人権論と女性の権利の擁護

ジェンダーと人権』辻村みよ子

 ところが、産業革命の進展による深刻な社会問題を抱えて激動していた一八世紀末のイギリスでは、フランス革命の影響に対する反発が強く、エドモンド・バークが、まずその『フランス革命に対する省察』(一七九〇年)のなかで、ルソーの教義や一七八九年人権宣言の形而上学的性格・抽象的性格を批判した。さらに、功利主義の立場にたつベンサム(J. Bentham)は、自然権という考えかた自体が全くのナンセンスであるとして、その『詭弁論』(一七九六年)のなかで一七八九年宣言に対する痛烈な批判を展開した。このような「人権」批判は、当時のイギリスの保守主義的傾向によって歓迎されたが、これに対して真向から反対して、最初に『人間の権利の擁護』(一七九〇年)を書いたのが、『女性の権利の擁護』を著したことで有名なメアリ・ウルストンクラフトである。没落した中産階級出身の彼女は、ロンドンに出て女子教育等に関する著作で身を立て、フランス革命や急進主義者たちの影響をうけるうち、バークの『省察』に対して義憤を覚え、一気に反論を書き上げた。その『人間の権利の擁護』では、バークとは対象的に、抽象的な人間の生得の権利を称賛しつつ、それを歪める私有財産制を批判し、合理主義の立場から男女の理性の覚醒によるよりよい社会の建設を主張した。さらに、バークの保守主義が女性蔑視と結びついていたことから、これに対する批判論を女性の問題にあてはめ、二年後に『女性の権利の擁護』を執筆した。
 当時のイギリスでは、女性は「ほとんど教育らしい教育も与えられず、しかも厳しい法の拘束のもとで常時依存状態におかれて」いた。その法的地位は概ね「未成年の子どもと同じ」であり、家具や家畜のように譲渡の対象とされた慣習も報告されている。妻は自己の財産処分権・管理権をもたず、固有の財産もすべて完全に夫のものになったが、寡婦になれば一定の寡婦財産を相続して「自由の身」になることができた。政治や職業などの公的生活からも法と慣習によって締め出されていたが、法的根拠が十分確立されていない面もあった。(p62)