法の支配=私刑(リンチ)

『性と暴力のアメリカ』鈴木透

 リンチの系譜――自警団・人種隔離・死刑制度

 リンチの起源と特徴
 アメリカ独立革命後、連邦政府の軍備縮小の流れは、連邦政府の治安維持機能を低下させ、各地に民兵組織である自警団の結成を促した。拡大するフロンティアに行政や司法は追いつかず、共同体の自衛手段として、自警団による私刑が横行するようになった。この民間人による超法規的な暴力の伝統が、その後のアメリカ社会に受け継がれていく。
 自警団が警察に代わって犯罪者を捕らえ、裁判所の代わりに暴力で刑罰を与えることを、「リンチ」と呼ぶ。この名称の由来は、ヴァージニアに入植したチャールズ・リンチ(一七三六~九六)にあるとされる。(p81)


 だが、警察権も裁判権もない自警団が制裁を加えるには、相応の理由が必要になる。このことは、リンチの特徴を自ずと規定していく。
 その特徴は第一に、何らかの理由で共同体の安全にとって脅威となる人物に対して行われる集団的暴力であったことである。リンチの大義名分は、共同体の秩序の維持にあり、自警団は共同体の意志を代行する存在として、暴力を発動する正当性を確保していた。つまり、リンチは共同体の多数意志に従って、一部の少数の人間を排除するものであった。
 第二に、リンチは緊急避難的・超法規的な暴力であり、容疑者の排除を最優先していた。自警団は、犯罪の有無を厳密に立証することには、ほとんど関心を寄せない。リンチの正当化は、共同体の側が危害を加えられるかもしれないという脅威を感じているかが基準であって、犯罪の匂いさえあれば、共同体はリンチの大義名分を確保できた。「疑わしきは罰する」のがリンチなのである。
 リンチは、共同体の安全という大義名分を掲げて、共同体の多数意志を代弁する自警団が、超法規的に集団で少数の人間に対して行う「私刑」であった。だが、住民が根拠のない噂で煽動され、リンチに発展することもあった。また、本当に共同体の多数意志を代表しているか微妙な場合ももちろんあった。少数意志しか代表していない集団が超法規的暴力に走る場合、むしろそれはテロリズムと言ってもいいだろう。(p82)


 排除から処刑へ
 リンチの目的は、刑罰を与えて共同体から排除することにあったが、一八三〇~五〇年代にかけて、主として西部の鉱山町や南部では、次第にリンチは処刑をともなうように変質していった。
 一八四八年のカリフォルニアでの「ゴールドラッシュ」に象徴されるように、十九世紀半ばは、西部各地で金などの鉱物資源が発見され、多くの人びとが西部に向かった時期である。鉱山に隣接した俄づくりの共同体では、いざこざが絶えなかった。そのため、無法者の排除をより徹底するために、リンチは処刑という究極の手段に訴えるようになっていったのである。
 一方、同時期の南部は、北部で力を増してきた奴隷制廃止運動に神経を尖らせていた。とりわけ、南部からの黒人奴隷の逃亡を手助けするネットワークが密かに形成されるようになると、南部の奴隷主は、自らの財産である奴隷を失う危機に直面した。逃亡は、奴隷個人の力では無理であり、背後に北部とつながりのある協力者がいたことは疑いようがなかった。そのため、南部でも、奴隷の逃亡に加担した疑いのある者に対し、処刑という制裁を加えるようになっていく。(p83)


 黒人へのリンチ
 十九世紀後半になると、処刑をともなうリンチは、南部に集中するようになる。…
 リンチに関する記録は不十分で、現在でもその実態は完全にはつかめていないが、記録に残る限り、一八八二年から一九五〇年代まで、リンチの82%は南部で行われ、その南部のリンチの72%で、黒人が犠牲者となっている。十九世紀末には、全米で年間約一五〇件のリンチが起こっていたことがわかっているが、その大半は、南部で黒人を標的に行われていたと見てよいだろう。(p84)


 一般にリンチは、黒人に対するものがよく知られ、当初より黒人をターゲットにした暴力と考えられがちである。だが、先に指摘してきたように、リンチは本来、共同体が脅威と感じた人物に向けられたもので、特定の人種を標的にしてはいなかった。
 実際、黒人の多くは、当初は標的にできなかった。なぜなら、黒人の多くが奴隷であり、奴隷は、白人の主人の財産だったからである。黒人奴隷に危害を加えることは、主人である白人の財産を「破壊」する行為であり、場合によっては白人同士が対立することを意味した。奴隷制の時代、黒人への暴行は、主人である白人からのものであった。それは、たしかに「私刑」ではあったが、リンチのような吊し上げではなかったのである。
 ところが、南北戦争で南部が敗北し、奴隷制度が廃止されると、南部の白人社会は、黒人の社会進出で自分たちが没落することに警戒感を抱きはじめる。生意気な黒人に思い知らせてやろうという雰囲気が、白人社会を包み、独立した個人となった黒人に対してリンチが行われるようになるのである。(p85)


 KKKの登場
 KKKは、白装束で身を包み、黒人や黒人に協力的な白人に対して主に夜間に襲撃するのを得意とし、多くのリンチを行った。彼らは、共同体の多数派である白人たちの黒人への敵意を代弁し、少数派を標的にした超法規的・組織的な暴力を行使したのである。だが、南北戦争直後は、南部は北部勢力の監視下に置かれていたので、取り締まりが厳しくなり、いったんは数年でKKKは消滅した。
 だが、KKKの取り締まりでは、黒人へのリンチを根絶するにはいたらず、逆にリンチの主体が自警団から一般市民になるという結果を招いた。…
 それは、しばしば、不特定多数の一般市民による、群衆リンチにも発展した。群衆リンチでは、集団で暴行を加えた後、木に吊るし、火をつけるという残酷な仕打ちが行われることもあった。しかも多くの場合、それは予告され、一種の見世物のようでもあったのである。(p87)


 「ジム・クロウ」の施行
 KKKの復活にもかかわらず、十九世紀末をピークに、黒人へのリンチの件数自体は、次第に減少していった。これには、黒人側が全米黒人地位向上協会(NAACP)を通じてリンチ撲滅運動を組織的に展開したことも関係している。だが、それは、リンチを行う必要性が低下したからであった。ここで注目したいのは、リンチが減少する時期と黒人を隔離する時期が一致していることである。
 南北戦争での敗北によって、南部は奴隷制度を廃止し、黒人への人権侵害を是正することを連邦政府から求められた。しかし、一八七七年を境に、戦後復興を監視してきた北部勢力が南部から撤退すると、南部は、黒人に抑圧的な社会制度を復活させる。合衆国憲法で保障された黒人の選挙権は事実上剝奪され、解放奴隷は貧しい小作人の地位に留め置かれた。そうした黒人に対する抑圧政策の一つに、「ジム・クロウ」(Jim Crow)と呼ばれる法律があった。
 ジム・クロウとは、公共の場所での白人と黒人の施設の分離を定めた法律の総称である。その語源は明らかではないが、十九世紀末には南部各州でこうした法律が導入され、学校や鉄道、公衆トイレなど、公共のいたるところでの人種隔離が定められた。(p89)


 リンチ型戦争の時代

 リンチと戦争の類似性
 すでに指摘したように、暴力の特異国の伝統は、二〇〇一年以降のブッシュ政権に見られる死刑容認と環境保護への消極姿勢の背後にも流れている。ここで興味深いのは、ベトナム戦争での敗北によって、一九七〇年代後半のアメリカが対外的軍事力の行使を手控えていたのに対し、一九八一年に発足したレーガン以降の各政権が、外国に対して軍事力を積極的に行使する姿勢へと再び転じたことである。
 国内の暴力の悪循環を断ち切れないでいる国が、冷戦終結後の唯一の軍事超大国として戦争をはじめるとき、暴力の特異国の伝統が国境の外に漏れ出していく危険性は、以前よりも高まったのではないだろうか。
 実際、アメリカにおける暴力の伝統の重要な要素であるリンチには、戦争との類似性が見られる。まず、両者とも、何らかの大義名分を掲げて法規を無視し、暴力を正当化する傾向がある。リンチも戦争も、共同体の多数の支持があれば、正義の名のもとに正当化されやすい。また、両者とも、人権無視の集団的暴力と言える。
 そもそもリンチは、自警団という民兵組織がはじめたものだった。つまり、リンチは、「私刑」とはいえ軍事行動の一形態でもあった。とすれば、リンチの伝統がアメリカの対外戦争のなかにも生き続けている可能性は排除できない。(p211)