していった。(p320)


 ミシュレの魔女観
 異教がキリスト教社会の基層で生きていることを、グリムは『ドイツ神話学』で人びとに知らせたが、その見解が魔女裁判研究にもちこまれ、魔女狩りとは反キリスト教的ゼクテに向けられた抑圧であるとする見方は、一九世紀の二〇年代から三〇年代、フランスとドイツに相互の脈絡なしに現れた。
 豊饒信仰と魔女とを結びつけたのは、ロマン主義創始者ともいうべき、フランスの民衆史家ジュール・ミシュレであった。…
 ミシュレは、農奴制にあえぐ女性という二重に疎外された魔女を描き出している。と同時に、魔女が民衆の基層に生き続けていることを示した。(p324)


 一九七七年一一月にイタリアで、一女性への暴行から始まった女性たちの抗議デモが街路を埋めた。このとき女性たちは、魔女の衣装を身にまとい、「震えろ、震えろ、魔女が戻ってきたぞ」と書いたプラカードを掲げたのである。それ以来旧西ドイツでも、毎年四月三〇日のヴァルプルギスの夜、つまり魔女たちがブロッケン山に集まって酒宴を催すといわれる夜、女性の集会が催された。こうして魔女は女性の抵抗運動のシンボルになった。ヨーロッパの女性にとって歴史的経験であった魔女迫害という心的外傷(トラウマ)が、今日の情況の中で疼き出したのである。(p352)