武士道と教育勅語

山岡鉄舟』大森曹玄

 『武士道』と教育勅語

 前にも述べたように、鉄舟は、亡くなる前の年(明治二十年)に、門人である前滋賀県知事、籠手田安定の求めに応じ、何回かに亘って武士道を講じている。大悟してから六、七年、一切に自在を得たという四十九歳からさえもニ、三年を経ているのであるから、そこには完成された鉄舟の思想が盛られているといってよいであろう。
 この『武士道』は明治二十八、九年頃、その一部が新聞や雑誌などに掲載されたというが、明治三十五年一月、勝海舟の評論を添えて単行本として出版されている。
 この講和を世人はあまり注意していないが、明治二十三年に渙発された教育勅語に深い関連があるものとおもわれる。というのは元田永孚とは別に、教育勅語の草案を作成したものに法制局長井上毅がいるが、その井上が毎回鉄舟の「武士道講和」を聞いているからである。
 渡辺幾治郎氏の『教育勅語渙発の由来』によれば、草案は文部省作製のものと、井上案と元田案の三種類があったという。そして「以上、三通の草案のどれが真の勅語の原案となったものか、私はいまだこれを判定し得ないが、井上案と元田案とが原案になったのではあるまいか。しかしこの二案の何れが主となったか、充分に明瞭でない」と述べている。もちろん、三通の中の一案だけが原案として採用されたということはあり得ないとおもうが、井上案、もしくは、井上の修正意見が相当に重く見られたことは、鉄舟の『武士道』の中に、次のような字句があることからも想像できる。
 まず第一章に「武士道の要素」として "四恩" が強調されているが、その中の「ニ、国王の恩」という項に「天壌無窮の神宣を信奉し、皇運を扶翼し、古往今来、幾千万載、億兆心を一にして、死すとも二心なるべからず。是れ我が国体の精華にして、日本武士道の淵源、実に玆に存す」とある。
 また、第四章の第一項に「武士道起因の要素」を論じているが、そこにも「謹で惟みるに、我が皇祖皇宗、此国をしろしめさえ、其御徳を樹て給う事甚だ深遠である」とか「爾来、億兆心を一にして、世々其美を済し」云々の語がある。
 このような字句、あるいは考え方の相似を求めるならば、外にもまだ相当にあるが、偶然の一致というにしてはあまりにも似すぎている。と、いったところで、私は鉄舟の思想が井上を通じて教育勅語の草案に全面的に盛りこまれたと、性急な断定をしようとは思わない。だが、鉄舟の用いた言葉がたとえ無意識にもせよ、井上を通して草案に用いられているということは、鉄舟の武士道論が井上の草案に思想的の影響を全く与えなかったとはいえない、何よりの証拠だとおもうのである。
 それでは鉄舟は、武士道なるものをどう考えていたのであろうか。
 彼は第一章の「序談」というところで、籠手田の要請に答えて総論的なものを述べている。それはわずか三ページほどの短いものではあるが、その中には、それ以下の各論においてよりも、貴重な彼の見解が端的率直に圧縮して述べられている。
 彼は劈頭に、
 「拙者の武士道は、仏教の理より汲んだことである」
 といっている。仏教の理といったところで、鉄舟がどの程度まで理論仏教を研究していたか知らないが、これはむしろ "禅の理" と解してよいのではないかとおもう。つづいて、
 「それもその教理が、真に人間の道を教え尽くされているからである」
 といっているが、そこに彼が「仏教の理」なるものをどう考えていたのかが窺われる。その当然の結果として、
 「日本の武士道という事は、日本人の服膺践行すべき道というわけである」
 ということになる。
 鉄舟にとって "武士道" とは、かつての武士たちが究明し実践したところの、武士社会の倫理でもなければ、またその主従間の道徳でもない。それは時の過去と現在とを問わず、また士農工商階級差別に関係なく、広く日本人たるものの踏み行なうべき人間の道なのである。同時にそれは、人類全般にも普遍的に妥当する「人間の道」だともいえるのである。こういうのが、鉄舟の武士道の本質である。これがただの説話ならば、徳川期の講壇哲学者も言ったり書いたりしていることで、必ずしも珍しいものではない。しかし私は、これを鉄舟の単なる知的な見解とは考えたくない。八、九歳にして母から受けた「神心に浸みわたる」ような感激的な教訓と、十三歳にして父から与えられ終生実践した厳誡とが、四十余年の間に彫身鏤骨されたその結晶だと考えたい。
 それは、彼の次の言葉を見れば肯かれるとおもう。
 「世人が人を教うるに忠、孝、仁、義、智、信とか、節義、勇武、廉恥とか、或は(中略)これらの道を実践躬行する人を乃ち武士道を守る人というのである。拙者もそれには同意である。しかし拙者には尚、他に自信するところがある。その義も似たようなことであるが、物あれば則あるという如く、人のこの世に処するには、必ず大道を履行せなければならぬ。故にその道の淵源を理解せなければならぬ」
 彼も始めは父母の教訓である "忠孝" というものを、一つの徳目としてこれ何ぞと究明したことであろう。形の上では剣、心では禅によって、如何、如何と忠孝を究め来たり、究め去っていくうちに、ついにそれらの諸徳目を貫くところの "則" 、別な言葉でいえば "大道" に当面し、その "淵源" に到達したのだとおもう。「行いては到る水の窮まるところ、坐しては看る雲の起こる時」という。そのように行き行いて鉄舟は、ついにその "大道の淵源" を究めた。彼はそこに確乎不動の ”自信” を得た。では、その則とか大道とか淵源などと呼ぶところの根源的なものとは、いったいどんなものであろうか。
 彼は、こういっている。
 「其の道の淵源を知らんと欲せば、無我の境に入り、真理を理解し、開悟せよ、必ずや迷誤の暗雲直に散じて、忽ち天地を廓朗ならしむる真理の日月存するを覩ん、爰において初めて無我の無我たるを悟らん」
 この文章では "無我" が「真理を理解」する手段のようにもとれるし、そうかとおもうと、「無我の無我たるを悟らん」とあって、無我が目的であるようにもとれるので、ちょっと説明に困るが、私は "無我" が「その道の淵源」だと解しておく。
 ずいぶん持って廻った言い方をしたが、私の理解するところによれば、鉄舟は武士道と呼んだ人間の道は、忠とか孝とか、仁とか義とかいう既存の徳目の一つ一つを対象的に実践することではない。その底を貫くというのか、それらを超えて包むというのか、とにかくそれらの相対的な一々の徳目を成り立たしめる根本原理を体得し、実践することをいっているのである。それを一言にして言うならば、その根本原理が「無我」なのである。
 それが教育勅語の「之ヲ古今ニ通ジテ謬ラズ、之ヲ中外ニ施シテ悖ラズ」というところのものに相当するのかどうかは別として、もし井上案に鉄舟の武士道論が資料として用いられているとするならば、教育勅語の復活は軍国主義に通ずるなどという考えは、全くいわれのない妄断だというほかはない。
 道元禅師は『正法眼蔵現成公案』の中で、
 「鳥もし空をいづれば、たちまちに死す。魚もし水をいづれば、たちまちに死す。以水為命しりぬべし、以空為命しりぬべし、以鳥為命あり、以魚為命あり、以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし」といい、そしてさらに「水をきはめ、空をきはめてのち、水空をゆかんと擬する鳥魚あらんは、水にも空にも、みちをうべからず、ところをうべからず。このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり」
 といっている。
 実践的に道を把握しようとするものにとっては、当然にこうなるのである。忠といい、孝というような、既設のレールが対象的に存在して、そのうえを歩くのが武士道でもなければ、人間の道でも決してない。無我という原理に立つとき、親に対すれば、そこにおのずからに孝という徳が現成するのである。無心に君に対するところに、巧まずして忠が現成するのである。それが禅の教える現成公案というものであり、また鉄舟の教える武士道なのである。
 禅に徹し、一切に自在を得た鉄舟の武士道とは、実にこのような人間としての根源的な大道を把握して、それを日常生活の上に無礙自在に実践することであった。まことに鉄舟は、単なる一介の武弁ではなかったのである。(p188)